569.出資者と破格の値段
「モルトル」の入札は、金貨二十枚から始まった。
競りに提供されたのはたったの一本。もっとも高額をつけた者に販売されることになる。
「金貨五十枚」
「こちらは八十枚を」
「金貨百五十枚!」
声が上がる度に価格も上がっていく。そのたびに、オークション会場を取り巻く祭りの参加者たちにどよめきが走った。
こちらの世界には、娯楽と呼ばれるものがほとんどない。子供ですら歩き始めれば家庭や共同体の労働力として組み込まれ、日が昇ると働き出して日が沈むとともに寝床に入る生活では、そもそも余暇と呼べるものがほとんどないのである。
その分、今日のような祭りや結婚式は、重要なハレの日として常になく盛り上がる。
平民にとっては非現実的ですらあるオークションの光景は、程よい興奮を伴って観覧されていた。
そして、そうした観客の素朴かつ分かりやすい反応は、入札を行っている商会の誇りを刺激する効果もあった。
最初に出荷されるウイスキーは、初期投資の回収とともに話題性をたっぷりと付与したいところだけれど、こちらは花押入りのエールとはまた違った意味で、値段がつけ難い商品である。
情報は商人の血液のようなもので、彼らとともに大陸中に、そして海を渡って流布される。
北部に名だたる商会や資本家たちが競り合った商品は、どの商会がいくらで落札したか、瞬く間に広がるだろう。
落札した商会にとっても、それは栄誉であり、箔付けになるが、メルフィーナにとっても開発した商品にどれほどの値が付き、それがいかに希少であるかの宣伝にもなる。
出品者であるメルフィーナと落札者のどちらにも、利のある結果になるはずだ。
メルフィーナが静かに見守る中、金貨三百枚、五百枚と積み上がっていくほどに、悔し気に黙する天幕が増えていく。この辺りになると、最後はいくらの値が付くのかと見物している者たちも聞き逃すまいと固唾を呑み、場が静まり返ってくる。
「金貨八百枚」
アントニオが落ち着いた、だが堂々とした声で入札する。
金貨八百枚は、大獅子商会が「大鏡」に付けた値と同じ価格である。メルフィーナもこの辺りが上限になるだろうと予想していた。
貨幣制度が未熟なこの世界において、金貨八百枚は枚数以上の価値がある。その結果に満足し、落札の名を口にしようとしたとき、別のテントから声が上がった。
「金貨千枚」
ざわ、と周囲が微かに、波立つようにざわめいた。
「マリー、あの天幕の商会は?」
「クラヴェイン商会です。王都に本拠地を持つ商会のひとつで、河港沿いに倉庫を持っています」
クラヴェイン商会なら、メルフィーナも北部を取り仕切る番頭の挨拶を受けたことがある。王都にいた頃は関わったことのない商会であるが、その名を耳にしたことはあり、王都では高級な染色された布や宝飾品、特に真珠の取り扱いで財を成した商会のはずだ。
食品の流通は、彼らにとってはそうウエイトの大きくない商売のはずだ。それでもなおエンカー地方に倉庫を構えたのは、次々と出荷が始まる新しい商品に可能性を感じたからだと言っていたし、実際、エンカー地方での取引は生ハムやエールを中心に行っていたはずだ。
メルフィーナの印象では、数ある商会のひとつであり、そう目立つ存在ではなかった。
「金貨千二百枚」
アントニオの声はあくまで落ち着いているけれど、大獅子商会にとっても初めての取引でこの金額はかなり無茶をしているはずだ。さすがにこれで落札だろうと思っていると、クラヴェイン商会の天幕から、さらに声が上がった。
「金貨二千枚」
息を呑み、そちらに視線を向ける。
二人分の席に座っているのは、やや茶色の強い金髪を伸ばして後ろで軽く結んでいる男性で、以前領主邸に挨拶に来たクラヴェイン商会の番頭に間違いない。まだ二十代の半ばほどだろう、若いことと、旅をする商人にしては品よく整った容姿をしていたのが珍しく、よく覚えている。
「マリー、セドリック。クラヴェイン商会の番頭の隣に座っている人に、見覚えはある?」
小声で尋ねると、二人とも返事は否だった。人の顔を覚えるのは、特技というほどではないものの、苦手でもない。おそらく初めて見る顔のはずだ。
