98.公爵家の騎士の依頼
「メルフィーナ様、お久しぶりです。お忙しい中時間を取っていただきありがとうございます」
恭しく正式な騎士の礼を執った後、にっ、と笑うオーギュストに、相変わらずだと思いながらメルフィーナも微笑み返す。
「少しぶりね、オーギュスト。変わりないですか?」
「いやあ、ただでさえ冬の間はあちこち走り回ることが多いのに、今年は魔物の出現が多くて疲れ気味です。春が待ち遠しいですよ、心から」
「あら……被害は例年よりも増えているの?」
「そうですね。飢饉で体力が落ちているということもありますし、二割増し、というところでしょうか。疲弊している村や街も多いので、早急に対応しないと人心の乱れにつながりますから、公爵家としてもそれなりに緊張感をもって対処に当たっているところです」
人心の乱れは治安の乱れにつながる。ただでさえ困窮している農村などで田畑を捨てて都市に逃げる気風が生まれるのは、その土地を管理している者としても頭の痛い話だろう。
応接室ではなく以前も通したことのある厨房に招き、エドにお茶を淹れてもらう。一番寒い時期は終わりつつあるとはいえ、まだまだ外は寒い。オーギュストは白い湯気の立つお茶を飲み、ほっと息をついた。
「エンカー地方はエールも絶品ですけど、お茶も美味しいですね。暖かい部屋も多いですし」
「厨房は特にそうね。領主邸で一番暖かい場所なの」
冬の移動はそれだけで大変なものだ。オーギュストも飄々としているけれど、それなりに冷えていたのだろう。
「昼食は食べた? まだなら、残り物だけれどパイがあるわ」
「嬉しいですが、随分待遇が良くないですか?」
「沢山お魚を頂いてしまって、領主邸だけでは食べきれないし、兵舎に差し入れにするには量が足りなくてどうしようかと思っていたところなの。ちょうどよかったわ」
「それは役得ですね」
軽食を振る舞いながら会話をするのは、この世界でもさほど珍しい習慣ではないけれど、貴族となると行儀や礼儀の問題でお茶だけで済ませるのが一般的になる。オーギュストはその手の儀礼的な振る舞いにあまり興味が無いようで、エドが出してくれた残り物のパイも美味しそうに食べていた。
「昼食の残りというので冷たいものが出てくると思いましたけど、温かくて嬉しいです」
「パイのサクサクした食感はなくなってしまうけど、フライパンに少量の水と一緒に入れて蓋をして、少し火にかけると温め直せるわ」
「いえ、しっとりしているし、食べかすも落ちにくいですし、気に入りました」
社交辞令ではないようで、もりもりと食べるオーギュストにエドが追加のパイを温めているのを視界の端に捉えながら、メルフィーナもカップを傾ける。
「こちらでも魔物が出てしまってね。もう聞いているんでしょう?」
「駐留している騎士から報告が上がってきました。こちらは現在兵士も置いていますし、象牙の塔の魔法使いも滞在しているので、あまり心配はしていませんでしたが」
騎士や兵士たちは、セレーネの護衛という名目でエンカー地方に滞在している。何か起きたら公爵家に報告が行くのは当たり前のことだ。オーギュストが訪ねてきた時期から考えて、報告が上がってすぐにソアラソンヌを発ったのだろう。
「魔物の討伐に彼らを使ってしまったので、公爵家にもお礼とお詫びしなければならないと思っていたのだけれど、こういう時、北部ではどういう形で謝罪と謝礼を贈るのかしら」
「近接している領なら、礼状とちょっとした宝飾品とかが一般的ですかね。でもメルフィーナ様の立場としては、礼状だけでいいと思います。宝飾品を付けるのは他人行儀過ぎて却って失礼にあたることもあるので」
他人行儀もなにも、公爵家はなんだったら純粋な他人よりも借りを作りたくない相手である。
だが今回、兵士たちが駐留していてくれたことによる村民たちの安心感は、随分大きなものだっただろう。
「では、お礼状をしたためることにするわ。今回はその確認と視察に来たの?」
「それもありますが、個人的に私からメルフィーナ様にお願いがありまして」
「お願い?」
