閉鎖病棟
神崎功一はただぼんやりと眺めていた。揺らめきながら霞んでゆく、一筋の煙を。その先にあるのは、蓄積されたヤニだ。
功一の瞳は虚ろだった。煙を追うでもなく、宙を泳いでいる。それに彼の居る空間の狭さと言ったらどうだ。古ぼけたテーブルを囲むように、無機質な丸いすが三つ。テーブルの上には水を張った灰皿。そして、そこを囲う空気の淀みようは、まるで夏のアオコの浮いた沼を連想させる。
功一はおもむろに煙草を吸った。灼熱の火が真っ赤に燃え上がる様は、そこだけ生命感を強調させていた。そしてまた、吐き出される紫の帯。時間さえも淀んでしまいそうだった。
「バタン!」
安普請の扉が開き、そして閉まった。誰かがこの小部屋に入ってきたのだ。
「はじめまして。こんにちは」
入ってくるなり挨拶をしてきたのは、二十歳そこそこの女であった。化粧こそしていないものの、ミニスカートに臍だしルックと、男にとって目のやり場に困る出で立ちをしているではないか。そして、大きな瞳に、通った鼻筋、少し厚めで色気のある唇と、顔立ちは美しかった。ここのところ心の動くことがない功一だが、その時は確かにそう思った。
「ああ、こんにちは」
功一は愛想よく、笑顔で答えた。先ほどまで無表情だった顔の筋肉が緩む。
「私、今日入院してきたの。精神病院なんて始めてだからわからないことも多くて。良かったら、いろいろ教えてくれない?」
女は功一の隣に座ると、細身のメンソール煙草を取り出し、机に括り付けられたライターで火を点けた。女が「ふーっ」と煙を吐く。二つの煙がもつれ合うように、天井へと伸びていく。こうして天井のヤニは蓄積されていくのだ。
「教えて欲しいって、何を?」
功一は女がそのような格好をしているのも関わらず、好奇の目を向けなかった。あれだけ虚ろだった瞳が、むしろ優しさを湛えているではないか。
「ほら、食事の時にお茶を汲む順番とか、いろいろオキテみたいなもの、やっぱあるんでしょ。ここでも?」
「ああ、そういうことか……。確かにあるよ、そういうの」
「やっぱりねぇ……。先生はゆっくり静養しなさいって言ったのに……」
女はつまらなそうに煙を吐く。
「ここだって閉鎖的な世界さ。力関係が微妙な均衡を保っている感じだもん。ところで、あんたは格好といい、病気には見えないけどなぁ」
すると女は左手のリストバンドを外した。そこにあるのは蚯蚓腫れのリストカットの跡だった。
「私、これでもうつ病なのよ」
「じゃあ、仲間だ」
功一が屈託のない笑顔を浮かべて、右手を差し出した。その仕草がどこかの居酒屋に居る酔っ払いのようでもあった。女も微笑を浮かべて右手を差し伸べる。
「私、野原こずえ。アダルトビデオのお仕事をしていたの」
「アダルトビデオ?」
功一が丸いすからずり落ちそうな勢いで驚愕した。
「何、驚いているのよ。そんなに珍しい、AV女優が?」
「いや、俺もアダルトビデオにはお世話になったことはあるけどさぁ。まさか、その……」
功一の顔が見る見るうちに赤面し、しどろもどろになる。
「あんた今、心の中で、私の服を脱がせてるでしょ?」
「え、あ、はい……」
「正直でよろしい」
こずえが「ぷっ」と笑った。功一は思わずむせ込む。功一にしてみれば、心の内側の鍵をちょいと悪戯された印象だった。だが、こずえは微笑を絶やさない。
「ところで、あなたのお名前は?」
「僕は神崎功一。しがない公務員さ」
「お役人なの?」
「僕は下っ端でね。いつも庁舎の修繕とかさせられているから、工務店の公務員」
「あはははは……、面白い人。そんな面白い人がなんでうつ病なんかになるわけ?」
