60.騎士と秘書の会話
何度か寝返りを打ったものの、うまく眠りに入ることが出来ず、夜半、ベッドから起き上がる。
夏の間、室内は真っ暗だったけれど、今は火鉢の中で赤く燃える炭が僅かな光源になっていた。それを頼りに魔石のランプに灯りを灯す。
ふわりと赤みかかった光が部屋を照らし出し、マリーはほっ、と息を吐いた。
火鉢に載せたヤカンを覗き込めば、水はまだ半分ほど残っているけれど、お茶を淹れるには少し心もとない量だ。
ストールを肩から巻き、布を巻いてヤカンを取り上げ、物音を立てないように部屋を出る。
すでに湯になってるヤカンの残りでお茶を淹れ、新しく水を汲んでまた火鉢に掛けておけばいい。
公爵家にも魔石のコンロはあったけれど、魔石は高価な消耗品なので晩餐で火を落としたあとにお茶を淹れようなんて思ったことはなかった。それなのに、今は火鉢で簡単に湯を手に入れることが出来る。
かつては冷える夜には白湯の一杯でも口に出来れば随分な贅沢だけれど、今はその贅沢が当たり前のように身近にあった。
色々と変わったと思いながら厨房に向かうと、ぼんやりと灯りが灯っている。こんな時間に、先客がいたらしい。
「セドリック卿」
「ああ、マリーか」
どうやら彼も一杯のお茶を求めて厨房にきたらしい。
まだポットに残っているというので、ありがたくいただくことにする。
秘書と護衛騎士として、メルフィーナを挟んで三人で行動することはとても多いけれど、こうしてセドリックと二人きりになるのは本当に珍しい。
エンカー地方に来る前は、新参の騎士と奥向きの侍女に接点はなかった。実際、メルフィーナが公爵家に到着する直前、新婦の傍に侍る者として顔合わせをしたのが初対面だ。
エンカー地方にきて八カ月、毎日顔を合わせていたというのに、メルフィーナがいないだけで何を話していいのか分からなくなってしまう。
いや、話したいことはあった。おそらく彼も、今日の昼間あったことが気がかりで眠ることが出来ず、こうして一息吐くために部屋から出てきたのだろう。
「……メルフィーナ様は、閣下と離婚を考えているのだろうか」
セドリックが先に口火を切ったことに、マリーは少し驚いた。
この頭が固く生真面目な護衛騎士は、陰で主人の話をするのを好まないと思っていたからだ。
エンカー地方に来た当初ならば、マリーが同じ質問をしても、気になることはご本人に聞くべきだなどと言って会話を終わらせようとしただろう。それが容易に想像出来るほど、セドリックは規範にうるさく、頑なな雰囲気を持つ騎士だった。
――彼も、随分変わった。
肩に背負っていた荷物が少し軽くなって、その分、深く息が出来るようになったようだった。
自分がそうだから、よく分かる。
メルフィーナの傍は居心地がいい。名前を呼び、笑い、喜びを分け与えようとする彼女に視線を向けられていると、自分がほんの少し、価値のある存在になったように思えてくる。
血筋も、抱えている事情も関係なく、自分という人間としてここにいてもいいのだと、そんな風に感じてしまう。
「あの口ぶりだと、現状でどうこうしようと思ってはいないと思います。公爵様と婚姻関係であることで利益を得ている部分もありますし、それが分からないメルフィーナ様ではないと思うので」
ここに来たばかりの頃、メルフィーナはただ酔狂で遊んでいるだけで、いずれは領都に戻るのだと思っていた。
メルフィーナは公爵夫人だ。公爵家の内政を支え、公子を産む役割を果たすために嫁いできた女性である。それ以外の道がメルフィーナにあるわけもないと、自然と考えていた。
けれど今は、エンカー村にメルフィーナがいないなんて考えられない。
自分もずっと、隣で彼女が次は何をするのか見ていたいと思っている。
もっともっと豊かになって、みんなで笑って、楽しくて、親しくなった村の人々と、次は領主様はなにをしでかすんだろう。何が起きても、きっとそれは良いことだろうと言い合って。
そこには、これまで感じたことのない希望があった。
「臣下の身で主君のこんな話はしたくないが、お二人に結婚の「実績」はない。どちらかが強く離婚を考えた時には、可能ではあるだろう」
セドリックは重たく言うと、それきり、考え込むように黙ってしまった。
すでに公爵家を辞し、個人的にメルフィーナに仕えている自分とセドリックとでは、立場が違う。
兵士が仕える家を替えることはそう珍しいことではないけれど、叙任騎士となれば話は別だ。よほどどうにもならない事情が発生した時以外は、基本的に一度仕えた家に生涯の忠誠を誓うことになる。
セドリックもまた、その覚悟でオルドランド家の叙任を受けたはずだ。彼ほど騎士の基本に忠実な人間が、仕える相手を替えるなど本来考えることも罪深く思うだろう。
