560.騎士の過去と二人の未来
柑奈まち先生によるコミカライズ5話が更新されました。
本文下のリンクから飛べますので、お楽しみいただければ幸いです。
「なんかアレクシスのこと殴りたくなってきたかも」
オーギュストにとってアレクシスが大切な相手であるのは理解しているし、オーギュストからアレクシスに対する怒りを感じはしないものの、ぽつりと呟いたのは本音だった。
前々から人の感情の機微に疎いところがあるとは思っていたけれど、そもそもオーギュストとマリーがどうこうなるなんて、付き合いが一年に満たない自分でも相性が悪いと感じることである。
メルフィーナも顔を合わせないまま北部にきて翌日には結婚式だったと言っていたので、こちらの結婚観はそういうものなのかもしれないけれど、近くにいた二人くらい、融通を利かせてもよさそうなものだとも思う。
我ながら不機嫌がそのまま声に出てしまった。当事者であるオーギュストのほうが、まあまあと宥めてくる始末だ。
「マリア様、少し説明すると、この話は俺にとっても決して悪い話ではなかった――というか、騎士からすればこの上ない名誉な話ではあったんです。主君の女性家族を任されるというのは主からの最上の信頼の証ですし、ましてその身内の女性を妻にというのは、誰よりも信頼していると表明するようなものですから」
「あ、そういえば、女性の護衛騎士はすごく信頼されているって聞いたような気がする」
「はい、騎士にとって実利的な報酬よりも、主から信頼されていると表明されるのは、大変な名誉です。それこそ命と引き換えにしても手に入れたい誉れですね」
「ううん……」
「この辺りの感情は、マリア様やメルフィーナ様には理解しにくそうですよね。お二人はとても実利的で、俺から見ると感覚が商人に近いと感じます。――ですが、騎士にとっては「商人のようだ」というのは、決闘に発展しかねない侮蔑の言葉だったりするんです」
「え、そこまで!?」
オーギュストは重々しく頷くと、なのでこの表現には気を付けてくださいね、と態度とは裏腹に、茶化すように言う。
「貴族や騎士には、商人をあからさまに侮蔑する者も少なくありません。なので、公爵家に出入りする商人の相手は彼らに偏見のない俺に任されている始末です。それくらい騎士は栄誉を重んじる生き物とされている、ということです」
「そ、そっかぁ」
その言葉で、なんとなく、大獅子商会の人たちがメルフィーナにあれほど頼り、かつ丁寧ながら信頼深く接する理由も理解できた気がする。
貴族との取引も多いという大獅子商会の人々にとっても、メルフィーナのように対等に近い振る舞いをする貴族は珍しいのだろうし、彼らだって人間なのだから、自分たちを蔑む者より親しく振る舞ってくれる人の方が心を許せるというものなのだろう。
「マリー様は公爵令嬢としては非公式な立場でしたが、その立場は公爵領の関係者なら知っていて当然でしたし、閣下は閣下なりに、俺のことを考えてくれたんですよ。もしマリー様との話がまとまれば、公爵邸内に新たに部屋を貰うか敷地内に家を建てるかということになったはずですので」
「ええと、オーギュストは実家に帰らなくてよくなるってこと?」
「カーライル家には騎士爵領として管理している土地がありますので、跡を継いだらどうしたって戻らなきゃいけませんが、廃嫡になればそうですね。実質的にはマリー様に婿入りした形に近くなったと思います。そこから二十年ほど第一線で働いたあとは、別の小領地の管理を任されて騎士は引退するか、内向きの騎士としてルーファス様のように閣下の政治面での補佐に回ることになったと思います」
それが待遇としてどの程度のものなのか、マリアには分からないけれど、オーギュストには不満のないものであるらしい。
公爵家の侍女と騎士として、実際は妹と親友がずっとアレクシスの傍にいる形になるならば、アレクシスとしてもそれを最良だと思ったのだろうか。