「ただでさえ忙しい部署なのに、市議会が始まると、議員のセンセイ方が質問を用意するんだ。その回答作りに毎晩残業さ。一週間に五十時間以上は残業してたな。家に帰るのは日付が変わってからさ」
功一が宙を見上げ、目を細めた。
「お役人って、定時になったら帰れるもんだと思ってた」
「確かにそういう部署もあるけどね。現実は楽じゃないよ。お陰で入院して二ヶ月になるもん」
功一は二本目の煙草に火を点けていた。こずえも一本目を吸い終え、二本目の煙草を取り出す。そこへ功一がすかさずライターを翳した。
「ありがとう。商売ヌキでこんなことしてくれるなんて、優しいんだ」
「そんなつもりじゃないよ。今や嫌煙ブームだからさ、お仲間同士じゃないか」
そう言う功一の瞳は、やはり優しい。ややもすると、気後れするくらいの優しさを湛えている。
「ねえ、これから荷物の片付けとか済ましてくるから、夕食前くらいにゆっくりお話をしない?」
「いいよ」
こずえは吸いかけの煙草を灰皿の中の水に放ると、振り向き様に手を振り、扉の向こうに消えていった。扉の閉まる音が先ほどとは違い、功一には無骨な音に感じなかった。
神崎功一は今年で二十八歳になる。神奈川県下の、とある市に勤務する地方公務員だ。先ほど、彼が述べたように、一週間に五十時間を超えるハードな残業をこなしていた。
それは突然訪れたかのようにも見えた。会議の直前になり、目がグルグル回るのだ。嫌な脂汗が額、掌、いや全身から滲み、心臓の鼓動が鼓膜を直接刺激した。それは動悸となり、口から心臓が飛び出そうになるほどだった。
その日、功一は市役所を早退し、かかりつけの内科に受診したが、どこも異常は認められなかったのだ。だが、馴染みの医師は疑って言った。
「もしかしたら、心の病かもしれませんよ」
考えてみれば、こうなる半年の間、ロクに眠れていなかった。寝つきが悪く、寝汗をかきながら早朝に目が覚めるのだ。そして、決まって見る、追いまくられるような嫌な夢。
そんなだから当然、昼間は脳の活動も著しく低下し、仕事の能率は悪かった。ただでさえ厳しい上司に叱責される回数は増え、職場で過ごす時間が苦痛になっていたのも事実である。
内科医に紹介されたのが、秦野市内にある精神病院だった。比較的大きな病院で、入院設備も整っている。門構えも立派だった。
功一は紹介状をもらっても、すぐに受診するのを躊躇った。ただでさえ精神科への受診は敷居が高い。加えて、その病院は地元でも有名な病院で、秦野市出身の功一としては、近所で噂が立つことも気になったであろう。しかしそれ以上に、親の落胆する顔が浮んだのだ。
功一が公務員になったことを一番喜んだのは両親であった。父親は不安定な建築業をしていた関係もあり、子どもには食いはぐれのない職に就かせたいという想いが強かった。そんな息子が精神病院に罹り、近所でも噂になったら、親はさぞ嘆き悲しむだろうと功一は思ったのだ。
だが、実際に電話してみると、父親の答えは呆気なかった。
「早くその病院へ行け」
功一は父親のその言葉に後押しをされるように受診した結果、うつ病と診断され、即入院となったのだ。大学にストレートで合格し、公務員になったという経歴の持ち主の功一である。それまで順風満帆だった功一の人生はここで暗礁に乗り上げた。少なくともその時、功一にはそう感じられたのだ。
功一は入院してから「閉鎖病棟」と呼ばれる、自由に出入りが出来ない病棟に籍を置くことになった。主治医の説明ではゆっくり静養するために、外部の刺激を遮断するのだとか。それでも、まるで防弾ガラスのような扉の鍵が音を立てて閉まる時、功一は世間と隔絶された感覚を覚えたものだった。