オーギュストがいきなりやってきて食事をねだることはこれまでもあった。それに対しセドリックは苦い表情を隠さなかったけれど、公爵家とのいいつなぎになっていたのも確かだ。
だがこんな風に、面と向かって「お願い」をされたのは初めてだった。
「今年は魔物の出現が多いという先ほどの話にもつながるのですが、公爵様も休みなく討伐に出ていて、お疲れの状態が続いていてですね。ここの近くの街の視察に寄られるので、もしよろしければ、数日この領主邸に滞在させていただけないでしょうか」
「街ということは、そちらにも公爵家の滞在する屋敷などはあるんじゃない?」
「閣下は、人前ではどうしても厳格な公爵の振る舞いを貫いてしまいますが、冬の始まりの頃、こちらに滞在したときはいつになく気を緩めていたように見えたので、まあ、臣下の勝手なお節介です」
「そうねえ……」
頬に手を当てて、少し考え込む素振りをする。
オーギュストもメルフィーナが受け入れる期待はさほどしておらず、ダメ元で言ってみたという様子だった。
「あなたも知っているでしょうけど、以前と同じようなおもてなししか出来ないわよ? セルレイネ殿下をお預かりしているので、その様子も確認したいでしょうし、私も公爵様にお話ししたいことがあるので、構わないわ」
「えっ、いいんですか!?」
思わずというように椅子を鳴らした騎士に、ふっと笑う。
「駄目ならきちんと駄目だと言うわ。日程が決まったら、伝令を寄越してちょうだい。今度は焼き立てのパンを用意するから」
「ありがとうございます!」
いつも飄々として騎士としては型破りな振る舞いを見せることの多いオーギュストだが、今回は本当に感謝している様子だった。
モルトルの森には魔物が棲んでいるというけれど、人里まで出てくることは滅多にないらしい。そんな土地にも魔物が出たのだ。アレクシスは普段から魔物の脅威に晒されている土地を巡っているというけれど、広い北部を回って魔物が出れば討伐しての繰り返しでは、心も体も休息をとる暇などないのだろう。
「これは失礼な質問かもしれないけれど、公爵様自身が討伐に向かう必要はあるのかしら」
オルドランドの領地は広大で、大きな都市もいくつもある。さすがに全てを回っているわけではないにせよ、主要な都市と、そこを巡るまでに立ち寄る村や街の数は相当のもののはずだ。
特に足回りが悪く、移動に手間のかかる冬では、なおさらだろう。
「討伐のほとんどは騎士と兵士で行い、公爵様が手ずから討伐するのはプルイーナとその眷属くらいのものですね。各地を巡っているのは、この土地は領主に守られているのだと民を安心させるためという理由が大きいです」
魔物の出る冬は寒さも相まって北部には辛い時期です、魔物が出た後はどうしても、不安感が広がりますからと、やや真面目な表情でオーギュストは続ける。
「メルフィーナ様が村に顔を出せば、彼らも安心したりやる気を出したりするのと同じだと思います」
後ろに控えていたセドリックの言葉に、なるほどと頷く。
エンカー村やメルト村にメルフィーナが姿を見せると、彼らは一様に安堵したような様子を見せる。上に立つものが自分たちを気に掛けていると思えることは、想像する以上に彼らに安心感を与えるものなのかもしれない。
騎士たちと顔を合わせた後にソアラソンヌに戻ると告げて退席したオーギュストを見送り、ふう、と息を吐く。
――ここしばらく天気もいいし、セレーネとフェリーチェと散歩のついでに顔を出そうかしら。
冬はどうしても室内にこもりがちになってしまうけれど、陽の光を浴びるのは心にも体にもいいことだ。
オーギュストの申し出は意外ではあったけれど、アレクシスに話があるのは事実だったし、来訪が確定したことで、腹が括れた気もする。
ここしばらく、色々なことを考えて気持ちも沈みがちになっていたけれど、少しだけ気分が上向きになった。
「とりあえず、公爵様へのお礼状を書きましょうか」
そう言って、メルフィーナも立ち上がる。
執務室で礼状は特に問題なくしたためられたけれど、「近くまでお越しの際には、こちらにもお立ち寄りください」という言葉を入れるかどうかに、小一時間ほど悩むことになった。