562.リコリスのお茶と懐かしい味
「それでは、しばらくは帝国と北部を行き来することになるのね」
「はい、現在大きな商いの最中ですので、仕方がないのです。帝国内で活動できる者は、とても少ないのです。現場を回す商会員や職人はどうにかなりますが、高貴なお方と面会が可能な者となると……帝国は、フランチェスカ王国よりもかなり厳格な身分制の土地ですので、商人側にもそれなりの素養というものを求められる次第でして」
「本当に大変ね……」
北部でも、公爵家に出入りを許されているアントニオは相当に洗練された立ち振る舞いをする。堂々としているが貴族の反感を買うほどではなく、便宜を図っても恩着せがましさはない。感情の表現が豊かだが下品ではなく、何もかもがちょうどいい塩梅である。
公爵家と商売をするほどの大きな仕事を引き受けていながら、まだまだ開拓中の地方の農村だったエンカー地方まで足を延ばしてくれたし、メルフィーナとの会話の細かい言葉を覚えていて、こんなものがあったのだがと次の行商の時には持参してくれたりもする。
かと思えば外交だけでなく、自分の足を使う仕事を嫌がったりはしない。この冬、彼ほどの距離を移動し精力的に働いた人間もそうはいないだろう。家族を愛し、商売を愛し、人柄もよい。この調子であちこちで縁を結び、仕事を潤滑に行っているのは容易に予想がついた。
アントニオはまさに、商売をするために生まれたような人だ。レイモンドが彼を信頼し大きな権限を任せているのも、むべなるかなというところだった。
「こちらへは連絡員をつけてくれれば、あなたの名代として扱うわよ? もちろん、アントニオが顔を見せてくれるのは嬉しいけれど、移動には危険も多いでしょう?」
「お心遣い、感謝いたします、メルフィーナ様。……ですが、私もこうしてエンカー地方に足を運ぶことは、よい心の支えとなっているのです。その、帝国はなにかとこのあたりに来ることが多く」
このあたり、とアントニオは胃の辺りを撫でさする。
「ああ、だったらすごくいいものがあるわ。マリー、あのブレンドティーを用意してくれる?」
「はい、すぐに」
マリーは頷いて、席を立つ。アントニオが分かりやすくそわそわしているのに苦笑して、そんな大したものではないわ、と前もって言っておく。
「以前、こちらにルクセンの王太子殿下が滞在していたでしょう? あの方のために育てていた薬草がようやく収穫できるようになったのだけれど、ご本人がもうエンカー地方にいらっしゃらないから、少し持て余し気味になってしまってね。喉の炎症や咳止めにも効果があるのだけれど、一番効くのはお腹の痛みなの。いくらかお茶に加工したから、試してみてほしくて」
「おお……」
「そんなに珍しいものではないわよ。ロマーナではリコリスって薬草として利用していないかしら?」
「リコリス……リコリスですか。ううむ」
アントニオは記憶を遡っている様子だったものの、思い当たるところはないらしく軽く首を横に振った。
前世でもリコリス……甘草は世界中で利用されていて、その歴史も古い。多くの効能があり生薬の王様と呼ばれていたほどだ。メルフィーナの手元にあるのはルクセンの医者、サイモンが持っていた種を譲り受けて菜園で育てていたものである。
種から始めると収穫まで時間がかかるものの、去年からマリアが滞在してメルフィーナの菜園は非常に豊作続きだったこともあり、無事根が肥って収穫に至ったものだ。
「おそらくロマーナでは民間を含め、利用されていないか、別の名前として認識されているのだと思います。他の土地でも王侯貴族の関わりでその名を聞いたことはありません」
「どのような層が利用しているかは分からないけれど、ルクセンの医師が、フランチェスカ王国や帝国では比較的手に入りやすい薬草だと言っていたわ」
「ああ、では……おそらく、古い知識に触れるもので、現在ロマーナでは禁制品に入っている可能性がありますね」
その声はやや潜められたもので、気のいい商人は表情を陰らせた。
二十年前の政変で、ロマーナは多くの知識とそれを記した本を失ったのだということは、彼の部下であるロレンツォから聞いたことがある。
メルフィーナのように突然別の世界から突出した知識を持ち込むのがイレギュラーな事態であって、知識というものは基本的に気が遠くなるほどのトライ&エラーを繰り返して蓄積し、最適解を導いていくことで洗練されていく。時に大きく誤認されたまま多くの犠牲すら出し、改善され、やがて科学的アプローチへとつながる道だ。