メルフィーナは、どれだけ実態がなくとも名目上はアレクシスの妻であり、セドリックはアレクシスにその護衛を命じられた騎士だ。常にメルフィーナの傍に侍り、その身を守るのは何一つセドリックの中で矛盾はなかっただろう。
メルフィーナが離婚の可能性を口にするまでは。
「教会は基本的に離婚を認めていませんし、きっかけがどうあれ、公爵様とメルフィーナ様は合意の上で今の暮らしを営んでいるように見えます。離婚となれば社交界の噂になるでしょうし、メルフィーナ様のご実家も出てくるでしょう。お二人がそれを望むとは思えません」
離婚、それも高位貴族同士の政略結婚における離婚など、そう容易く成立するものではない。どちらかに大きな過失があるか、もしくは、それこそどうにもならない事情――アレクシスが他の女と恋に溺れるか、メルフィーナが公爵以上の身分の人間、つまり王族に妻として求められたりしない限りは。
前者は全く想像がつかない。妻として迎えたメルフィーナすら受け付けなかった異母兄である。
そもそもアレクシスは夏は内政、冬は魔物の討伐に多忙で、女性との接点が非常に少ないのだ。
出先で美しい村娘と恋に落ちるという柄でもないだろう。
後者は……こちらは無いとも限らないかもしれないとマリーは思う。
金髪に緑の瞳というメルフィーナの容姿から、王家の血を強く引いているのは明らかだ。侯爵家の令嬢としての身分とあの容姿なら、王家との縁組に何一つ支障はない。
むしろ、フランチェスカ王国にはメルフィーナと年の近い王子がいるのに、なぜそちらの候補に挙がらなかったのか、不思議なくらいである。
それは、メルフィーナにまつわる悪い噂とやらのせいかもしれない。
馬鹿馬鹿しい話だとマリーは思う。それを言うなら、名目上は臣下の妻である母の産んだ自分が公爵家の私生児として認知されていることのほうが、よほど血筋としては怪しいものだ。
ともあれ、現在メルフィーナはエンカー地方の領主である。この国の王子であるヴィルヘルムと今後接点があるとも思えない。
「メルフィーナ様が、エンカー地方の領主を望まれたのは、多分そのせいだったんでしょう」
セドリックが怪訝そうな視線をこちらに向けるのに、冷めかけたお茶を口にして、マリーは小さく嘆息した。
「いずれ公爵様がメルフィーナ様に離婚を要求した時、ソアラソンヌにいても、王都にいても、メルフィーナ様は行き場を失くしていたはずです。ご実家とはあまり上手く行っていない様子でしたし、それこそ修道院に入るしかなかったのだと思います」
それを避けるために、エンカー地方という貧しく寂れた、価値などほとんどない土地を譲り受けて領主になった。
メルフィーナは公爵邸を出た時にはもう、オルドランドに自分の居場所はないのだと思っていたのだ。だからこそ、新しく自分の居場所を作ろうとした。
そして、それは今も続いている。
魔石のランプの照らす薄暗い厨房でも、セドリックが打ちのめされ、青ざめているのは見て取れた。
常に近くにいるとはいえ、さほど親しいとは言えない同僚に、それでも多少の気の毒さをマリーは感じる。
本人に尋ねるほど意地が悪くはなれないけれど、彼がメルフィーナに心を奪われているのは、見ていれば分かることだ。
メルフィーナの傍を離れれば、きっと彼の心には大きな穴が開くことになるだろう。
自分も同じだから、よく分かる。
マリーはメルフィーナがアレクシスと離婚しようと、たとえエンカー地方を離れる日が来たとしても、メルフィーナの傍にいるつもりだ。
彼女の往く道を見つめ、支え、そして守りたい。
セドリックがその道を選ぶことは、きっととても、難しい。
「そろそろ私は失礼します」
「ああ」
「……きっと、明日もメルフィーナ様に驚かされますね」
セドリックはふっと笑うと、一拍置いて、そうだなと答える。
メルフィーナと過ごす日々は、いつも驚きの連続だ。彼女が巻き起こす様々な偉業を傍で見て、そして手伝うのがマリーとセドリックの役割である。
こんなに素晴らしい特等席もないだろう。
来るかどうかも分からない遠い未来が不安になって眠れないなど、きっと馬鹿馬鹿しく感じる明日が来る。
マリーは使ったカップを洗い、持ってきたヤカンに新しく水を満たすと厨房を後にする。
「おやすみなさい、セドリック卿」
「ああ、また明日」
きっと朝になって、メルフィーナにおはようと微笑まれれば、消えてしまう不安だ。
部屋に戻り、火鉢に差した五徳にヤカンを置いて、ベッドに潜り込む。
隣の部屋にはメルフィーナがいる。そう思うと、自分が何にそんなに心を騒がせていたのかも段々分からなくなっていって、やがて秘書は深い眠りの中に落ちていった。
たまには不安で眠れない夜もあったりする秘書と護衛騎士です。




