63.レバーパテと人との食事
たっぷりと新鮮なミルクに漬けた鶏レバーを取り出し、一口大程度のサイズにカットする。その隣ではエドが手早く玉葱と大蒜をバターで炒めてくれていた。
「貧血の改善に最も重要なのは良質な食事と睡眠です。貧血の完治には三カ月程度必要ですが、気を付けて過ごすだけでも、最初の一か月くらいで劇的な効果はあると思います」
体内の赤血球が完全に入れ替わるまで三カ月から四カ月程度と言われているけれど、まだ幼いセレーネはもう少し早く回復する可能性が高い。
彼の特異な体質である魔力過多がこれにどう影響するかは、経過を見ながら対処していくしかないだろう。
カットした鶏レバーを炒めた玉葱と大蒜の中に入れ、ごく弱火で加熱していく。
「エド、お肉は時間をかけて火を通すほうが、柔らかくて癖のない仕上がりになるわ。だから時間がある時はゆっくり、時間をかけて調理してね」
「はい、メルフィーナ様!」
レバーに火が通ったら、生クリームを入れ、煮込んでいく。塩をして、十分火が通ったらスプーンでクリームの部分を取り、味見をする。
「うん、いい味」
「匂いだけでもう美味しそうです」
うっとりとした様子のエドにスプーンを差し出すと、一拍置いてぱくりと口に含む。
「……すごく、美味しいです」
「ね、内臓は貴族の食べ物ではないという考えもあるけど、新鮮なうちに料理してしまえば美味しく食べられるし、栄養も豊富なのよ」
クリームは焦げ付きやすいので、あまり煮詰めすぎないよう、様子を見ながら火から上げる。
「ここから鉢に入れてペースト状になるまで練るのだけれど」
「私がやりましょう。薬草を煎じるので慣れていますからな」
「では、お願いするわね。滑らかになるまでよく練ってちょうだい」
申し出たサイモンにバトンタッチし、メルフィーナはローストビーフをスライスしていく。
ローストビーフは以前も出したことがあるけれど、食の細いセレーネも口をつけてくれた料理だった。牛の赤身肉にも鉄分は豊富に含まれているし、牛肉が好物なら他にも色々とアレンジが利く。
鉄分、とりわけヘム鉄と呼ばれる吸収のいい鉄分が豊富に含まれている食材は、赤身の魚や貝や海藻など、どちらかといえば海でよく捕れるものだ。北部には港もあるけれど、冬に入ったこの季節に魚を仕入れにいくのは現実的とは言えなかった。
――こちらの世界では鰹節とか、わかめとか手に入らないかしら。味噌や醤油もあれば言うことはないんだけれど。
無い物を欲しがっても仕方がないと、記憶を取り戻してから何回も思ったことを考えて、そっと胸の内でため息をつく。
白いつやつやの炊き立てのお米など、今世では一生口にすることはないだろう。
前世はあらゆる手間のかかった食べ物を安価に口にすることが出来た。ケーキ屋のスイーツやお高めのレストランといった美味しいものの記憶もあるのに、懐かしく思い出すのはふっくらと炊きあがって甘みのある真っ白なご飯の他は、祖母が漬けたやけに酸っぱい梅干し、実家の庭で取れた柚子で漬けた白菜などの素朴で、子供の頃は少し苦手だったものばかりだ。
「メルフィーナ様、パンが焼き上がりました」
マリーの言葉に我に返る。オーブンの蓋を開けると、焼き立てのパンの香ばしさがふわりと厨房の中に満ちる。
「何度嗅いでも、メルフィーナ様のレシピの焼き立てのパンの匂いはすごいですね」
「バターが入っているのと、酵母で膨らませているからね。その分火加減が難しいのだけれど」
「エドが随分慣れてきましたね。この腕前なら、どこの貴族家でも引く手数多だと思いますよ」
マリーがそう言うと、褒められた本人はぎょっとしたような様子で顔を上げる。
「ぼ、僕、メルフィーナ様や領主邸のみんなのご飯を作っているのが一番楽しいですからどこにも行きませんよ!」
