588.公爵家の子供達7
「兄上ー!」
厩舎で馬の世話をしているところに、マーガレットと手をつないだクリストフが満面の笑みで駆け寄ってくる。
マーガレットは半ば引っ張られる形だけれど、微笑ましそうに口元に笑みを浮かべていた。
「遠乗りに出かけると聞きました。僕もご一緒していいですか?」
「お前はまだ馬に乗り始めたばかりだろう?」
「ですから、兄上の後ろに乗せてください!」
九歳になったものの、騎士としての腕を磨くことに意欲的だったアレクシスとは違い座学の方が得意なクリストフは、剣術や馬術の訓練にさほど意欲的とは言いがたかった。
周囲もアレクシスが優秀な長子であることからクリストフに過度の期待を寄せていないこともあって、望まぬ鍛錬を強いることもなく、剣や馬術に関しては基本の型を履修した程度である。
「仕方ないな。早く自分で乗れるようになるんだぞ。それで、マーガレットはどうしてここに?」
「クリストフ様が、馬上の景色はとても綺麗で、風が気持ちいいとおっしゃるので」
「姉様も馬に乗せてあげてください!」
「遠乗りで、二人同時は無理だぞ?」
アレクシスが静かに言うと、クリストフは青灰色の瞳を大きく見開き、ぽかんと口を開いていた。
「あ、そうか……じゃあ姉様は兄上に乗せて頂いて、僕はオーギュストに。でも、兄上は僕を乗せてほしいですし……」
おろおろとアレクシスとマーガレットに忙しなく視線を向けるクリストフに、マーガレットは口元を隠してくすくすと笑い、アレクシスは呆れたような様子でクリストフの頭を撫でる。
「マーガレット、馬は怖くないか」
「いえ、私は騎士の家の生まれですし、優しい生き物だと聞いていますわ」
「オーギュスト、マーガレットを乗せてやれ。丁重にな」
「はい、アレクシス様」
「ごめんなさいねオーギュスト。よろしくお願いします」
「ありがとうございます、兄上!」
座学では苛烈な性格を垣間見せることもあるアレクシスだが、満面の笑みを浮かべて兄を慕っているクリストフはまだまだ足元がおぼつかない幼児だった頃と変わらず、アレクシスにとっても可愛い弟のようだった。
主家の家族仲が良いのは、よいことだ。
アレクシスの「学友」の傍ら騎士について小姓を始め、多忙になったオーギュストも心からそう思う。
「それでは、足元に気を付けてください。抱え上げますので、お体に触れるのをお許しください」
「ええ、大丈夫よ」
マーガレットは見た目の儚さとは裏腹に、鐙に足を掛けるとオーギュストの補助を受けてひらりと馬に飛び乗り、流れるような動作で横座りの体勢になった。
オーギュストも馬に飛び乗ると、いつもより重いと不満がるように馬が高く嘶く。
「鎧もつけてないし、子供二人くらいどうってことないだろう。後で飼い葉をたっぷりやるから、そう唸らないでくれ」
馬に言い聞かせるように言うと、マーガレットは優しい手つきで馬の首元をそっと撫でる。
「私からも、林檎を差し入れするわ。今日はよろしくね」
馬は賢い生き物だ。人間の言葉だけでなく、動作や振る舞いをよく見ていて、悪意を感じれば怯え、舐めれば決して言うことを聞かない。
マーガレットのその言葉でころりと機嫌を良くしたらしく、軽く首を振ると心なしかしゃきんとしたようで、座り心地から変わってくる。
「ゆっくりと走りますので、しっかり捕まっていてください」
「ええ、ありがとう、オーギュスト」
奥向きの使用人のほとんどは女性であるし、温かい季節はメリージェーンのお茶会に呼び出されるアレクシスの後ろについていくことも多いので、オーギュストの日常には女性が関わることが多い。
けれど、自分より年下の少女というのは、思えばあまり接したことがなかった。
マーガレットはクララのような身の回りの世話をしてくれる使用人の女性とも、貴婦人とも雰囲気が違っている。上品だが軽やかで自由な雰囲気を持つ、身の回りにはいなかったタイプだ。
四歳の頃からここで暮らしているため考えたこともなかったけれど、公爵家の女性たちの空気は、総じて重い。いつも背を伸ばし、まっすぐに前を向いていて、けれどその様子は凛としているというより悲壮な覚悟によって支えられているように見えて、時々息苦しく感じさせる。
