75. サスーリカ
残酷な描写が入ります。苦手な方はご注意ください。
報告に飛び込んできた兵士の案内のもと、少人数をまとめたラインハルトの隊と共に陣を出る。
風が吹くたびに荒々しく砂塵が舞う。砂除けのマントを被っていれば行軍に支障は少ないけれど、魔物と交戦するには、あまり良い状況ではなかった。
「西側に走って十五分ほどでした。無我夢中で何度も転んだので、もう少し早く着くかもしれません」
「大体の距離と方向が分かればいい。どうせ近づけば分かる」
ラインハルトが低い声で告げる。壮年の騎士の目つきは厳しく、じっと進む方向だけを睨みつけていた。
進むうちに、やがて首裏にチリチリとした不快感が生じはじめる。そのまま進行を続けると、荒野を走る風に揺れる物とも違う、毛穴の一つ一つがぎゅっと縮み上がるような感覚が続き、騎士も兵士も、奥歯を噛んで呼吸さえ詰めるようになった。
「毎年のことですが、嫌な感じですね」
オーギュストの軽口も、今は軋むようにぎこちないものだ。それに応える余裕のある者はなく、重たい沈黙をぬぐうように、アレクシスが口を開く。
「ここまでで十分だ。案内の兵は、陣に戻れ」
まろびながら全力で伝令をした上に、ここまで道案内をして、すでに体力は限界だろう。戦闘に参加させても無駄死にさせるだけだ。そう判断したが、当の兵士は青ざめながらも反論してきた。
「私も行かせてください! 兄が残って、戦っているのです!」
「兄の前でお前をサスーリカの餌にすれば、お前の兄もまた絶望して戦う意思を失くすだろう。一人死ねば周囲にいる者すべての士気を下げる。問答する気はない。すぐに戻れ」
「ここで話をする暇はないけど、一人でも多くを助けるから信じて戻ってくれってさ。ほら、出来るだけ急いで戻れよ。それで、余裕があったら怪我人を受け入れるために湯を大量に沸かしておいてくれ」
「……ッ、はい!」
オーギュストの言葉に、兵士はきつく拳を握りながらも頷いた。役割を与えることで立ち去る理由と、行動する動機を与える、相変わらずうまいやり方だ。
キィィィィィィィィィ!
金属同士をこすり合わせるような、空気を震わす絶叫を機にアレクシスが地を蹴って駆け出したことで、弾かれたように全員が疾走する。
進めば進むほど不快感は増していき、身を包む冷気が強くなっていくのを感じる。
歯を噛みしめ、深く眉間に皺が寄る。まだ接敵すらしていないというのに、鼻の奥から血の臭いがした。
「うわぁぁぁぁ!」
「急ぐぞ」
人間の絶叫が響いたことで抑えた声で告げ、走りながら抜刀する。倒れ込んだ兵士の上にのしかかり、サルと呼ぶには巨大な顎を開き、今まさにかぶりつかんとしているサスーリカを横薙ぎに切り払う。
「ギャッ!」
肉に剣がめり込む感触。そのまま剣を返し、サスーリカごと地面に叩きつける。ボキボキと細かい骨が砕ける感触が、強く掴んだ剣の握りから伝わってきた。
細かい牙が生えた赤黒い口から断末魔を上げ、絶命したサスーリカの長い舌がだらりと垂れる。
「閣下!」
「ヘルマンが到着するまでサスーリカ一体につき二人で対応しろ」
剣にこびりついた、サスーリカの魔力を帯びた血が凍り付いて白く固まる前に、鋭く振って血を払う。
サスーリカはプルイーナの眷属であり、猿の姿をした魔物である。プルイーナが現れる前兆でもあり、その出現の数日前から湧いて出る。
非常に好戦的で、人間だろうと動物だろうと動くものを見れば襲い掛かってくる。サスーリカを見つけたら即切り捨てるのが、討伐で最も重要なやり方だ。
すでに絶命しているはずなのに、地に落ちた死体はぴくぴくと痙攣し、舌は己の飛び散った血を舐めるように動いている。
――おぞましい。
サスーリカは食欲の化身ともよばれている。
過去にサスーリカをおびき出すために、地面に刺した杭に牛をつなぐという方法が取られたことがあった。翌朝、骨が剥き出しになった牛の死骸の傍には、内側が透けて見えるほど腹が膨れ上がるまで肉を貪ったサスーリカの死骸が転がっていたという。
猛烈な飢餓でもって生きるもの全てを襲い、自らが膨れ上がって死ぬまで食い続ける化け物、それがサスーリカだ。
すでに周囲には、点々と人間が転がっている。うめき声が聞こえてくるので、まだ息がある者もいるのだろう。
新たに兵士の上にのしかかっているサスーリカを貫き引き剥がすと、兵士の体の上からべりっ、と重たいものが剥がれる嫌な感触がした。先ほどと同じ要領で叩き殺し、倒れた兵士が呼吸をしていないことを確認して目を逸らし、次の魔物に向かって走る。
