96.危険な罠と痛感の日
魔物出現の報は、エンカー村とメルト村、およびその傍に新しく設立された農奴の集落に速やかに周知された。
魔物は家畜だけでなく人も襲い、子供や赤ん坊は身にまとう魔力に中てられるだけで危険に晒される。パニックが起きないよう、駐在している兵士たちが討伐に動いていることを強調し、外出は日中のみ最低限にし、子供は出来る限り外に出ないように、何か見かけたらすぐに巡回している兵士たちに伝えるように通達した。
「それでも、農民は畑を放置するわけにはいかないわよね……」
子牛の事件が起きてから、今日で四日が過ぎた。朝日に照らされるエンカー地方を執務室の窓辺で俯瞰しながら、メルフィーナはぽつりとこぼす。
兵士たちが巡回し、犬に探索させ、囮の家畜を放して待ち伏せしているけれど、未だに魔物を討伐するには至っていない。
メルフィーナが高い塀に取り囲まれた屋敷の中に籠っていられるのは、貴族の女性だからだ。貴族の男性でも騎士ならば兵士を率いて真っ先に討伐に乗り出していただろうし、そうでなくとも陣頭指揮を執るべくあわただしく動いていただろう。
非力で、魔物との戦いの知識もなく、安全な場所で守られていることが唯一、今のメルフィーナに出来ることだ。
窓際に立って外ばかり見ているメルフィーナに、マリーが思わし気に声を掛ける。
「メルフィーナ様。どうか、お気を落とされないでください。北部の戦士たちは魔物との戦いに慣れています。すぐに討伐が済みますよ」
「ええ……」
その言葉にも、今は素直に頷くことができなかった。
確かに騎士も兵士も、普段から鍛錬を怠らず鍛え上げられていることは、時折慰労に足を運んでいたメルフィーナも理解していた。彼らはいわば魔物との戦いの専門家だ。何一つ経験のないメルフィーナが気を揉むよりも、任せると言った以上朗報を待つべきなのだろう。
――でも、それで、怪我をするかもしれない。
騎士や兵士は戦うためにいて、こうした状況で手柄を挙げることが彼らの誉れであるという理屈は理解できる。彼らはそのために、十に満たない頃から親元を離れて下積みをしていくのだ。戦う相手がいなければ、鍛え上げた技術も知識も持ち腐れになってしまう。
自分の考えが甘いということは、メルフィーナにも理解できていた。きっと、前世の記憶を思い出す前ならば、これほど葛藤に胸が塞がることもなかったはずだ。
領地の心配はしたとしても、自然とそれが彼らの役割であり、守られることが自分の役割だと割り切っただろう。
ふいに、執務室をノックする音が響き、メルフィーナははっと振り返る。マリーがドアを開けると、軽鎧に身を包んだセドリックが入室してきた。
怪我のなさそうな様子にほっと息がもれる。
「メルフィーナ様、ご報告に上がりました」
「お疲れ様、セドリック。マリー、お茶を」
「いえ、すぐに戻りますので、お気持ちだけで」
「まだ魔物は見つかっていないのね……」
兵士の中にも乗馬の経験がある者は少なくないけれど、自前の騎馬が持てるのは叙任されてからのことだ。
現在エンカー地方に高い位置から周囲を見回せて、素早く移動する手段である馬に乗ることのできる騎士は、三人しかいない。そのうちの一人であるセドリックがゆっくりしていられる状況ではないのだろう。
「先ほど、囮として放っていた豚が食い殺されているところが発見されました。後ほどユリウスに確認させますが、放牧地の敷地内だったことから、同一の魔物によるものであると推測されます」
セドリックが言うには、監視の兵士が交代する僅かな時間を縫うように襲われたのだろうということだった。
「周囲が明るいうちは決して姿を見せません。人の気配が多くても警戒して出てこないでしょう。かといって、絞った人数では放牧地の広さをカバーしきるのは難しい状況です」
「家畜を全て閉じ込めてしまうと、村のはずれで人間を襲うようになるかもしれないわ。囮は引き続き続けてちょうだい」
そうなればますます収拾がつかなくなるだろう。放牧地を餌場だと思っている方が、あちこちで被害が出るよりずっとマシだ。
「――家畜を襲いに来ていることは間違いないのだから、何か、罠を仕掛けることはできないかしら」