入院から二ヶ月。寝ては起きての生活の繰り返しだった。特に外科のように手術痕が癒されるわけではない。内科のように内臓の検査数値が良くなるわけでもない。一週間に一回ある主治医との面接では当たり障りのない話。果たして本当にうつ病が良くなっているのかどうか、功一にも実感できないまま二ヶ月が過ぎていった。
主治医は薬物療法と静養がうつ病には大切と言っていたが、病棟は心底静養できる環境ではないと功一は思っていた。看護師の目の行き届かないところで、患者同士の小さなトラブルは頻発していたし、牢名主のような患者は常に悪態をつく。力関係のヒエラルヒーは社会の縮図のようにも思えるが、アウトローの集団にも思える。何とも気の置けない集団だった。だから功一は食事と喫煙以外は、なるべく病室で過ごすようにしていた。
ただ、毎日することがないというのは、発狂しそうなほど気の遠くなる時間だった。かと言って、プログラムに参加して人と接するのも煩わしかった。この時、功一は時間で満腹であった。そのことを主治医に告げても「そのくらいで丁度いいんですよ」と返されるのが、ここのところ不満に思ったりもしている功一であった。
功一が夕食の時間より早めに食堂に出てくることは珍しい。それも、こずえとの約束があるからだ。だが、功一が食堂に出てきた時には、既にこずえの周囲には野獣のような瞳をぎらつかせた男性患者たちが取り巻いていた。その中には牢名主のような患者もいる。
取り敢えず、功一は少し離れた席に着き、新聞を広げた。新聞は毎日、病棟に届くのだ。特に新聞を読みたかったわけではない。耳はこずえとそれを取り巻く男性患者たちに向けられている。
するとどうだろう。そこに咲いていたのは猥褻談義だった。こずえはアダルトビデオに出演していたことを吹聴しているではないか。それに男性患者たちが食い入るように聞き入り、質問をしている。聞けば赤面するような話をこずえは堂々とし、男性患者からは歓声が上がる。
功一は軽く咳払いをした。それに気付いたのか、こずえがチラッと功一の方を見た。だが、既に男性患者たちの勢いは留まることを知らず、次から次へとアダルトビデオの撮影現場のことなどで質問攻めにする。
功一は新聞の陰からこずえの表情を見た。それは何とも活き活きとしているではないか。
「昔取った杵柄、か……」
功一が唸るようにつぶやいた。そのこずえの気持ちがわからなくもない功一であった。現在の部署に人事異動になる前には、第一線で仕事をこなし、上司からの信頼も厚かった。それなりに仕事をこなしていたプライドもあった。そんなプライドと同じように、今のこずえにはアダルトビデオに出演していたことが誇りなのかもしれないと功一は思う。このような環境に置かれて尚、アイデンティティーを保つにはその話をするよりほかにないのだろう。
だが、功一の心の中は釈然としない。この時間の先約は彼にあるのだ。功一は恨めしそうな目で男性患者たちを見つめた。
すると、それに気付いたこずえが立ち上がった。
「はい、もうアダルトビデオの話はお仕舞い」
そして、功一の方へと歩み寄る。
「ごめんね、お待たせ。一緒に煙草吸う?」
「ああ……」
功一とこずえは連れ立って喫煙室へと向かった。その後を二人の男性患者が付いて来て、一緒に喫煙室に入った。だが、功一とこずえは気にせず話し始めた。功一はこずえの煙草にライターで火を点けてやった。
「ごめんね。気にしてる?」
「いや、別に……。でもあまり刺激的な話は避けた方がいいんじゃないかな。そうは言っても、ここは精神病院なんだぜ。心のバランスを崩す奴がいないとも限らない」
功一は責めるふうでもなく、さらっと言って退けた。こずえは口を「へ」の字に曲げて困惑したような表情をし、頭を掻いた。
