564.投機バブルと再会の抱擁
「こちらの勅許状はそれぞれの工房に、文官ふたりを付けて手配して。エールの新規買い付けの依頼は五月まで停止していると徹底してちょうだい」
平民の識字率は非常に低く、職人にも文字を読めない者は多いので、読み上げる者とそれを確認する者と二人一組で組んでもらうことになる。
執政官であるギュンターがかしこまりました、と穏やかに告げて、執務室を出ていく。残ったヘルムートの差し出した報告書を一読して、メルフィーナはほう、と息を吐いたのに、ヘルムートがうっすらと苦笑する。
「ソアラソンヌに出荷の分は、店頭に出した途端に完売だそうです。商人によっては入荷の馬車が入ったのを見張っていて、売り出す前に値段の交渉をしてくる者もいるそうで」
中には定価の五倍の値を付ける者もいるそうですよ、と困ったように続けられても、そんなに人気があるのかと単純に喜ぶわけにはいかない。その五倍で購入されたエールは、十倍、二十倍と値を付けてさらに転売されるのは火を見るよりも明らかである。
「高く売れる分にはいいと思うのですが、そうではないのですよね」
ヘルムートと共に頭を悩ませていると、オーギュストが控えめに質問してくる。
いち早くトウモロコシの導入が進んだこともあり、北部は飢饉の影響が軽微で済んだためだろう、この手の問題は去年の夏の終わりからじわじわと起きてきたけれど、今年に入って一気に噴出の兆しを見せ始めている。
騎士であるセドリックには、作った物が高く売れるならばそれはいい事と映るのだろうが、商家出身のギュンターにはこの状況が大きな問題を孕むことは、理解できているようだった。
「特定の商品が不当に高額になりすぎると、その商品自体が一種の投資対象になってしまうの」
「投資ですか」
「ええ、例えば領主邸からエールの大樽を大銀貨一枚で販売したとするわよね。それをソアラソンヌまで運んで、大銀貨三枚で販売したとするわ。今は花押入りエールの価値が高くなりすぎて、それを金貨三枚半枚で買うという商人が現れているというわけだけれど、彼らはこれをさらに値を付けて……例えば金貨十枚で貴族や富豪に売ることになるはずよ」
そこまでは流れとして納得できるのだろう、セドリックは神妙な表情で頷く。
「そうなると、大樽を購入した商人は、それを右から左に流しただけで金貨六枚半の利益になるわけよね。勿論運搬やその最中の破損といったリスクはあるわけだけれど、これは決して少ない利益ではないわ」
金貨六枚半といえば、王都で一般的な家族が二年ほどは問題なく暮らせる程度の金額である。
前世とは現金の持つ価値そのものが違うという一面もある。なにしろ、農奴一人が金貨三枚で買えてしまう世界だ。
「こうなると、花押入りのエールはどんどん希少になって、より値段がつり上がっていくわ。花押入りのエールを飲んだと自慢したい貴族や富豪によって、金貨二十枚、三十枚と天井知らずに上がっていくことになるはずよ」
「そんなことが……あるのですか」
自分が日常的に呑んでいるエールにそんな法外な値段がつくのかと、セドリックは懐疑的な様子だった。
「購入した人が消費してくれるならまだいいのだけれど、そこからさらに値を付けて他の者に売ることもあるでしょうね。直売所から金貨三枚半枚で、それを金貨七枚で買った人が、次は金貨十四枚で売り、その人は金貨二十枚で更に別の人に売る……間に人を挟むほど値段が上がり、値段が上がるほど人はそこに特別な価値を見出すようになってしまう。――でもそのエールは本来、大銀貨三枚の価値で売られているものよ」
そうした幻想は、いつか必ず醒める日が来る。
「高額で購入してもさらに高い金額で転売できる「商品」であると認識されるから、その中間にいる商人や貴族たちは無理をしてでも、時には借金をしてでも、本来その価値のない商品に高額な支払いを行うようになるでしょうね。そうしてある日、このエールは大樽で大銀貨三枚の価値しかないと気づく瞬間が来るわ。「商品の価値」に対する期待なんて、結局は幻想だもの。多くの人が手元にあるエールを売り払おうとしたら、今度は商品が過剰に放出されることになる。そうなると値段は一気に落ちることになるわ。だってその高騰を支えているのは、「いくらお金を出しても手に入らない希少なエール」だから」