「私も、エドがずっといてくれると嬉しいわ」
厨房にいるみんなで、ささやかに笑い合う。
「メルフィーナ様、レバーはこのくらいでいかがですか」
「ああ、いいですね。ここにバターを足してもう少し練ったあとに、刻んだ干しリッカの実を混ぜて、しばらく寝かせたら完成です。エド、パンはしばらく白いパンだけにしてくれる? ふすまの入ったパンは、貧血にあまりよくないの」
「全粒粉のパンは、体に悪いのですか?」
「いえ、あれはあれで有用な成分が沢山入っていて、とてもいいものよ。ただ、体の弱っている時は白いパンのほうがいいというだけ」
食物繊維を多く含む食品は、鉄分を体外に排出する手助けをしてしまう。全く摂らないというわけにはいかないけれど、出来るだけ控えた方がいい食品のひとつだ。
今日の昼餐はローストビーフに付け合わせの豆の煮物、白パンにレバーパテとクリームチーズ、蕪とポロ葱のスープである。
コーン茶はたくさん飲めるようたっぷりと用意して、二人分を用意してセレーネの部屋に向かう。
ドアの前のメイドがにこりとして、すぐにセレーネに取り次いでくれた。それからすぐにテーブルを出して、二人分の料理をテーブルにセッティングしていく。
「セレーネ殿下、具合はいかがですか?」
「今日は随分調子がいいです。起き上がってもほとんどふらつきませんでした」
「それはよかったです」
セレーネに積極的に関わろうと決めてから、十日ほどが過ぎ、いくつか変わったことがあった。
セレーネの食事はサイモンが立ち合いながらメルフィーナが作り、昼食も共にするようになった。領主の仕事で留守にするとき以外は食事のついでにセレーネの様子を見ることもできるし、向かい合って食事をすれば、義務的な食事という気持ちが少しは紛れるのだろう、食の細いセレーネでも少し多めに食べてくれるという効果もあった。
「王宮にいた時もたまにレバーパテは出ましたけど、エンカー地方のものは美味しいですね。全然臭みもないし、口当たりも何というか、濃厚で」
「ミルクに漬けて、バターとクリームを混ぜてあるのがいいのだと思います」
「ああ、ルクセン王国ではミルクやクリームは高級品ですから。そういえばこちらでは、食事にチーズも出ますよね。エンカー地方は牛をたくさん飼っているのですか?」
「そう多くはありませんが、牛の大半は私の持ち物なので、領主邸では比較的豊富に使えるというだけですわ」
フランチェスカ王国より北に位置するルクセン王国では、豊かな牧草を得ることが難しいのだろう。
「年の最後の月には、トナカイの乳で作った大きなチーズを削りながら一か月かけて食べるんです。僕には塩辛く感じるのですが、父や叔父達はエールが進むと大好物で」
「トナカイのチーズですか。いつか食べてみたいですね」
「僕が国に戻れたら、メルフィーナ様にひとつ贈らせてください。本当に大きいので、領主館の皆様と楽しんでいただけると嬉しいです」
戻れたら、という言葉にほんの少し、メルフィーナの胸が痛む。
魔力過多症のため成長に影響が出ていて、実際の年よりずっと幼く見える彼は、未来にあまり大きな希望を抱いていない様子だった。
「では、それまでに私も保存できる丸いチーズを作れるようになっておきます。今はまだ若くて日持ちのしないものばかりですが、きちんと加工できるようになれば、輸送に耐えるものになると思うので、毎年、年の最後の月にお互い交換するというのはどうですか?」
「それは楽しみです。領主邸のチーズは苦みもチーズ特有の匂いも薄くて、僕でもすごく食べやすいので」
白いパンにクリームチーズとレバーペーストをたっぷりと載せて口に入れると、セレーネは幸せそうに咀嚼している。