「私が私らしくいられる時って、ああいう話をしている時なのよね」
「わかるよ、その気持ち……」
「ああ、ダメね。決別したつもりなのに。アダルトビデオのせいで病気になったんじゃない」
こずえが頭を抱えた。左手のリストバンドが痛々しい。
「親御さんにアダルトビデオのことは?」
「当然バレたわよ。そうしたら、お前は狂ってるって言われてね。まあ、うつ病になっていたんだけどね」
「やっぱり辛いの、あの仕事?」
功一が心配そうな顔をしてこずえの顔を覗き込む。
「うーん、仕事自体は楽しいかな。そりゃ、楽しくなきゃ、やってられないわよ。でもやっぱ虚しいのよね」
こずえがため息まじりに煙を吐き出した。一緒に入ってきた二人の男性患者は煙草を吸うわけでもなく、ただ突っ立っている。その二人のこずえを舐め回すような視線と言ったらどうだ。煙がその二人の方へ流れた。
「そうか、虚しいか……」
「でも、あなたはいいわよね。市民のために働いているんだもの。やり甲斐もあるでしょう?」
「そんな格好いいもんじゃないぜ。結構、一般常識とズレていることがまかり通るのがお役人の世界なんだなぁ……。数字ですべて片付けられちゃう感じ」
この時、功一は笑っていた。功一は自分でも不思議に思う。入院して以来、笑ったことなど果たしてあるのだろうかと。しかも、仕事の話をしながら笑う自分に驚いていた。
(もしかしたら、俺のうつ病は良くなっているのかもしれない……)
そんなことをこずえとの会話で実感していた。もし、それが本当だとしたら、その引き出しを提供してくれたこずえに、感謝しなければならないと功一は思った。
「もっと、エッチな話をしてくれよ!」
一緒に喫煙室に入ってきた男性患者の一人が痺れを切らせ、こずえに叫んだ。だが、こずえはその男性患者を一瞥し、言い放った。
「私はこの人と今、話をしているの。もう、エッチな話はお仕舞いよ!」
それでも二人の男性患者は喫煙室から立ち去ろうとしなかった。功一は知っていた。この二人は煙草を持っていないことを。喫煙本数が制限され、夕方には煙草がなくなってしまうのだ。だから、煙草を他の患者にねだったりして、よくトラブルを起こしていた。喫煙室には喫煙しない者の入室は禁じられている。
功一はテーブルの灰皿に目を遣った。吸殻が山のようになっている。功一は喫煙室の扉を開けると、廊下にいた看護師を呼んだ。
「すみません、灰皿の吸殻を捨ててもらえますか?」
「はい」
ここは精神病院だ。看護師の多くは男性である。喫煙室に無意味に突っ立っている二人の男性患者がこの看護師に引きずり出されるのに時間はかからなかった。実際、この看護師の「煙草を吸わない人は外に出る」の一言で、二人は呆気なく退散してしまった。
「ふふふ、あんたもなかなかやるじゃない……」
こずえが悪戯っぽい微笑みを浮かべた。
「やっぱり、あんたはうつ病に見えないな」
功一が笑いながら言った。しかし、その目はこずえのリストバンドへと向いている。
「うつはうつ。でも、そんなに重症じゃないのかもね。実は親にアダルトビデオへの出演がバレて、無理矢理入院させられたのよ」
「そうか……。でも、そんなことで入院させられるもんなのかなぁ……」
功一は親の都合などで、娘を勝手に入院させられるものかと思う。だが、現実にこずえは入院しているのだ。
「あー、なんか、あんたと話してるとホッとするわ。すごい楽」
こずえの目尻が下がった。いや、目尻だけではない、肩も幾分下がったか。
「いや、俺もここへ来て人と話したのなんか久しぶりだよ。ところでどこに住んでいるの?」
「厚木よ。今は実家にいるの」
