568.オークションと最初の十本
「メルフィーナ様、ご機嫌麗しゅうございます」
午後を回り、屋台巡りをしていた参加者たちも腹を満たした者は思い思いに花の下で宴会を行ったり、畑の面倒を見なければならない者はいち早く帰宅し、逆に早朝に仕事に入りひと段落した者と入れ替わったりと、人が入れ替わっていく中で領主邸の天幕に整えた髭を蓄え、頭にターバンを巻いた男性が訪ねてきた。
「あら、レナート。秋ぶりね」
「このレナート、春が訪れ、メルフィーナ様にお会いする僥倖に与れたこと、恐悦至極でございます。春の訪れと共にますますお美しい。メルフィーナ様のご威光はますます輝き、花も恥じらって蕾の中に戻るほどの輝きでございます」
ロマーナの資本家であり外航船をいくつも所有する大船主でもあるレナートは、顔を合わせるたびにこの調子である。
もともとロマーナは恋多きお国柄であり、特に男性は、女性は口説かなければ失礼になるという価値観でもあるらしく、美辞麗句の語彙力が豊富である。北部の男性のように黙して語らず、生き様で魅せるのとは真逆の存在である。
メルフィーナも最初の頃は戸惑うことも多かったけれど、慣れた。
「今日は来てくれて嬉しいわ。まさかあなた本人が来てくれるとは思わなかったけれど」
「メルフィーナ様の肝いりのオークションとなれば、何をおいても私が駆け付けぬわけにはいきますまい。大獅子商会に後れを取る訳にもいきませんからな」
「ふふ、話のひとつとして参加してちょうだい。今日は特に、特別な製品のお披露目でもあるから」
「勿論でございます。――ここだけの話ですが、招待状を売ってくれないかという話もいくつか来たくらいでございました。全く、ふざけた話ではありませんか。このような特別な招待を小金で売り渡すなど、商人ならば決してするわけがないのに」
「あら、招待状、足りなかったのかしら」
「いえ、メルフィーナ様には何一つ不備などありませんとも。要は、この土地を北の端と侮り参入が出遅れ、ようやくその価値に気づき始めた者たちが足掻いているだけです。はっはっは! 全く、春の女神の治める土地を見誤った挙句に今更ハエのようにうるさいことといったら! ……ごほん、失礼いたしました。エールを飲み過ぎたようですな」
「エンカー地方のエールを楽しんでもらえているようで、私も嬉しいわ。今日はどうぞ、楽しんでいってね」
レナートに続いて彼と共にエンカー地方の水運の重要な役割を果たす、エルバンに大商会を持つライナー、ソアラソンヌの水運ギルド長のハインツ他、エンカー地方に倉庫や拠点を持つ目立った商会の主たちが次々と挨拶に訪れる。
大獅子商会のアントニオも礼儀正しく祭りの開催の祝いと春の訪れを寿ぐ言葉を告げたが、皆一様に、目を鋭く光らせ参加している商会の代表者たちに目を走らせていた。
「あまりお待たせしても申し訳ないから、そろそろ始めましょうか」
祭りの開始の挨拶をした壇上の周囲には小広場が設けられ、今は放射状に兵士たちによっていくつも小さな天幕が張られている。支柱に布を張った形のそこには椅子が二脚ずつ据えられていて、それぞれの招待者と同行者が二人ずつ入ることができる形になっていた。壇上には小樽が積み上げられ、メルフィーナは足の長い小さなテーブルの傍に立った。
テーブルの上には今日のオークションの目玉が置かれていて、今は緋色の布が掛けられ、その姿は隠されている。
壇上まで付き添ってくれたのは、アレクシスから代わり、先日から無事城館の兵舎に住み着いたブルーノと、ニド一家と思う存分食べ歩きをした後らしく、大変機嫌がいい様子のユリウスである。
ブルーノは騎士服から上等な貴族風の服に替わり、腰に両腕を回して胸を張った。
「皆、よく集まってくれた! エンカー地方領主、メルフィーナ・フォン・オルドランド様の公開オークションに参加する旨、光栄に思うがよいぞ!」
メルフィーナに招かれた商人や資本家のテントまでは多少距離があるけれど、ブルーノの声は高らかに響き、小広場に響き渡る。
メルフィーナの声量では到底叶わないことなので、なんとも頼もしい限りだ。天幕の招待客だけでなく、祭りの参加者たちもなにやら始まったらしいと小広場の周辺に見物に集まっていた。
「本日紹介するのは、城館内の醸造所で造られた「新しい酒」だ。そちらが小樽で二十。こちらはオークションが終わった後、希望する者に一樽限定、金貨三枚で販売することとする」
ざわ、とざわめきが走る。
エールならば大樽で、エンカー地方の直売所なら大銀貨一枚から一枚半で購入することができるというのに、小樽で金貨三枚という金額は恐ろしく高額に思えるだろう。
今日参加している者たちならば払うのは難しい金額ではない。むしろ領主による特別な招待の返礼としてご祝儀として支払っても問題ない程度の額だ。
だが、メルフィーナがそうした「回収」を行わないことは、今日参加している者たちはすでにそれぞれ、理解しているはずだ。ざわめきをかき消すように、一際大きく、ブルーノの声が響く。
