57.隣国の王太子
セルレイネがエンカー領領主邸にたどり着いたのは、よく晴れた昼下がりだった。
きらきらと光を弾いて輝く白髪に、ふさふさのまつ毛に縁どられた大きな青い瞳。顔立ちは天使のように整っていて、頬にはまだ幼さが残っている。
年齢はメルフィーナより四つ年下の十二歳だが、魔力過多の影響だろう、十歳前後に見えた。
――容姿はゲームで知っていたけど、実物はなお可愛いわ。
「お初にお目にかかります、セルレイネ・ド・ルクセンと申します。この度は滞在をお許し下さりありがとうございます。力なき身ではありますが、国境の治世について学ばせていただければと思います」
「初めまして、メルフィーナ・フォン・オルドランドと申します。開拓中の鄙びた土地ではありますが、セルレイネ様に滞在していただける栄誉を得たこと、ありがたく思います」
体が弱くて他国に療養という名目では外聞が悪いので、国境を接する領地運営について視察兼見学という体裁をとることはあらかじめ聞いていた。
最初の挨拶も問題なく終えることができた。
一国の王太子と公爵夫人とでは王太子のほうが身分は上だが、レディ・ファーストにより挨拶はセルレイネが先である。
「粗末な屋敷で恐縮ですが、滞在中はご自分の家として扱ってくださいませ。また、使用人も王侯貴族に仕える教育を受けさせていないので無作法があるかと思いますが、そちらもどうぞご寛恕いただければ幸いです」
「では、どうぞオルドランド夫人も私を家族として接してください。僕のことはセレーネと呼び、姉のように思わせていただければ嬉しいです」
「ありがたく存じます。私のことはメルフィーナとお呼び頂ければ嬉しいです」
貴族らしいやりとりを済ませたあと、寒い場所では体に悪いということで領主館に入ってもらう。
受け入れ先の建物が小さいことはアレクシスが伝えてくれていたらしく、世話係のメイドが一人と専任の医者という、王太子の随員としては非常に小規模な……本来なら非常識と言える人数だった。
その代わりオルドランド家から周辺を警戒する兵士が二十人ほど派遣されていて、こちらはラッド、クリフ、エドが住まいにしている使用人用の別棟で生活してもらうことになっている。
ほぼ陸の孤島のようなエンカー地方だが、領兵もいない村に隣国の王太子を滞在させるのだ、これでもまだ派遣兵力は少ないくらいなのだろう。
メイドは屋根裏にある使用人部屋で寝泊まりしてもらうとして、セレーネと医者の部屋割には、随分頭を悩ませた。
なにしろこの屋敷には家族と高級使用人が寝泊まりする本邸の二階と増設した棟の客室以外、まともに部屋がないのだ。王太子と医師と騎士を同じグレードの部屋に泊めてもいいものか、セレーネだけは本邸の二階に滞在してもらうべきか、ギリギリまで協議した。
結局、アレクシスがこの話を持ち込んだ時に領都に戻ったら王太子が滞在するのにふさわしい調度類を手配するよう交渉し、本邸の一番日当たりのいい南向きの部屋をセレーネの滞在する部屋として整えることになった。
「二階に部屋を用意しましたので、セレーネ様はそちらにご滞在ください。お医者様には別棟に部屋を用意いたしましたが、通路で繋がっていますので、必要な時は自由に行き来なさってください。……本来なら客用の屋敷を用意するところですが、このような部屋割りになって、申し訳ありません」
「メルフィーナ様、どうかそのようなお気遣いはなさらないでください。無理を言っているのはこちらの方だと判っておりますので」
まだ幼い上に病気のせいだろう、この年頃の農民たちよりずっと体が小さいけれど、幼い雰囲気がある少年の声にはしっかりとした気遣いが感じられた。
「移動が長くてお疲れでしょう? 午後のお茶の用意が出来ましたらお呼びしますので、しばらくお部屋で休憩なさっていてください」
フランチェスカ王国に来てから少なくとも二か月以上は過ぎているはずなのに、セレーネは思ったよりずっと顔色が悪かった。
――体に内包する魔力が強すぎて、元々体がとても弱いのよね。出来るだけ安静にさせてあげよう。
部屋に入るところまで見送って、ふう、と息をつく。
何しろ受け入れまで準備期間があまりに短くて、打ち合わせにもほとんど時間を取ることが出来なかったのだ。ここで部屋割りについて難色を示されたらどうするかと大分頭を痛めていたけれど、どうにかなったらしい。
「どうも、セレーネ様は貧血を患っているように見えるわね」
「貧血ですか?」
不思議そうにマリーに復唱される。この世界では血が足りないことで起きる不具合については、まだ一般的ではないのでピンとこないのだろう。
「血が足りなくて、体調が悪くなるの。怪我をして出血したあと頭がくらくらしたり、不意に倒れたりする人を見たことない?」
「ああ、魔物の討伐などでは時々ありますね。あれは治癒魔法も効かないので、傷を治療した後はひたすら眠らせておくことで対処します」
「移動中や馬に乗っているときに意識を失ったら命に関わるものね」
騎士として怪我に慣れているセドリックにはそれなりに馴染みのある症状のようだった。血液は眠っている間に作られるので、それなりに有効な回復法と言えるだろう。