「へえー、奇遇だな。俺も厚木で一人暮らししているんだ。まあ、実家は秦野だけどね」
会話が自然だった。既に二人とも二本目の煙草に火を点けようとしていた。
そんな功一とこずえの出会いから二週間ほどが過ぎた。二人は喫煙仲間としてよく会話をするようになり、いつしか「功一」、「こずえ」と呼び合うまでに距離は縮まっていた。功一は喫煙室以外にもよく出ては喋るようになったし、こずえもよく食堂に出てきていた。ただ、こずえのミニスカートは相変わらずで、病院に相応しい格好とは功一には思えなかった。男性患者を取り巻いての猥褻談義も時々聞かれた。だからと言って、こずえの趣味に口を挟む権利がないことは、重々承知している功一であった。ただ、不思議なことにこずえは、功一に対しては猥褻な話を振ることがなかった。
その日もこずえはミニスカートに臍だしルックと、刺激的な格好をしていた。本人にしてみればお洒落のつもりなのだろうが、男性患者たちの絡みつくような視線は避けられない。また、その格好で猥褻談義を醸すものだから、刺激にならないわけがなかった。
こずえが男性患者数人と猥褻談義を終えて、食堂の席から立ち上がった時だった。
「うおおおおーっ!」
雄たけびを上げた初老の男性患者が、こずえに向かって突進してきたのだった。
「きゃーっ!」
「ヤらせろよーっ!」
精神のバランスを崩した初老の男は、漲る力でこずえを押し倒し、その衣服を引き裂こうとしていた。
「やめろーっ!」
看護師より早く初老の男に組み付いたのは功一であった。だが、年寄りと侮ることなかれ、人間こういうときには力が出るものである。功一が引き剥がそうとしても、初老の男はビクともしなかった。それでも功一は、男の腕をこずえから離そうと、渾身の力を込める。次の瞬間、初老の男の力が緩んだような気がした。すると、功一の腕は振り解かれ、思い切り、顔面に肘鉄を食らわされたのだ。
「ぐうっ!」
それでも功一は男の腕を掴みなおした。功一は一瞬考えた。今まで模範患者のように過ごしてきたが、ここでトラブルを起こすと退院が延びるかもしれないと。だが、目の前でこずえが乱暴されているのを、見て見ぬ振りはできなかった。
ようやく看護師が三人、騒ぎに気付き、やってきた。誰も屈強そうな男性看護師である。
「はいはい、離れて、離れて!」
看護師たちは初老の男を無理矢理引き剥がす。ある者は頭を抑え、ある者は腕を捻り、ある者は足を締め付けた。さすがに初老の男も男性看護師三人を相手には屈せざるを得なかった。初老の男は看護師長が持ってきた拘束衣を着せられ、まるで独房のような保護室の向こうへと消えていった。
功一は洗面所でうがいをした。すると、口の中は切れ、血が吐き出された。鉄の味が不快だ。功一は鏡に映る自分の顔を恨めしそうに睨む。その顔が情けなかった。功一にはそう思えた。
廊下からは看護師長の甲高いヒステリックな声が聞こえていた。看護師長は年配の女性なのだ。
「あんたもね、ミニスカート穿いてお臍なんか出してるんじゃないわよ。ここは病院なのよ!」
功一は恐る恐る廊下に出た。すると、看護師長の前で頭を項垂れているこずえがいた。服は半分引き裂かれ、ピンクのブラジャーが露わになっていた。その姿に功一は一瞬ドキリとしたが、それ以上にこずえが哀れで仕方なかった。だが、看護師長の怒りは収まらない。
「それにあんた、猥褻な話をよくしてるでしょう。困るのよね、変に刺激されちゃ。また、今度みたいなことになったって責任持てませんからね」
功一はその横をすり抜け、自分の病室へと戻った。その際に、チラッとこずえの方を見たが、こずえは項垂れたままだった。