「なんか、こっちの人ってあんまりはっきりと自分の気持ちを言わないよね」
「北部は特にそうなのでしょうね。慣例を重んじ、寡黙で、けれど懐深く振る舞うのが美徳のように扱われています。俺やブルーノ卿みたいな性格だと周りも少々やりにくいんでしょう」
「正直、アレクシスとも相性悪いと思う。相手に黙って何かしてはコケてること、多くない?」
「閣下も北部の、特に騎士階級からは大変な名君として敬われているんですけどね。マリア様やメルフィーナ様にはそう映っていないのは、伝わってきます」
「マリーも結構呆れてると思うよ」
同じ世界で生まれ育っても、立場や性別が変わると見えるものが全然違うということらしい。マリアの感覚からすれば、オーギュストの父親に話を持っていく前にオーギュストとマリーに個人的に話をすればそこで終わった問題であるように思うけれど、多分、こちらの結婚観としてはそういうわけにはいかなかったのだろう。
「俺も、親父に爵位と引き換えに売られかけたことに、傷ついているとかではないんですよ。反感はありますが管理地に戻りたかったわけでもありませんし。結局こうして俺は自分のやりたいようにやる口実を手に入れたことになりますから」
「うん……」
「あの件に関しては、マリー様に、あなたの人生を犠牲にして安楽に生きるつもりなど私にはありませんってきっぱり言われたことのほうが堪えました。実家からも結婚相手からも、お前である必要ないって言われた気がしてしまったんですかね」
オーギュストらしからぬ感傷的な言葉に胸が痛み、つないだままの手をぎゅっと握る。
オーギュストの手は大きくて、ごつごつしている。彼の見た目は軽やかで笑顔が爽やかな好青年という雰囲気だけれど、この手ひとつでどれだけ色々なものを積み重ねてきたのか察することができるような、鍛えられた手だ。
どれだけ彼が軽妙に振る舞っていても、そこには積み上げてきたものがあるのだと、思い知らされる。
「マリーは、それは、優しさから言った言葉だと思うけど」
「はい、俺が歪んでいたんです。結局俺は、家のことも親父との関係も、自分の将来のことも後で考えようと適当に放り出して、目の前にあるものを小器用にこなしていただけだったんですよね。そんな見て見ぬふりをしていたものを、突き付けられた気がしました」
はぁー、と空に向かってため息を吐いたオーギュストに倣い、マリアも空を見上げる。
そこには白い小さな雲がいくつか浮いている以外は、青い空が広がっている。夜が置き忘れたように、細い月が浮いて見えた。
「俺は、自分の人生っていうのは家のため、閣下のため、北部のためにあると思っていたというか、他の騎士たちと同じように、そう思い込もうとしていたんですよね。だってその方が楽じゃないですか」
「楽、かなあ」
「叶わない願いを抱えながら、不満だらけで生きるよりは楽だと思います。でも、そんなことを思っている時点で、俺は他の騎士たちのような考え方ができていないって証しでもあるわけですが」
なんでそう思えないんですかね、とオーギュストは笑う。
笑っているのに、そうあれたらよかったのにというのも彼の本音なのだろうと、伝わってくる。
「例えば、かつての閣下は本当に徹底していました。オルドランド家に生まれて北部の支配者となるために育ち、剣を振るい馬術を学び、領主としての教育を受けて任地に封じられて。それを疑問なく、自分の命と人生を懸けるのが当たり前だという態度を一切崩しませんでした。俺は、自分にはない不器用な生き方を全うしようとしている閣下を尊敬していますし、支えたいと思ったんです。唯一の例外が、結婚に関することですが、これはまあ、当時の公爵家の空気や雰囲気を知っていれば、むしろ受け入れるほうが人間味がないと俺なんかは思うわけですけど」
「うん……」
部外者であり当時のことなど知る由もないマリアではあるが、オーギュストの言いたいことも、なんとなく分かる。