「そして! 本日競売の品は、中身はこの小樽と同じ種類の酒だが、今年の領主邸で「最も特別な酒」だ!」
そう告げて、緋色の布を取り去ると、その下から木箱に詰められた瓶が姿を現した。
「領主邸より生まれた新しい酒、その中でも今年最上級品である「モルトル」である! 公爵家に納める物と対を成し、この世に十本しかない。一般にはここでしか手に入らない品だ!」
ブルーノの声に、おお……とざわめきが走る。
「十本、ということは、残りは領主邸に?」
「いや、王家に、ということも考えられる」
「――他国の王家や帝室に、という可能性は?」
さり気なく風の魔法を使ってざわめきに交じる音を拾いながら、従者服に着替えたクリフに指示をして、「モルトル」の入った瓶を持ち、各天幕を巡る。
近くで見れば、また別のざわめきが響いてきた。
領主邸のガラス工房の力作である瓶は、円柱形に柔らかいラインの波紋が描かれ、その中心には黄金の板が取り付けられていて、「モルトル」の名と共に、エンカー地方産のエール樽やチーズの焼き印として利用している花押の意匠が入れられている。
優美で非常に豪華な仕上がりになっている、一目で特別なものと分かる造りだ。
「この酒は非常に「強い」。樽でも二十年は持つが、この瓶に封じられた状態ならば、さらに何十年と変わらぬ味を保ち続ける。開封後も一年や二年で飲めなくなることはない、まさに強靭な酒と言えよう!」
そんな酒が存在するのか。
ざわめきの中に、懐疑的な色が混じり始める。
こちらの世界で主流な酒は、平民ならエール、貴族ならワインだが、そのどちらも長期保存に適しているとは言えない。エールは一週間から十日ほどで、ワインは樽に詰めて三カ月ほどで飲み頃になり、それを過ぎるとカビが生えて腐るか、酢酸発酵により非常に酸っぱくなるか、どちらかだ。
クリフが天幕を一巡して戻ってきたところで、壇上に控えていたユリウスがにこやかに笑みを浮かべて手を振る。
「こちらは現在城館に滞在しているユリウス・フォン・サヴィーニ様である! 王都に詳しい者なら名を知る者もいるだろう。象牙の塔の現第一席に座るお方である!」
一際、大きなざわめきが走る。
エンカー地方の住人、特にメルト村の者にとっては、どうやら貴族らしいが村長の家に居候してフラフラしている青年という存在であるユリウスだが、フランチェスカ王国内において象牙の塔といえば王家直轄の魔法研究の機関であり、その第一席は第一騎士団長と同格の身分を有している。
風変りで何かと掴みどころのない人だが、紛れもなくこの国の最重鎮の一人なのだ。
「ユリウス・フォン・サヴィーニだ。今は領主邸の食客として世話になっている身なので、あまり大仰に紹介されると照れてしまうね」
ユリウスは声を張っていないものの、その声は不思議なくらい小広場の隅々まで響いて聞こえる。
これも風魔法の応用で、声の響きを遠くまで伝える。
「滞在させてもらっているお礼に、城館での酒造りに僕も協力させてもらったんだ。「モルトル」は間違いなく現時点でこの大陸最高の酒だ。おっと、耳ざとい商人のみんなには「この時点で」というのは意味ありげに聞こえるかな。だがその勘は正しいし、大事にした方がいい。商人の重要な才能のひとつだね」
軽やかに、冗談めかすように、ユリウスは笑う。
「この瓶に納められた酒は「ウイスキー」と呼ばれるものだ。うん、初めて聞く名前だね。簡単に説明すると、酒精という酒の成分を極端なくらい強化した酒でね。この小さな器一杯で、エールを何杯飲むより効率的に酔うことができるんだけど、この酒の価値はそこじゃないんだ。この酒はいわば、進化する酒だ。こうして瓶に入れている状態ではその進化は止まってしまっているけれど、樽の中では酒はまだ生きて、時間が過ぎるほどに旨みが増していく。十三年目ごろが最も飲み頃で、三十年くらいは美味しく飲むことができる。つまり時間の経過と価値の上昇は等価であると言えるわけだ」
後ろに詰み上がった樽を手で指して、ユリウスの声は柔らかい抑揚で、聞いているものに染みるように響いていく。
「ここにいるのは一流の商人たちだ。変化し、時間の経過とともに旨みが増していく酒を所有するということの意味と同時に、その酒のもっとも幼い最初の子を、そのままの姿で何十年と手元に置くことができる、その意味が分からない者は、いないんじゃないかな?」
ざわめきは収まり、いつしか会場はしん、と静まり返っていた。
何十年と価値の上がり続ける酒。
だがその酒は毎年生産され続ける。
その中で最初のひと瓶は今しか手に入らず、かつ、この世界の人々の寿命を考えれば、ほぼ半永久的に所有し続けることができる。
世界にたった十本。
こちらの世界でも、希少性を重視する権力者は決して少なくない。誰でも手にすることができるわけではないそれを所有することが可能な人脈、権力、そして経済力。
そこに付随する価値は、文字通り天井がないものだ。
「さあ、奮って競りに参加してくれ! 持っているだけで一生どころか代々の自慢になる、どの国の王侯も喉から手が出るほど欲する一品だ!」