様々な人々が経験から、観察から、観測から蓄積した知識を記した本を焼き、知識の伝播を禁じることの、なんと罪深いことだろうとメルフィーナなどは思うけれど、前世の世界でもそのようなことは何度でも悲劇として繰り返されたものだった。
「ロレンツォから、ちょっとだけロマーナの事情は聞いたことがあるわ。このお茶はきっと、ロマーナには持ち込まないほうがいいわね。でもここはフランチェスカ王国だし、種はルクセンの医師から購入したものだから、関係ないわね」
人差し指を唇に当てて笑いながら言うと、アントニオもほっとしたように肩から力を抜いた。
おそらく、これまでのようにメルフィーナがリコリスを商品化し、他国にも販売することでロマーナの元老院に目を付けられないかと心配してくれたのだろう。
リコリスは咳止めや気管支炎、粘膜の保護のほか、胃炎、胃潰瘍などの防止薬としての効果も高い。様々な薬草との相性が良く、効き目が強すぎる生薬の緩和剤としても優秀な薬草だ。
非常に効能が多く、大変有用なものではあるけれど、副作用も存在する。医師でもない自分が商品として売り出す気は最初からない。
精々エンカー地方内、あとは親しい人々に個人的に振る舞う範囲に留まるだろう。
そんな話をしているうちに、マリーがトレイを持って戻ってくる。ポットの中身はコーン茶と、リコリスの根を乾燥させ煎じたお茶をブレンドしたものだ。
「薬草らしい味もあるから、苦手な人は苦手かもしれないけれど、ゆっくりと味わって飲むと、中々いいのよ」
そう告げて、最初のひと口をメルフィーナが傾ける。リコリスの何とも言えない強い甘みと、コーン茶の優しい香りが交じり合い、後味に少しだけ薬草らしい香りが残る。
リコリスは甘草ともいい、その名の通り非常に強い甘みを有している。砂糖を入れていなくても、コーン茶とブレンドしていても、ごまかしようがないほど、甘い。
――このちょっと薬っぽいところが、なんだかクセになるのよね。
前世ではルートビアと呼ばれる、コーラのような黒い炭酸飲料にも使われていた。
学生時代の友人は薬っぽくて苦手だと言っていたけれど、メルフィーナは好きでたまに飲んでいたのを懐かしく思う。
くっ、と嗚咽をこらえるような音がして、驚いて顔を上げると、アントニオがお茶のカップを手にしたまま、もう片方の手で顔を覆っていた。
その体は小さく震えている。
「どうしたの? アントニオ」
マリアが驚いて声を掛けると、アントニオはいえ、失礼しましたとやや震える声で言い、そっと顔を上げる。
「まだほんの子供の頃、悪い風が入り咳が止まらなくなってしまった時に、母が煎れてくれたお茶と、同じ味がします」
泣きそうに表情を歪め、それでいて、アントニオの口元は笑みの形になっている。
「甘い味がするものの少し苦く、鼻に残るような後味が苦手で、砂糖の方がいいと、随分困らせたものでした……」
「リコリスは咳止めにも効果があるわ。きっとお母様は、アントニオに早く治って欲しかったのね」
子供の死亡率は決して侮れない高さだ。それだけに、社会全体に子供の死はある程度仕方がないものだと許容される空気もある。
それでも、無事に育ってほしいと願う気持ちは世界が違っても変わりはないのだろう。
「本当に……親の心というものは、自分が親になってみなければ、分からないものですなあ……」
目じりに浮いた涙を拭いながら、アントニオはしみじみと笑った。
「このお茶は胃腸にもとてもいいの。アントニオはしばらくこちらと帝国を行き来するというから、飲みすぎは良くないから一日一杯程度を目安にして、無くなる頃にはまたこちらに来てちょうだい」
アントニオは他国の国民だし、流れるように移動を続ける商人だ。自分との付き合いも商人とその顧客であるとは分かっているけれど、同時に大事な友人であるとも思っている。
「末永く健康でいてね。家族のためにも、レイモンドのためにも、私のためにも」
「は……」
アントニオは胸に手を当てて、深く頭を垂れる。
メルフィーナの隣では、マリアが薬臭い、でも癖になるんだよねえと、のんきな声をあげていた。
無事戻りました。本日から更新再開いたします。
ルートビア、子供の頃は苦手でしたが今は好きになりました。