そうなれば、売った時の利益を見込んで借金をしてでも商品を購入した中間の商人や投資家、貴族たちは大きな損失を抱えてしまうことになる。
市場経済は混乱し、多くの者が破産し、路頭に迷い農奴や奴隷に落ちることになるだろう。
「しかし、実際にすでに高額で購入の声は上がっているのですよね。それは、どうしたら避けることができるんでしょうか」
「一番いいのは、その場で呑んでもらう分だけを売ることね。お腹に入ってしまえば、もう人に売ることはできないもの」
あえて明るく言うと、ヘルムートがふっと笑みをこぼす。メルフィーナも少し肩の力が抜けて、指示書に新たに文面を書き足した。
「まず、このエールの大樽は大銀貨三枚であると広く告知する、定価を定めてしまうことにしましょう」
「定価……決まった価格、ということですね」
物々交換が立派な商いとして成り立っているこちらの世界では、小麦も乳製品もその時が豊作かどうかで価値が変わる。物の値段は変動制であるのが当たり前だ。
ある程度の相場はあっても、定価という概念は全く浸透していないのが現状である。
「ええ。私たちはこのエールの大樽は大銀貨三枚の価値として売っていると告知するの。それでも飲みたい人は上乗せした金額を払う人もいるでしょうけれど、流石に金貨二十枚を出す人は、そうはいないと思わない?」
「確かに、過剰な金額の上乗せは、そもそも元値が定まっていない希少なものだから、というのが大きな理由のひとつである気がします。最初からこれだけの値段であると決められていれば、そこから何百倍という値を付けられることは、そうそう起きないと思われます」
「混乱が起きないように対策はするけれど、それでも金貨を積みたい人は、もう私たちの側ではどうしようもないわ。むしろ増産されないことで本来の購買層に悪い印象を与えないように、そちらの操作を注意深く行わないとね」
さらさらと指示書を仕上げ、メルフィーナはふう、と小さく息を吐いた。
「どれだけ値段がつり上がっても、すでに契約している分と小売りの分は決して樽で販売しないよう、徹底するようにニクラスに伝えて。今は特に、定着を前提に販売していきたいの。エンカー地方のエールとしてお客さんの口に入らないのが一番困るわ」
「かしこまりました」
「酒造工房は拡張の予定だけれど、それまでは今の対策で行きましょう」
現在領主邸が抱えている事業の中で、最も手堅く、かつ需要が高いのがエールの出荷だが、雪解けが始まり移動しやすくなってきたため、申し出は日々増える一方だった。
設備投資を行えば増産は可能だが、それも原料の問題で上限は必ずある。エールの原料となる麦をアレクシスから購入するという手もあるが、一度設備を整えればその後も維持費がかかることになる。
こちらも購買欲が下がった後で採算が取れなくなる可能性があるので、慎重に行っていかなければならない。
「物は、高く売れればいいというわけではないのですね」
セドリックのしみじみとした言葉に頷いて、微笑む。
「一時稼ぎすぎても長く続かなければ意味がないの。しっかりとした基盤を作り、安定して長く売る。結局はこれが、一番確実な商売よ」
* * *
ヘルムートが退出したあとも、処理しなければならない案件は山のように積まれていて、それを端から片付けていく。
本格的な春を直前に控え、エンカー地方は一気に人が増え領主としての仕事もそれなりに増えてきた。
これまで通りの領主制とともに、議会制と市議制の導入を進めているエンカー地方ではそれなりに責任と差配の分業が進んでいるものの、まだまだ準備段階であり、メルフィーナの仕事は決して少なくない。
それも今日は、午後の鐘が鳴ったところで仕事を切り上げ、服を着替えて軽く化粧を施したところで正門から来客の鐘の音が響いた。使用人たちもいつもより丁寧に皺を伸ばしたお仕着せで領主邸の門の前に集まったところで、ゆっくりと公爵家の紋が入った馬車が入ってくる。
この世界の馬車の箱は小さく、長身のアレクシスにはやや窮屈だろう。従者が馬車のドアを開くとすぐに長い脚がタラップを無視して地面に着地した。
