572.いってらっしゃい、いってきます
旅立ちは、よく晴れた春の朝だった。
まだ太陽が昇り切らないが、周囲は十分に明るい。ほんのり肌寒いものの、吐いた息が白くなることはなく、旅立ちにはよい日だった。
「マリア様、革用のクリームはちゃんと持ったか?」
「替えの革紐も失くさないようにしてくださいね。もしも予備も切れてしまったら、皮革職人のところに行くのがよいでしょうが、我々が作る物以上のものはないでしょうから、くれぐれも気を付けて」
靴職人であるのっぽのロニーとずんぐりむっくりのティーダーの二人にやいやいと言われて、マリアはその日何度目かの大丈夫だから、を繰り返していた。
「もう、ティーダーもロニーも、何回も聞いたよ! クリームもブラシもちゃんと持ったし、替えの紐も二つずつ持ってるから!」
マリアがそう叫ぶと、ティーダーは口うるさく言い過ぎたかと頭をがりがりと掻きつつ、それでも心配そうな表情を隠さない。
「俺も遍歴に出たことはあるが、旅はしんどいことの連続だぞ。マリア様はどうにも、少し抜けているところがあるからなあ。心配してもし足りねえよ」
「まあ、あなたに言われてしまってはおしまいですけどね」
「なんだと!?」
「マリア様、最終的に路銀があればどうにかなるものです。必ず胸当ての裏には、銀貨を切らさないようにしてください」
「分かった。……それも三回目だよロニー」
マリアの靴職人の二人は、相変わらず角をつき合わせている様子だけれど、マリア曰く「あれで息はぴったりなんだよ」ということらしい。
マリアは新しい靴に冒険者の女性がよくしているパンツルックの服、首から聖魔石の小さなペンダントをぶら下げていて、革の胸当てをし、その上からマントを身に着けていた。
胸当ては元革鎧職人であるティーダーが作ったもので、女性用に軽くしてある一方、その裏にはいざという時のための硬貨を入れるポケットがついていて、銀貨が数枚仕込まれているのだという。
「オーギュスト、コーネリア。路銀の管理と道中をお願いね。あなたたち二人が頼りだわ」
「お任せください。必ずお守りいたします」
「わたしも、精いっぱい務めさせていただきます」
騎士服から冒険者風の服に着替えたオーギュストと、コーネリアはベロニカのはからいにより、城館付きの神官として新たな身分を得たため、神官の巡礼用の衣装に身を包んでいる。
ソアラソンヌの神殿長名義で、提示することで同行者ともども、各地の神殿に食客として滞在することができる神殿のシンボルの入った印章も渡されていた。
「メルフィーナ様、マリア様と一緒に、お手紙を書くね!」
「レディ、何か面白いものがあれば、手紙と一緒に送ります」
旅装に身を包んだユリウスとレナも、明るい表情だ。旅立ちに不安のようなものはないらしい。
「なんか、勇者パーティって感じだよね」
ティーダーとロニーの心配交じりの忠言がようやく終わったらしく、マリアが傍にやってきて、傍にいるメルフィーナに小さな声で囁く。
「勇者パーティ?」
「聖女と、騎士と、魔法使いと、僧侶と、賢者で」
「勇者の座が空いているわね」
「そもそも魔王がいないもんね。――念のために聞くけど、いないよね?」
「いないんじゃないかしら。……多分」
「多分かあ」
マリアはちょっとした冗談で言っているのだろうけれど、聖女がいるなら配置に「勇者」がいても不思議ではないし、もしも「勇者」がいるならどこかに「魔王」もいるのかもしれない。
「この世界のこと、結局よく分からないものね。世界のどこかに魔王が眠っていたって不思議ではないけれど、いたとしても、できればずっと眠ったままでいて欲しいわ」
とはいえ、四つ星の魔物すら祈ることで発生を根源から抑えてしまう、規格外れの聖女こそ勇者でいい気がする。
「私もそう思う」
その規格外の聖女はのんきそうに笑っていた。
明るい話をしているうちに、こちらも出立の準備を終えたセドリックが城館から現れる。彼の荷物はそう多くはなく、愛馬であるリゲルとともに街道を単騎で王都に向かうのだそうだ。
「セドリック、道中気を付けて。王都に到着したら、手紙をちょうだい。無事だって、一言だけで構わないから」
「必ずお知らせします。それに、砂糖産業に関わることで数年に一度程度は北部に赴くこともあると思いますので、その際はお目通りさせていただければ幸いです」
「そんなの当り前よ。いつでも戻ってきてちょうだい。マリーと一緒に待っているわ」
「――はい、メルフィーナ様」
一度目の別れは、もしかしたら今生の別れになるかもしれないと覚悟もした。
王都で忙しくしているうちに、一年も満たないエンカー地方での暮らしは彼の中で薄れ、思い出に変わっていくのだろうと。