「かなり賢い個体のようですので、落とし穴に引っかかるかどうか」
「くくり罠とか、トラバサミとか、そういったものは?」
「私は狩りにはあまり詳しくなく……ゴドーからもそうした提案はありませんでした」
その言葉に、メルフィーナははっとする。
猟師であるゴドーの主なやりかたは、弓による狩猟のはずだ。かつては狩猟犬を使っていたと聞いたことはあったけれど、それも随分前に絶えていると聞いている。
ほとんどの土地が貴族の所領であり、自由な狩猟が認められている土地が少ないこの世界では、ゴドーのように森に入って狩りをする職業としての狩人というのは、珍しい存在だ。そして、職業人口が少なくギルドも存在しないため、情報や技術が定着したり広がったりする余地が少ないのかもしれない。
「セドリック、ゴドーを呼んでくれる? それから、ロイとカールを、護衛の兵士をつけて領主邸まで来てもらえるようにしてほしいの」
「かしこまりました。すぐに手配いたします」
一礼をし、顔を上げた時、セドリックは騎士らしい硬い表情ではなく、うっすらと笑んでいた。
「メルフィーナ様、何か思いついたんですね?」
傍に控えていたマリーも、気づけばセドリックとよく似た表情をしている。
「的外れかもしれないから、あまり期待しないで」
何しろ、流石に狩猟に関して複雑な知識を持っているわけではない。
それでも、手持ちの札で使えるものがあるならば、なにを使ってでもこの事態を解決させたかった。
* * *
「これが魔石、ですか」
数日後、魔物討伐の報から少し遅れてユリウスからもたらされたのは、小さな黒い石だった。
大きさは大玉の真珠ほどで、見慣れた魔石と形は同じだが色は禍々しく真っ黒だ。魔石が深紅のルビーなら、火の魔石は淡い赤色の、ガラス玉のような印象である。
「核の状態ではそれほど強い魔力を放っていませんが、念のためあまり目に近づけないようにしてください。こちらは後日、神殿に納めれば魔力が抜けた状態で返却されるので、そこから魔法使いに魔力を込めさせれば魔石として利用できます」
「それは僕がしますよ、レディ。魔力なら有り余っているので、お任せください」
セドリックの言葉にユリウスがそう続ける。とはいえ、ユリウスは魔法使いではなく錬金術師として雇っていることだし、抱えている魔力のせいで寝てばかりいる彼に頼むのも気が引けるので、気持ちだけ頂くことになるだろう。
「あのトラバサミという罠は、強烈ですね。まさか仕掛けたその夜に掛かるとは思いませんでした」
「作動した音で見張りの兵士たちもすぐに掛かったと分かったので、対処も早かったですしね。やはりキツネ型の魔物でした。僕は魔石を取り出すのを手伝っただけですが、大きさは狼ほどもありました。身動きできない状態でしたので、剣で仕留めることができたそうですよ」
誰も怪我はしなかったという言葉に、ほっと安堵の息が漏れる。
トラバサミの機構に関する知識はやや曖昧だったけれど、大まかな説明でも鍛冶師であるロイとカールには、起動する条件や力の強さなどを計算するのはそう難しい仕事ではなかったようだ。
トラバサミ自体の構造は非常にシンプルで、二人はすぐに製作に入ってくれた。そうして夕べ実際に仕掛けられて、今朝にはエンカー地方を不安に陥れていた魔物は、今メルフィーナの前で魔石となっている。
「セドリック、トラバサミは」
「すぐに回収しました。設置は私がしましたので、魔物を仕留めた兵士を含む数人しか実際に見た者はいないはずです」
その言葉に深く頷く。
「あの罠は、構造が簡単で量産しやすく、獣も人間も選びません。広めるつもりはないので、ロイとカールに渡して、鋳溶かしてもらってください」
「今後のために、常備しなくてもよろしいのですか?」
「組み立てる前の部品だけは用意しておいて、また魔物が出た場合、その都度作る方が安全だと思います」
現在エンカー地方では、農業も畜産も上手く回っている。森が近く、害獣が出ることがあるので猟師や猟犬を導入しているけれど、暮らしのために狩猟を行う必要はほとんどない。
トラバサミはとても残酷な罠だ。いずれこの世界の誰かが発明するかもしれないけれど、メルフィーナの手でこの世界に持ち込むのは気が引けた。