それはきっと、彼女たちが悪いのではないのだろう。北部の一年の半分は冬で、寒く、気欝な季節だ。
その中で家を守って生きていかねばならない生き方は、決して楽なものではないはずだ。
貴族の家の近くは大抵管理された森になっていて、オルドランド家もそれに漏れず、市壁を抜けるとすぐに所領の森がある。開けた丘までゆっくりと走らせている間、マーガレットははしゃいだ様子を見せず、前を向いていた。
「風が気持ちいいですね」
「はい。……マーガレット様、馬に乗るのは初めてではないですよね?」
「ふふ、どうしてそう思うんですか?」
「生き物は、どうしたって特有の揺れがあって、その揺れに慣れるまでが大変なんです。俺も初めて馬にまたがった時は姿勢を保つだけで精いっぱいでしたし、コツを掴むまでは歩いたり走ったりするたびに落ちないように必死でした」
馬上は視線がかなり高くなり、この高さそのものを恐ろしがる者も珍しくはない。
まして横座りという踏ん張りのきかない体勢で、他人の操る馬に乗ってまるで動じていない様子をみれば、乗馬に慣れているとしか思えなかった。
マーガレットはしばらく二色が混じる髪を風に遊ばせていたけれど、しばらくして、ちらりとこちらに視線を向ける。
「オーギュストはとても気が利くし、頭もいいけれど、人を見透かすようなことを言うのはよくない癖ね。直した方がいいわよ」
「……そんなことを言われたのは、初めてです」
「アレクシス様の傍にいるには、きっと向いている気質なのでしょうけど、女の子には嫌われてしまうわ」
「それだけなら、大して困りませんよ」
いずれ結婚するにしても、その相手は父が決めるのだろうし、公爵家へ仕官したのと同じように、ある日突然この娘に決めたと連絡でも来るのだろう。
相手は騎士階級の家の娘あたりが順当で、お互い会うこともないまま結婚式を挙げ、その頃の自分は騎士として過ごし、相手は家を守っていく。
おそらく公爵家の女性たちのように、背筋を伸ばして、どこか悲壮な色を滲ませた、そんな女だ。
父や祖父がしてきたことを、自分もなぞっていく。それが人生であることは、もう分かっていた。
「クリストフ様はまだ一人で早駆けができないと聞いたわ。女の子が男の子より、まして主家の男子よりできることが多いって、嫌われちゃうのよ」
「クリストフ様は、そんなことで人を嫌うような方ではないですよ?」
良くも悪くもまっすぐな気質の人だし、マーガレットのことは姉様と呼んで慕っている。
マーガレットが見事に馬を操ってみせても、目を輝かせてすごいすごいと称賛するところしか思い浮かばない。
マーガレットはくすくすと笑って、細めた目を向けてくる。
「馬鹿ね、もっと怖い方に嫌われちゃうのよ」
「……左様ですか」
「そう。私は公爵家では複雑な立場だもの。きちんとそういうところは見極めないとね」
あっさりとした口調だったけれど、それがなぜか、妙に肝が冷えるような心地がした。
マーガレット自身はただの少女にしか見えない。年齢よりも小柄で、笑うと無邪気な様子が垣間見える。甘え上手で、あの気難しいメリージェーンにも気に入られ、ドレスに宝飾品にと色々と買い与えられている。
クリストフに姉様と呼ばれ、アレクシスとの関係も良好だ。使用人たちには春が連れてきた温かい風だと評判もいい。
「……こんな風に風を浴びるのは久しぶりだわ。とても気持ちいい。ありがとう、オーギュスト」
「いえ……アレクシス様のご命令でしたので」
「それでもよ」
それきりマーガレットは前を向いて、北部では短い間しか見ることのできない青い空と青葉が風でなびく丘を見ていた。
無邪気で自由で、そして少しばかり、恐ろしい女。
人を見透かすようなことは言うなというくせに、誰よりも見透かしているようなことを言う。
そんな人は初めてで、マーガレットを相手にどう振る舞っていいのか分からないまま、先行していたアレクシスの後ろに乗ったクリストフが大きく手を振るのに、彼らの元に行くのに少しだけ、馬を走らせる速度を上げた。




