70.添い寝とぬいぐるみ
領主邸に戻る頃には、気の早い冬の太陽はもう森の稜線の向こうに沈みかけていた。
馬車の揺れとはしゃぎ疲れも合わさったのだろう、セレーネは帰路の途中で船を漕ぎ始め、領主邸に戻った頃にはすっかり眠りに落ちている。
「起こすのは可哀想だから、このまま部屋に運んであげてくれる?」
ローランドに抱きあげられ、部屋に戻るとセレーネはわずかに覚醒した様子だったけれど、すぐにまた寝息を立ててしまう。マリーが素早く火鉢の炭に火を入れ、セレーネのメイドがヤカンに水を汲んできてくれた。
この様子だと、着替えは無理そうなので、上着だけ脱がせておくことにする。普段から体を締め付けないようゆるめの肌触りのいい服を用意しているので、一晩くらいならば問題はないだろう。
「んう、姉様……?」
ベッドに下ろして静かに退室しようとしたところで、引き留めるように伸びてきた手が、スカートをつまむ。まだ大人になるには時間のかかる、メルフィーナのものよりずっと小さな手を掴んでほどかせると、きゅっと手を握られた。
眠りにつく直前の子供の手はほこほことして温かい。以前手を取ったときの、氷のように冷たかった手がまるで嘘のようで、自然と頬がほころんだ。
「今日は沢山遊んだわね。ゆっくり眠って、いい夢を見てちょうだい」
「ねえさま、僕、姉様と一緒に、ねたいです」
休憩中や馬車の中でメルフィーナにもたれ掛かっていたため、そんな言葉が出たのだろう。流石にぎょっとした様子のローランドとセドリックに、唇に指を当てて苦笑する。
セレーネは成人前、つまりまだ子供だ。大人が恋しい日だってあって当たり前の年頃である。
けれど、この世界では王族や貴族は子供でも夫や妻以外の者とひとつのベッドに入ることは、非常に外聞の悪い行いである。まして異性で王族のセレーネと同衾は流石に無理というものだ。
ふわふわの白い髪を優しく撫でる。
「セレーネは赤ちゃんみたいね」
昼間の会話を思い出して、ついそんな言葉が出てしまった。
「……僕、もうそんなに子供じゃない、です」
「子供よ。沢山食べて、沢山遊んで、いっぱい寝てちょうだい。それから、明日もまた、笑顔で会いましょうね」
「……はい」
「おやすみなさい。明るい明日が、あなたに降り注ぎますように」
乳母がよく言ってくれていたフレーズが、思わず口に出た。メルフィーナが七つになったころ、彼女が王都のタウンハウスを下がるまで、彼女はよくこんな風にメルフィーナを寝かしつけてくれていた。
――すっかり忘れていたわ。
その頃を境に淑女教育が始まり、両親に認めて欲しいとそれにのめり込むうちに、いつの間にかすっかり忘れてしまっていた。
乳母が抱きしめてくれて、頭を撫でてくれた、その時だけは、メルフィーナも寂しいと感じることはなかったのだ。
――あんな記憶を、セレーネはたくさん持てるといい。
眠気が限界だったのだろう、いつの間にかセレーネはすうすうと再び寝息を立てていて、メルフィーナの手を握っていた指も力が緩んでいた。
「行きましょうか」
どこか気まずそうな表情のセドリックとローランドに声を掛けて、部屋を出る。廊下を歩いていると、ガラス窓の向こうに白いものがひらひらと落ちていた。
「あら、雪だわ」
「今年の初雪ですね」
北の住民にとっては喜ばしいものではないのだろう、ローランドの声には少し苦いものが混じっている。
北部の冬は長い。この雪とも、ここから数か月の付き合いになるだろう。
エンカー地方は本格的に、陸の孤島となるわけだ。
「ピクニックが初雪が始まるのに間に合って、よかったわ」
「ええ、そうですね」
雪が積もり始める前にと、ローランドに宿舎へ振る舞いのエールの樽を持たせ、帰らせる。
「夜の警備も屋内だけに絞っても大丈夫そうね」
「私だけでも問題なく、皆さまを守ってみせますが」
「あら、駄目よ。私より優先してセレーネを守ってくれる人もいなくっちゃ」
ささやかに笑い合いながら、ふと、この世界にはそういえば、マスコットキャラクターがいないのだなと思う。
ゲームの「ハートの国のマリア」にも、妖精や精霊のような、可愛い造形のキャラクターは出てこなかった。
子供のおもちゃのようなものはあるけれど、木彫りの人形やくるみ割り人形のような、前世の感覚だとちょっと怖い雰囲気のものが多い。
――何か、セレーネと添い寝をしてくれるぬいぐるみを作ってみるのも、いいかもしれない。
しばらく後、メルフィーナは猟師のゴドーに頼み、手に入れた柔らかい毛並みのテンの皮でぬいぐるみを作り、セレーネに贈った。
この世界にはぬいぐるみに相当するものがないので、受け取ったセレーネは戸惑った様子を見せたけれど、メルフィーナが自分のために作ってくれたそれに礼を言い、受け取った。
専属のメイドやサイモンに、夜になればそれを抱いて寝ていると聞いて、ひとまず贈った目的は果たせたとメルフィーナは安堵の息を吐いた。
後年、ルクセン王国の様々な発展と近代化に寄与し、名君主と名高いセルレイネ・ド・ルクセンがフィーナと名付け、「我が最良の友」と呼び晩年まで大切にしていた毛皮で作った人形が、様々な歴史書に残ることになること。
それを見たルクセンの貴族たちがこぞってフィーナを模した柔らかな人形を作らせ、子供たちに与えるようになること。
そこから国をまたいで、子供たちの良き友人を与える習慣が広がっていくことも、今はまだ誰も知らぬ話だった。