「アレクシス、いらっしゃい」
「メルフィーナ。息災そうだ」
笑い合って、軽く抱擁する。雪解けの始まる前に公爵家に戻ったアレクシスとは一カ月半ぶりの再会というところだ。名残惜しく抱擁を解くと、マリーとウィリアムと、順番に再会を喜び軽く抱き合っていた。
「奥方様! お久しぶりでございます!」
「ブルーノ卿も、元気そうでなによりだわ。いらっしゃい」
こちらは馬を駆ってきたらしいブルーノは、前回身につけていたオルドランド家の騎士服ではなく上等な縫製の貴族らしい服にマントを羽織った姿だった。年を感じさせない機敏な動作で馬から飛び降りて、丁寧に騎士の礼を執る。
「奥方様。この度は正式な招致、光栄にございます。このブルーノ・フォン・カンタレラ、誠心誠意、奥方様にお仕えさせていただく所存でございます」
「ブルーノ卿、あなたのような精強な騎士を迎え入れられたこと、私も誇らしく思います。どうぞ幾久しく、よろしくお願いいたします」
貴族の夫人と騎士らしいやり取りをした後、互いに顔を見合わせて、笑い合う。
「こちらには妻と、孫夫婦で移住させていただくことになりました。家族は家財とともに馬車にて、少し遅れて追いつくことになっております」
「ご家族と一緒に来てくれてもよかったのよ。というより、色々と身辺の片付けもあるでしょうし、来てくれるのは夏くらいになるかと思っていたのだけれど」
「いやあ、一日遅れればそれだけ花押入りのエールを飲み逃すことになりますからな! 妻にはむしろ自分も馬で行くと直前まで拗ねられた次第でして」
はっはっはっ、と声を上げて笑うブルーノは、今日も陽気でにぎやかである。
「実は、家がまだ用意できていないの。空きはあるから、しばらく兵士の宿舎で暮らしてもらうことになると思うのだけれど、奥様やお孫さんたちは大丈夫かしら。家が完成するまで、良ければ女性の家族は領主邸の別邸のほうで暮らしてもらったほうがいいかしら」
使用人や兵士の中にも所帯を持つ者が出てきたので、家族で暮らすための棟もあるけれど、旗持ちの騎士は子に自動的に継承ができないだけで、小領地を持つ貴族に等しい暮らしをしている者も珍しくはない。ブルーノほど長くオルドランド家に仕えた騎士の妻やその女性家族は、兵士の宿舎では気づまりなことも多いかもしれない。
そう思っての提案だったが、ブルーノはいやいやと首を横に振る。
「妻も孫たちも、儂によく似て細かいことは気にしない性質です。むしろ若い兵士たちのほうが、やれきちんと洗濯をしろ、掃除をしろ、ちゃんと食えと口うるさく言われてしまうでしょうなあ」
「メルフィーナ様、ブルーノ卿の奥方、マルチダ様は北部騎士団の中では戦乙女と有名なお方です。かつては冒険者で、大型の魔物を単独で倒したこともあると武勇の誉れも高く、実際そこらの若い兵士では太刀打ちできないほど肝の据わった方ですので」
オーギュストの説明に、アレクシスとセドリックまで浅く頷いている。
「とても強い女性なのね」
「孫娘のベルタは、妻の若い頃によく似ておりましてな。粗野な娘ではありますが働き者ですし、目端の利くところもありますので、私同様に奥方様に仕えさせていただければ幸いでございます」
「まあ、それはとても助かるわ!」
メルフィーナもマリーも非力であるし、女性使用人も、これといって腕力があるタイプではない。腕の立つ女性というのは、これまで領主邸にはいなかった存在である。
今後人の出入りが増えれば女性だけで集まる状況も増えてくるだろう。セドリックが王都に戻った後は、オルドランド家を辞し名目上はメルフィーナの奴隷となったヘルマンが護衛を勤めてくれることになっているけれど、様々な状況に対応できるならば、その方がいいだろう。
去年は領主邸の住人も増えて賑やかだったので、マリアたちの旅たちは、メルフィーナにとってもとても寂しいことだ。
けれど、新たな一年にはまた、新たな騒がしさが待っているようだった。
このお話を書きながら、一時期入手が困難だった某ヤクルト製品が普通に買えるようになって本当によかった、と思い出したりしました。