けれどセドリックが、どれほどの覚悟で自分の騎士であると誓ってくれたか、今はもう疑っていない。
きっとまた会えるし、いつかずっと傍にいてくれるようになるだろう。
「オーギュスト、長らく、よく務めてくれた。お前は何かと扱いにくい側仕えだったが――感謝している」
「いやだなあ閣下、俺、案外すぐに戻ってきますよ。その時はやっぱり扱いづらいと、また眉間の皺を見せてくださいね」
言っている端から、アレクシスの眉間にうっすらと皺が寄っている。そんなアレクシスに、オーギュストはしみじみとしたように笑った。
「俺は一生、閣下の傍で閣下の面倒を見ていくつもりだったんですけどね。案外ふわっとこんな日が来たりするものなんですねえ。本当、メルフィーナ様に感謝しています」
「あら、私になの?」
きょとんとして首を傾げると、オーギュストも笑って頷いた。
「もう閣下は大丈夫だと思えたので、俺も安心して立つことを決められました。お二人が長く幸せに暮らすことを、心から祈ります」
オーギュストは隣に立つマリアを見て、マリアは頬を赤くしながら、頷く。
「私も、メルフィーナとアレクシスが幸せに暮らすのを祈るよ!」
マリアの声は屈託なく、親友の言葉に笑って、それからぐっ、と胸にこみあげてくるものがあった。
三年前、北部に嫁いでくる道中で起きた事故で前世の記憶を取り戻し、自分が悪役令嬢・メルフィーナであることを知った。
アレクシスに妻として愛するつもりはないと言われ、公爵家を飛び出し、この地にやってきてからもずっと、ヒロインであるマリアの降臨で何もかもがひっくり返るのではないかと不安になる日もあった。
セレーネが回復し、セドリックが去り、ユリウスが眠りに就き、アレクシスに惹かれ――目まぐるしく変わる状況の中、とうとう現れたマリアが突然エンカー地方にやってきて。
「マリア、あなたにとって、この世界に来てしまったのは、とても不本意なことだったと思うけれど」
「メルフィーナ?」
泣いて、笑って、悩んで、踏み出して。そんなマリアをずっと見てきた。
「あなたでよかった。来てくれたのが、私とアレクシスを祝福してくれる聖女マリアが、あなたで、私は本当に、よかった」
「――うん。私も、出会えた「メルフィーナ」が、メルフィーナでよかったよ。本当に、そう思ってる。この世界で私が帰る場所をくれて、ありがとう、メルフィーナ」
黒髪に黒い瞳。懐かしい面影に目を細め、互いに手を取り合った。
「いってらっしゃい、マリア」
「うん、いってきます、メルフィーナ」
「あ、メルフィーナ様! アントニオさんの馬車きたよ!」
本日出立する大獅子商会の隊商から、アントニオを乗せた馬車がゆっくりと城館に近づいてくるのが、開け放した城門の向こうに見える。
大獅子商会の隊商とともに、マリア達はソアラソンヌを経由してエルバンへ。
セドリックはそのまま王都へ。
「みんな、いってらっしゃい」
「いってきます、メルフィーナ様!」
「帰ることのできる日を、楽しみにしています」
いってらっしゃい。
いってきます。
そう言い合って、アントニオとも再会の約束を交わし、そうして馬車は夜が明け切る前に出立するため、慌ただしく城館を出て行った。
「――寂しくなるわね」
「すぐに帰ってくるし、帰ったら帰ったで、また騒がしくなると思うようになるだろう。何度目かの帰郷の時には、今より家族が増えているかもしれないしな」
「ふふ、あなたでもそんな冗談を言うのね」
ちらりと隣を見ると、青灰色の瞳は静かで、真摯で、けれどメルフィーナの心に染みるように、情熱的なものだった。
「――そうね、どうせ未来の事なんて分からないもの。案外すぐに、そんな日が来たりするのかもしれないわね」
アレクシスと結ばれ、マリアは攻略対象ではない男性を選び、もはやこの世界は、メルフィーナの知識の中にある「ハートの国のマリア」とは随分違ってしまった。
この先何が起きるかなんてメルフィーナにも、これっぽっちも分からない。
だから今、望むことをして、精いっぱい生きよう。
親友がそう祈ってくれたように、幸せに。
――そして願わくば、平穏に。
ちょこん、と傍にいるアレクシスの腕に肩をもたせ掛け、小さくなっていく馬車を、見送っていた。
モルトルの森の向こうから、朝日が昇り始める。
馬車が遠くなり、見えなくなるまで見送っていたメルフィーナの傍に、アレクシスもマリーも、ずっと寄り添ってくれていた。
これにて第6章、聖女の来訪が終了となります。
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