三体目は、アレクシスを獲物に定めたらしくあちらから襲い掛かって来た。跳躍し、鋭い爪を覗かせる指も、頭部に比べて巨大な口が開くのも、まるで時の流れが遅くなったように感じるほど、はっきりと見える。
剣の持ち手を両手で握り、肩から脇腹にかけて斜めに切りつける。地面に落ちたサスーリカの腹を踏みつけ、そのまま頭部に剣を振り下ろした。
「ギャッ!」
「閣下!」
背後から襲い掛かって来たもう一体を、オーギュストが切り伏せる。跳躍しているところを一発で首を両断した腕前は、器用の一言だ。
「閣下! あまり前に出ないでください!」
鋭く放たれた言葉に、視野が狭くなっていたことに気づいて、アレクシスは細く尾を引く息を吐いた。
周囲を見回せば、まだ生きているサスーリカは兵士たちと交戦中だ。ヘルマンの本隊が到着したらしく、一匹のサスーリカあたり数人で対処していて、苦戦の様子はない。討伐は問題なく済むだろう。
周囲の警戒はオーギュストに任せ剣を鞘にしまい、地に伏せている兵士をひとりひとり確認する。すでにこと切れている者もいるが、息がある者には止血を施した。
「おい、死ぬなよ! すぐに助けてやるからな!」
「しっかりしろ! 目を閉じるな!」
やがて、サスーリカの討伐が終わり、そこかしこから怪我人に掛ける声が響き始める。
地に伏している兵士の数は、決して少ないものではない。荷車を牽いたオットーの隊が到着したことで、生存者を優先的に陣に戻す。
陣までたどり着ければ、神殿から派遣された神官の治癒魔法による治療を受けることが出来る。それでも翌日まで持たない者もいないわけではないが、生存率は決して低いものではなかった。
「閣下、サスーリカを全て討伐しました。目視できる範囲に、他の群れは見当たりません」
「ご苦労だった。……すぐに処理を始めてくれ」
「はっ!」
オットーが運んできた荷台に積まれた薪が積み上げられ、火を付けられる。乾いた風の中、あっという間に火は大きく燃え上がった。
兵士がサスーリカの腹を捌き、その中から黒い石を引きずり出す。大きさは親指と人差し指で描いた輪程度のサイズだ。
魔石は魔物の核と言われていて、利用法が多い。黒い色のままではそこから新たな魔物が湧くので、取り出して木箱や布袋、瓶などに封じ、教会で浄化する。
浄化されると魔石は黒から透明に変わり、そこに魔法使いが魔力を注ぐことで属性を持った魔石に変化する。
一度魔力を充填した魔石は十年から二十年の単位で使うことができるので、非常に高値で取引されていた。
魔石を取り除いた魔物の死骸は、死ねば猛烈な悪臭とともに瘴気を放つので、倒した後はすぐに魔石を取り出して焼かねばならない。
サスーリカを火に放り込むと、バチバチと弾けるような音が立つ。それもやがて収まって、立ち上る黒い煙が白に戻る頃、サスーリカの死骸は骨も残さず消えていた。
「――被害を確認し、戦線を離脱する者は冬の城に運ばせろ。手厚く扱うよう、徹底するように」
「はっ」
四人の騎士が礼を執り、ふと、オットーが気づかわしげに口を開く。
「閣下、腕に傷が」
言われて腕を見れば、防具の合間を縫うように身にまとっていた服が裂け、その奥の肉が抉れていた。
「ああ……サスーリカの爪が掠めたんだろう。大した傷じゃない」
実際、指摘されるまで痛みも感じなかった。オーギュストが傷の上から布を巻いてきつく結ぶ。
「魔物の爪の傷は悪い風が入りやすくなります。すぐに陣に戻って治療をしてください」
「分かった。――我々も、もう戻ろう」
ここに残していけば、新たに発生するサスーリカに骨も残らず食われることになるので、息の途絶えた者もすっかり運び終え、荒野には血の臭いだけが残されている。
それもこの乾いた風に晒されて、すぐに消えるだろう。
湧いた魔物を討伐しても、達成感を得ることは出来ず、誰もが失ったものに胸を痛める。
――あの伝令の兄は、命を拾っただろうか。
プルイーナもサスーリカも、どれだけ倒しても、翌年にはまたここに湧いて出る。繰り返される戦いに、従事する者の胸には多かれ少なかれ、徒労のむなしさが去来する。
魔物との戦いは、いつもそういうものだった。
サスーリカは64話、警備の慰労とミートパイにちらっと出てきたプルイーナの眷属です。
毎年出現場所が特定されているプルイーナに対し、サスーリカはその周辺で湧いて出て、ある程度自由に動き回り家畜や人里を襲うので、兵士たちは巡回して各個撃破していきます。
サスーリカを一か所に集めて退治できないかと歴代のオルドランド公爵は様々な試みをしており、牛の件もその一環として試されました。