ほんの数日立ち寄っただけで、公爵家の空気は重く、閉塞しているように感じた。
アレクシスが跡を継いでから七年が過ぎてもあんな感じだったならば、彼の両親が生きている時はどうだったのか、想像が追い付かないほどだ。
「まあ、そういうなりゆきがあったので、マリア様に同行することに家は気にしなくていいです。改めて俺の方から廃嫡を申し出てありますし。殴られはしましたが、すぐに代わりを見つけると思います」
「殴っ……あっ、もしかして前に公爵家に行った時!?」
「はい。ちょっと頬が腫れただけで、なんていうか、親父も年を取ったなあとしみじみしました」
それはしみじみするようなことなのだろうか。突然の暴力の話にオロオロしていると、オーギュストの目がああ、しまったというような色になる。
彼はマリアの反応をつぶさに見ていて、何が感性に合うか、合わないかを判断して会話を選んでくれているのは伝わってきていた。そんなオーギュストにとっても、それが大した話だとは思わなかったらしい。
「子供の頃は殴られて、乳歯が三本飛んで行ったこともありますから、本当にあれくらいは大したことがないんですよ」
その言葉にさぁ、と自分でも血の気が引いたのが分かった。くらくらして、体を凭れかけていた木の幹に、さらに体重を預ける。
今でもちょっと可愛いなと思う瞬間があるオーギュストの少年時代など、さらに可愛かったに決まっている。
そんな子供の歯が折れるほど殴りつけるとは、マリアには想像もできない。
「大丈夫ですか? すみません、そこまで衝撃を受けるようなこととは思わず」
「いや、あの、それって、私の感覚だとぎゃくた……いや、あの」
どう言葉を選んでもひどいことになってしまいそうでしどろもどろになっていると、それを察した騎士に苦笑されてしまった。
「こちらでは、大人が子供を懲罰で殴るのは問題になるようなことではないので、生え変わる乳歯でむしろ幸運だったくらいですが。……メルフィーナ様を見ていても思うんですけど、お二人はなんというか、子供にとても優しいですよね?」
「普通だよ。子供なんて小さくて弱いんだから、大事にしなきゃでしょ」
オーギュストはうーん、と考え込むような素振りをみせた。
「多分その辺りの価値観が全然違う気がします。反応を見ればわかりますが、マリア様は、こちらのやり方には賛成はできないんですよね?」
「暴力には基本的に賛同はできないかな……。多分、どうしようもない時っていうのもあるんだろうけど」
護衛騎士などという職業が成り立つほどなのだ、王宮とエンカー地方しか知らないマリアが知らないこの世界の現実が、まだまだたくさんあるのだろう。
暴力的なことはよくないという意見も、旅をしてその現実を見るうちに変わってしまうのだろうか。そんなことを考えて暗い気持ちになっていると、オーギュストはでは、と明るく言った。
「その時がきたら、子供の育て方はマリア様の価値観に合わせましょう。こちら流にして、俺本体まで嫌われたくないですし」
「……ん?」
「俺も分からないことが多いと思うので、色々と教えてください」
さらりと言われて、それが何を意味するのか頭の中で咀嚼して。
下がった血の気が、みるみる顔に上ってくるのが、はっきりと自覚できた。
「あっ、う、うん。そ、そうしてくれるとすごく、嬉しい、かなぁ」
「はい」
年上の騎士……恋人は、からりと笑う。
また手のひらの上で転がされたような気がしたけれど、つないだ手は温かく。
悔しいような、愛しいような、色々な気持ちで胸がいっぱいになってしまうのだった。
マリアは少しオーギュストに夢を見ているところがあります。
オーギュストがマリアに治療をしてもらわなかったのは、この痛みは甘んじて受け入れねば……みたいなものではなく、大したことないと思っていることでマリアの手を煩わせたくなかったからです。