大獅子商会の天幕から追加の声は上がらず、一拍置いてブルーノが高らかに落札を宣言する。
「金貨二千枚! 二千枚にて落札である! 我が素晴らしき領主、メルフィーナ様と今年最も特別な酒である「モルトル」を所有することになったクラヴェイン商会に、大いなる拍手を!」
わあっ! と歓声が沸き、割れるような拍手が会場を包み込む。緊張感のあるオークションは、よい娯楽になったようだった。
クリフがクラヴェイン商会の天幕まで向かい、二人の男性を壇上まで案内する。
「落札おめでとう、ギルベルト」
「ありがとうございます、メルフィーナ様。このような素晴らしき機会を得られたこと、我が人生のこの上ない幸運でございます」
貴族的な整った顔立ちのクラヴェイン商会の番頭、ギルベルトは、隣の青年とともに優雅に一礼を執る。
ギルベルトが伴っていたのは、青と緑の色が半々程度に分かれた髪を優雅に伸ばしている青年だった。年はギルベルトと同じくらい、二十代の中盤に差し掛かった頃だろう。
二色以上が交じった髪色は獣交じりと呼ばれ、商人にとっては縁起のいいものだが、これだけ目立つ容姿ならば覚えていないはずがない。
「あなたは、はじめましてかしら?」
「はい、私はフェデリコ・デ・サンチェスと申します。苗字を有しておりますが、しがない子爵家の三男ですので、どうぞフェデリコとお呼びください」
「彼は我がクラヴェイン商会のよき友です。今回のオークションにも、出資を申し出てくれまして、おかげで「モルトル」を競り落とす栄光を手にすることが叶いました」
「そうなのね。まさかこんなに破格の値段がつくとは私も思っていなかったわ」
実際、これほどの値が付いてしまうのは、メルフィーナにとっても完全に誤算だった。
金貨二千枚。ひと瓶にこれほどの値がついたことは、瞬く間にフランチェスカ国内に、そう間を置かず大陸中に伝わってしまうだろう。
金貨二千枚は、裕福な公爵家であるオルドランド家であってもぽんと出せるような金額とは言い難い。フランチェスカ王国の大領主でもそうなのだ。この先顧客はかなり限定されることになるだろうし、高額商品のイメージが強すぎる。
今年金貨二千枚で落札された「モルトル」が、来年は金貨七百枚になれば、半額以下の値段になったことになる。金貨七百枚だって相当な高額であるけれど、単純に比べれば、価値が暴落したように見えてしまうだろう。
物の価格は変動性が当たり前のこの世界において、付いた値はその物の価値だ。イメージ戦略に置いて、あまり好ましくないスタートを切ってしまったことになる。
ギルベルトを責めるわけにはいかない。彼はメルフィーナの提示した条件を全て守ったうえで競売に参加し、落札したのだから。
初めての試みなのだ。公開入札制ではなく、封印入札制――紙に落札希望金額を書いて、最も高額の値を付けたものに落札が決定する方式である――にしておけばよかった。
――いえ、そこでも金貨二千枚と書かれてしまっては、結局意味がないわね。
王侯貴族でもおいそれと出せない金額を付けてみせた。オルドランド家正室であるメルフィーナが主催するオークションである。大商会であるクラヴェイン商会が、競り落とした後に払えないとは口が裂けても言わないはずだ。
「「モルトル」は私が持ち帰り、最も相応しいお方に献上させていただきます」
「そう。購入した後でどなたの手に渡っても、それは落札したあなた方の自由よ。ですが「モルトル」は、私にとっても我が子のような存在です。どうか良き方の元に届くように、願っているわ」
「勿論でございます。申し遅れましたが、私はスパニッシュ帝国の出。現在はエスペニア商会の仕入れ担当として大陸の周遊を行う傍ら、帝室唯一の姫君、クラリッサ・エスメラルダ・デ・スパニッシュ姫殿下に忠誠を捧げる者でございます」
ちらり、と大獅子商会の天幕に視線を向ける。
おそらくフェデリコの顔を知っているのだろう、アントニオは彼らしくもない苦い色を浮かべていた。
――エスペニア商会は、帝室の御用商人。
つい先日、アレクシスが言った言葉を思い出し、この出会いをどう感じるべきなのか……まだ判断はつかなかった。




