93.セレーネの不調
その日、異変は朝から訪れた。
「セルレイネ様は体調が芳しくないので、朝食の席は辞退するとのことです」
ここしばらく、元気な様子を見せていたセレーネが久しぶりに体調を崩したらしい。サイモンも領主邸を訪れたばかりの頃のように、固く張り詰めた表情になっている。
「お見舞いに行くことはできるかしら? 食欲が無くても、少しは食べた方がいいと思うわ。私と二人だけならどうか、聞いてもらえる?」
その言葉にサイモンは頷き、ややして自室でならと告げられた。エドがパン粥を甘く味付けしたものを作ってくれたので、それを持って部屋を訪ねる。
部屋の中に入ると、セレーネはベッドから体を起こし、しょんぼりした顔をしていた。
「姉様、こんな格好でごめんなさい」
「そんなこと気にしなくていいわ。顔が赤いわね、辛くない?」
「少し熱が出ただけです。ここしばらく、ずっと体調が良かったから、油断していました」
熱のせいだろう、瞳は潤み、どこかぼんやりとした表情だ。
「教会に回復を依頼したほうがいいかしら」
「おそらくセルレイネ様は感冒でしょう。教会では流感は治療できませんので」
「そうなの?」
サイモンの言葉に、少し驚いた。
教会は回復魔法を使って病人を治療してくれる機関である。感冒……いわゆる風邪は、いつの時代でも人がもっとも罹りやすい病気のひとつと言えるだろう。
メルフィーナは教会で治療を受けたことがない。では教会の対応している病気とはどのようなものがあるのかと思ったけれど、今はセレーネの方が気になった。
エドがかなり緩く作ってくれたパン粥だが、食欲が湧かないらしく、半分ほどを食べた後、セレーネは申し訳なさそうな表情でスプーンを置いた。
「食事は入るだけでいいわ。その代わり、できるだけ水分を摂ってね」
「はい、ごめんなさい、姉様」
「感冒なんて誰だってかかるものよ」
セレーネの額に手を当てると、驚くほど熱い。この世界にはまだ体温計は存在しないけれど、高熱であることはそれだけで分かった。
「火鉢をもう一つ入れて、できるだけ湿度を上げましょう。額を冷たく濡らしたタオルで冷やしてあげて」
セレーネの額から手をどかすと、やけに寂しげな顔を向けられて、胸が痛む。
「寝室に居座るのはお行儀が悪いけれど、よければ、今日はここで編み物をさせてもらってもいい? 寝ている間は邪魔しないから」
「はい、あの、姉様」
「なあに、セレーネ」
「……また、何かお話を聞かせてくれると、嬉しいです。最近、お忙しかったので」
「そうね。私もゆっくり出来るのは久しぶりだから、何かお話しましょうか」
柔らかい白い髪を撫でると、セレーネはほっとした様子だった。
熱が高いときは、大人でも不安になるものだ。元々体の弱いセレーネならば、なおさらだろう。
「盆を下げて、少し準備をしてくるから、横になって、眠れるなら寝ていてね」
「もったいなくて、眠れそうもありません」
「寝ていても、そうでなくても、一緒にいるわ」
しっかりとそう伝えると、セレーネはごそごそとベッドに横たわって、それからふふ、と少しだけ、嬉しそうに笑ってくれた。
* * *
「今日の午後から、しばらく使用人は領主邸に来ないよう全員に伝えてくれる? 少なくとも、セレーネの熱が下がるまでは」
その言葉に、ちょうどホールの掃除をしていたアンナと厨房から出てきたエドは驚いた顔をした。
「ええと、どうしてか、伺ってもいいでしょうか?」
「セレーネが感冒にかかってしまってね。みんなに感染るとよくないでしょう。だから、念のためよ」
「でも、それだとメルフィーナ様にも感染るのでは」
「感染は、人が固まって暮らしている以上、ある程度仕方のないことなの。一番困るのが、領主邸全員が同時に感染して機能が止まることよ。感冒はかかっても数日で治ることがほとんどだから、もし私が感染した場合、お世話してくれる人が必要になるの。とくにアンナ、あなたは領主邸の中で貴重な女性の使用人だから、同時感染は一番困るわ」
必要ならエンカー村から手伝いの女性を頼むこともできるが、その場合、その女性が家族や村の人間に広めてしまう可能性が出てきてしまう。もしアンナに看病してもらうことになれば、しばらく通いから泊まり込みに切り替えることになるだろう。
「あたしは、メルフィーナ様が感染したときに、お世話させてもらえるってことですね!」
「私もかからないように気を付けるけど、いざとなったらアンナに頼ることになると思うわ」
「任せてください!」
「エドも、エドがいないうちは私が食事の用意はできるけれど、もし私が寝込んでしまったら、その時は食事をお願いしたいの。他の皆も同じよ。だから、しばらく領主邸内は私とマリー、セドリックで回すことにします」
説明すると二人は強く頷き、すぐに他の使用人たちにも事情を共有してくれた。こういう時、使用人の数が少ないと動きが素早くて済むものである。
「二人とも、セレーネにはしばらく人の出入りを減らしたことは、内緒にしておいてね。どうも、セレーネは自分の体調で罪悪感を抱いてしまうみたいだから」
「分かりました、メルフィーナ様」
「余計なことは言わないよう、ユリウスも近づかないように言っておきます。とはいえ、あいつはここしばらく、眠りっぱなしですが」
蒸留の技術がいち段落した後、ユリウスは自室にこもって眠っている時間が目に見えて増えた。
最近起きている間はずっと興奮状態が続いていたからと本人は言っていたけれど、それはそれで心配である。
「メルフィーナ様、子供の頃は一日のうち起きている時間の方がずっと短かったですし、あいつは自分の体についてはよく知っているので、ご心配されなくても大丈夫ですよ。そのうち起きて来て、砂糖を舐めたいなんてこちらが心配するのも馬鹿馬鹿しいくらいあっさり言ってきますから」
さすが、付き合いが長いだけあってユリウスのことはよく分かっているらしく、セドリックはあっさりとそう言った。
「起きてきた時のために、棒砂糖を削っておきましょうか」
「私が後ほどやっておきましょう。ユリウスに自分でやらせると、際限なく舐めつくしてしまうでしょうから」
その言葉に少し笑ってしまったけれど、どうやら冗談のつもりではなかったらしいセドリックに、苦笑を浮かべる。
「砂糖の取りすぎは体に悪いので、任せるわ、セドリック」