「……メルフィーナ様、もしよろしければ、閣下に、この罠を教えて差し上げることは、難しいでしょうか」
「公爵様に?」
「サスーリカの討伐に、これは随分役に立つものだと愚考します」
いつも真面目なセドリックだけれど、ひと際真剣な、深刻さを感じさせる様子で言葉を続ける。
「プルイーナの眷属よね? サルに似ている魔物だと以前聞いたわ」
「プルイーナほどではありませんが、強い魔力を放ち、動きの鈍いプルイーナと違い俊敏で、四方に移動します。斥候をし、見つけ次第各個撃破が基本的な対策ですが、素早く数が多いこともあって毎年プルイーナと同様か、それ以上に被害者を出す厄介な存在です」
「ああ、僕も聞いたことあるよ。一か所に集めて討伐できないかと、地面に打った杭に牛をつないでみたところ、翌朝、腹がはちきれて死んだサスーリカと骨になった牛が残されていたって話。連中、動く物には見境なしに群がって、自分が膨れて死ぬまで食べるのを止められないらしいね」
ユリウスの口調は軽いけれど、その内容の血なまぐささにメルフィーナは思わず眉間に皺を寄せる。
「あの罠を、囮の動物の周囲に仕掛けておけば、かなり高い確率でサスーリカを捕獲することが出来ると思います。プルイーナの出る時期はおおむね決まっているので、その前に仕掛けておけば兵士の消耗をかなりの数、防ぐことが出来るでしょう」
「……少し、考えさせてくれる?」
「差し出たことを言って、申し訳ありません」
「いいえ、知らないよりずっといいわ。ユリウス様も、教えてくれてありがとうございます」
セドリックもプルイーナの討伐に参加したことがあるのだろう。その語り口調は淡々としているけれど、どこか切望するような色があった。
トラバサミがどれだけ残酷な罠だろうと、それで騎士や兵士の人的被害を減らすことが出来るというなら、メルフィーナに頷く以外の道はない。
セドリックの望む通り、アレクシスにこの罠の効能と製造技術を教えることになるだろう。
「二人とも、お疲れ様でした。マリー、クリフとラッドに伝えて、兵士たちに労いのエールの大樽を送るように伝えて。それから、エンカー村とメルト村にも、討伐したことを伝えてあげてちょうだい。皆、きっと安心するわ」
「かしこまりました」
「触れは私が出してきましょう」
「僕は部屋に戻るよ。眠くて死にそうだ」
ふわ、とあくびをかみ殺すユリウスにちゃんと部屋まで歩けと背中を押して、三人とも部屋を出て行った。
マリーはすぐに戻って来るだろうけれど、寝室以外で一人きりになるのは、随分久しぶりな気がする。
執務室の椅子に腰を下ろし、机の上で手を組んで、ぎゅっと握りしめる。
子牛が被害に遭ったと聞いてから、ほんの一週間足らずというところだけれど、ずっと緊張状態にあったこともあり、ひどく疲れていた。
一匹の魔物の出現でこれほど恐ろしく、大掛かりなことになるのだ。四つ星の魔物と立ち向かうのは、どれほどの重責だろうか。
オルドランド領から独立しているとはいえ、エンカー地方も北部の一地域であることに違いはない。オルドランド家が四つ星の魔物の討伐を請け負っているからこそ、強大な魔物に侵略されることなく開拓を続けていられる。
プルイーナの眷属であるサスーリカは、百匹ほども出て生き物を襲うと以前駐留している騎士から聞いた。ユリウスからもたらされたおぞましい習性を聞いた後で、協力できることをしないなど、メルフィーナに選べるわけもない。
たとえそう遠からず、魔物討伐以外にも使われることになる未来が火を見るよりも明らかであったとしても。
前世の知識は、この世界に優しくて良いものだけを持ち込むわけではない。
そう痛感した日だった。
以前も書かせていただきましたが、現在非常に多忙なので設定のミスや名前かぶりは時間がとれる年末にまとめて修正いたします。
誤字の報告は感想欄ではなく誤字報告の機能を利用していただけると嬉しいです。
また、感想欄に設定ミスについて書いて頂いても、どんどん後ろに流れていってしまうので、可能でしたらメッセージにてお伝えいただければ幸いです。