初冬を迎えたエンカー地方はそれなりに冷え込んでいるというのに、赤みの差さない頬に色白を通り越して青ざめたような肌と、色の薄い唇だった。
見た目が天使のような少年なだけに、血の気がない様子がひときわ痛ましい。
「しかし、セルレイネ殿下は母国にいる時の肺病が理由での療養なのですよね? その貧血、を伴うものなのでしょうか」
「食事に鉄分が足りていないとか、夜に眠れていないという理由でもなるものだけれど、私は医者ではないから、詳しくは分からないわね」
貧血に効く食事といえば真っ先に思い浮かぶのはレバーだけれど、基本的に内臓というのは平民の食べ物である。それも、肉を買えない貧しい者が仕方なく食べる部位という扱いだ。そのまま出すのは難しいだろう。
「レバーパテでも作ってみようかしら」
「新しい料理ですか?」
「ええ、貧血にも良いし、栄養満点なのよ。新鮮なレバーを使えば臭みもほとんど出ないでしょうし」
騙し打ちのようなことはしたくないので、先に原料を告げて、抵抗があるようなら避けてもらえばいいだろう。
酒の肴にもなるので、セドリックやラッドやクリフは気に入るかもしれない。
「そうだわ、セレーネ様の部屋に火鉢を運んでくれる? ヤカンを載せておけば湿度が上がるし、喉にも優しいから」
「分かりました。すぐに予備を用意します」
「火を扱うから、私から直接使い方を説明するわ。マリー、新しい炭を用意してくれる?」
「はい、ただいま」
たとえ邸内としても、護衛騎士であるセドリックはメルフィーナから離れるのを嫌うので、予備の火鉢を置いてある物置までメルフィーナが付いていくことにする。
火鉢はどれも丸くて厚い陶器製で、これといって装飾は施されていないものだ。領民で器用な者を手伝いに出していたとはいえ、ただでさえ専門の陶器職人が一人しかいない上に、難民の受け入れで急に人が増えたこともあって、絵付けをする余裕などとても無かったのが理由である。
「領内で使うだけだから装飾も全くつけずに来たけど、来客用に少しは見栄えのするものを作ってもいいかもしれないわね」
「ルイスに、メルフィーナ様の部屋に置くものだと言えば、大喜びで力作を作ると思います」
笑いながら厨房で炭とヤカンを持ってきたマリーと合流し、二階に上がる。
「セレーネ様、お休みのところ失礼いたします。我が領の暖を取る道具を持ってきたので、お部屋に置かせていただいてよろしいでしょうか」
返事はなく、少し間をおいて「お待ちください」と内側から応えがあった。
「眠っていらしたのかしら」
マリーと顔を見合わせているうちに、ドアが内側から開く。サイモンと紹介されたセレーネ付きの医師である。
灰色の髪の下で不機嫌そうに表情をこわばらせていた。
「お休みのところ、ごめんなさいね。部屋に火鉢を置かせてもらいたいの」
「火鉢、ですか?」
「ええ、中で炭を焼いて暖まるための道具です。上に水を入れたヤカンを入れて、室内の湿度を上げると喉にも優しいの」
サイモンは怪訝そうな表情を浮かべたものの、拒む理由もないと判断したのだろう、どうぞ、と中に促す。
「セレーネ殿下はお休みですので、静かにお願いします」
その言葉通り、セレーネはベッドに横たわり、目を閉じていた。相変わらず真っ白な肌が気になるけれど、専属の侍医がついているのだ、体調の変化があればすぐにそうと分かるだろう。
手早く火鉢を設置し、ヤカンの水がなくなったら水を足し、そのタイミングで換気をするように説明する。
「昼食は、こちらの部屋に運ばせたほうがいいかしら」
「そうですな……。気丈な方なのでご挨拶の時はしっかりとして見えたかもしれませんが、かなり体力が落ちています。こちらに慣れるまでは、食事は部屋で摂らせてもらう形にしていただければ」
「では、そうさせてもらうわね。殿下は何か食べられないものや、口にすると不調が出るものはあるかしら」
「いえ、偏食は無い方です。強いて言うなら甘い果物を好まれる傾向はありますが」
「では、何か手に入ったらお出しするわ」
ドアの外で短いやり取りを終えて、メルフィーナは階下ではなく自分の執務室に入る。
「……どうも、頑固で偏屈そうな医者ですね」
セドリックの言葉に思わずふふっ、と笑いが漏れる。
エンカー地方に来た当初、誰よりも頑固だった騎士は、自分の言葉に気づいたらしく、少しバツの悪そうな表情を浮かべた。
「フランチェスカに来てからも移動続きで、きっと気が立っているのよ。少し落ち着くまで、見守りましょう」
咳が止まりゆっくりと休養できれば、体力も自然と回復していくだろう。
「とりあえず、殿下には鉄分を多く含んだ食事を用意するようにしましょうか」
ひとまず冬は家畜を潰す季節でもある。レバーや赤身肉を、負担のない量で食べてもらうようにしていこう。
おそらく春になれば、セレーネは王都に戻るだろう。
どのみち彼を救うのはマリアの役割だ。
それまでのひと時、のんびりと過ごしてもらえればいい。
ひとまずは、精の付く食事に穏やかに暮らせる環境が、セレーネにいい影響を与えることを祈るしかなかった。