功一の病室は個室である。あまり広い部屋ではなかったが、差額ベッド代は加入している入院保険で賄えた。
廊下の喧騒がひと段落した頃、功一の病室の扉をノックする者があった。
「はい、どうぞ」
しかし、返事がない。不審に思い、功一が扉を開けてみるとそこに立っていたのは、紺のワンピースに着替えたこずえだった。功一が扉を開けるなり、こずえは病室に入ってきた。本来、他人の病室に入ることは固く禁じられている。
「ごめんなさい、私……」
そう言いかけて、こずえが功一の胸に飛び込んできた。その肩は震えている。
功一はそっと、そっと両手をこずえの背中に回した。力は入れずに、優しく抱きしめてやる。
「怖かった……。でも、すぐに功一が来てくれたのが嬉しかった……」
こずえの肩はまだ震えている。おそらくは、まだ恐怖が抜けないのであろう。そして、功一に抱きしめられている安堵感も同時に去来しているはずだった。
「俺も肘鉄食らっちゃったよ」
「大丈夫?」
こずえが顔を上げた。二人が瞳を閉じた。そして、唇と唇が重なった。
それはまことしめやかな接吻だった。重なった唇が余計な動きをするわけではなく、ただ時間の流れが止まっていた。二人の唇と唇が離れたのは、どれくらい経ってからだろうか。
「へへ、功一の唇、奪っちゃったね……」
こずえが照れくさそうに呟いた。
「この感触、ずっと忘れないでいるよ」
功一が今度は力いっぱいこずえを抱きしめた。こずえはすべての体重を功一に預けていた。
その日の夕方であった。功一は主治医との面接で、退院を勧められた。
「十分、静養したでしょう。後は自宅療養で通院すればよいと思いますよ」
それが主治医の見解だった。功一としてみれば、もう少し入院してこずえとの時間を作りたかった。しかし、こずえだっていつまで入院しているかわからない。これまでの二ヶ月を思えば、主治医が勧める時期に退院するのが得策に思えた。
「わかりました」
功一は主治医の意見に素直に従った。
「神崎さんはお一人暮らしでしたね。確か実家がこの秦野市内だとか」
「ええ」
「ならば、しばらくは実家で静養することをお勧めしますよ。一人暮らしだと、調子の悪い時に誰も助けてくれる人がいませんからね」
「はあ」
功一もそれはなるほどと思う。うつがひどくなって、動けない時は本当に動けないのだ。ましてや一人暮らしで食事、洗濯、掃除などの家事全般をこなすのには、まだ正直なところ、自信がなかった。
「そうですね。検討します」
笑いながら功一は答えた。功一は知っている。「検討する」とは公務員が相手に期待を持たせて、ばっさり切り捨てる時の常套句なのだ。だがこの時ばかりは、本当に実家に身を寄せようと思っている功一であった。
功一は真っ先に退院の報告をこずえにした。
「ウソーッ、もう退院なの?」
こずえは驚きを隠せず、手で口を覆った。そして、すぐ動揺の色が浮ぶ。
「なあ、メルアドと番号、交換しようよ」
こずえとは携帯電話の番号とメールアドレスを交換し、こずえが退院したら連絡をもらうことにした。こずえは最初、功一の退院に動揺していたが、それでも「おめでとう」と言ってくれた。そういう功一もこずえのことが心配でないわけではなかった。今日のような事件があっては尚更である。
翌日、不安を拭いきれないこずえの視線に見送られて、功一は退院した。病院の玄関を出ると真夏の太陽が容赦なく功一を照らしつけた。病院の中は程よく空調が効いていて、季節は感じられなかったのである。
(そう言えば、今は夏なんだっけな……)
功一はボストンバッグで身体を庇うようにして、最寄り駅まで駆け出した。全身から汗がジワリと滲み出るのがわかった。