「本当に、こちらで出る料理はどれもすごく美味しいです」
そう告げる頬に、ほんの少し、赤みが差しているのにメルフィーナも自然と頬をほころばせる。
食事を終えると眠気がきたらしく、瞼をとろりとさせはじめたセレーネに早めに退出しようかと考えていると、少年はふと思い出したように言った。
「あの、メルフィーナ様。もしよければ、少し外に出たいです」
「散歩ですか? しかし、外はかなり寒いですよ」
「ええ、外で急に具合が悪くなっても申し訳ないので、出来れば領主邸の中を少し歩き回ったり、その、メルフィーナ様のお仕事の邪魔でなければ、食事の時以外もお話が出来たらなと」
そう言われて、少し考える。
セレーネは十二歳、少年としては活発盛りの年頃だというのに、一日の大半をベッドの上で過ごしている。
安静にしている時はメイドも外に出ているし、実質、ほとんどの時間を一人でじっと過ごしていることになる。
退屈だろうし、生まれた国から離れて知らない人間に囲まれて暮らしていれば寂しさを感じるはずだ。
それに人間、暇をしていると悪いことばかり考えてしまいがちになるだろう。
「では、セレーネ殿下の体調がよいときは、団欒室で過ごされませんか? 冬になって領主の仕事も随分少なくなったので、私も多くの時間を団欒室で過ごしているので」
「そうできれば嬉しいです」
ぱっ、と表情を明るくするのに、もしかしたらずっと退屈を言い出せなかったのかもしれないと、少し反省する。
この世界で暇を潰せる娯楽というのは、そう多くない。そもそも潰せるほどの時間を持てる者も少ないし、本は非常に高価で、所蔵する場所に盗難防止の鎖を付けて保管するようなものだ。
音楽も専門家がやってきて披露する、個人の娯楽とは言いにくい扱いである。
「私と秘書が縫物をしながらお喋りをしているだけですが、人の気配があると気がまぎれるかもしれませんし、よろしければ参加してください」
「はい! あの、それと……できれば、僕のことはセレーネと呼んでいただけないでしょうか」
「あら……」
流石にその申し出には、少し困ってしまう。
この世界は厳とした身分制によって成り立っている。セレーネを愛称で呼ぶのを許されていること自体、メルフィーナの立場ではそれなりに特別扱いだ。
「メルフィーナ様と一緒にいると、母様を思い出して懐かしいのです。公式の場では難しいとは思いますが、エンカー地方にいる間だけでも」
少し迷ったけれど、エンカー地方で身分が曖昧なのは今に始まったことでもない。セドリックも名前で呼んでくれるようになったことだし、身分の上下に関わらず、メルフィーナのことを名前で呼ぶ者がほとんどだ。
「では、エンカー地方にいる間だけなら」
「ありがとうございます。それから、あの……メルフィーナ様のこと、姉様と、呼ばせていただきたいのですが」
これもここにいる間だけで構わないので、と付け足すセレーネの表情があまりに必死で、実弟のルドルフを思い出して、メルフィーナの姉心を刺激する。
「ええ、ではそれも、ここにいる間ならということで」
――きっと、本当に寂しいのね……。
隣国の、それも王太子に姉と呼ばれるのはなんともくすぐったくも多少恐れ多いような気持ちもあるけれど、母や姉を求めるセレーネの、少しは慰めになるなら、それもいいだろう。
その日以降セレーネはずっと閉じこもっていた自室から少しずつ外に出るようになった。
もっぱら団欒室で愛犬のフェリーチェとじゃれあったり、うとうとと微睡んだりしている過ごし方だけれど、マリーとメルフィーナに付き合ってお茶を飲んだり軽食をつまんでいるうちに、少しずつ体力が回復する速度も上がっていくことになった。
セレーネが「姉様」と呼ぶの、マリーはちょっとうらやましく思ってそうです。




