558. 乗馬とクローバーの草原
初めて乗る馬は思ったよりも高い上に上下左右に結構揺れた。鞍にしっかりと掴まって背中をオーギュストに支えてもらっていても最初は中々怖かったけれど、背後から「リラックスしてください」と囁かれて、別の意味でドギマギとしてしまう。
「馬は敏感な生き物です。騎手が緊張していればそれが伝わって、馬も滑らかに動けなくなってしまう。カノープスは多少気性が荒いところもありますが、中々優しい奴ですから、女性を振り落としたりしません。動きに逆らわず、身を委ねてください」
「う、うん」
普段からマリアの一番近くにいる護衛騎士だが、さすがにここまで密着したのは初めてだ。前かがみにならないようにと言われても、少し後ろに背中を伸ばすとオーギュストの体に触れてしまってなんとも緊張する。
いやいや、緊張するなと言われたばかりだった。上下と、少しだけ左右にも揺れる動きになんとか体を任せていると、段々その動きに規則性があるのが分かってくる。馬が気まぐれに大きく跳ねたらそれだけで宙に投げ出されてしまいそうな怖さがあったけれど、オーギュストが優しい馬だと言ったのだから、信じようという気になった。
「そうそう、上手です。コツを掴めばすぐ一人でも乗れるようになると思いますよ」
「うん。あは、ちょっと楽しくなってきたかも」
やや丸めていた背中を伸ばせば、地面が遠い分空が近い。随分暖かくなってきた風に髪が揺れて、頬を撫でる。
そうして三十分ほど軽く走ったあと、目的の草原に着いた。ここはこの春の休耕地で、緑肥として蒔いたクローバーが淡い緑色の葉を揺らしている。
馬から降りるとカノープス――オーギュストの馬は早速というように、まだ小ぶりなクローバーを食み始める。空を高く飛びながらついてきていたマリアの鷹のウルスラが急降下してきたので、腰帯に引っ掛けておいた布を手に巻いて掲げると、キュイキュイと甘えた声を上げながら着地した。
「ここらで少し休憩にしましょうか。初めてだと背中や腰が痛くなることもありますし」
「うん、もうちょっと痛いかも。普段使わない筋肉を使ったって感じ」
オーギュストがカノープスの背中から荷物を下ろし、木陰に布を敷く。どうぞ、と手を差し伸べられ、照れくさくエスコートされながら布の上に腰を下ろす。
カノープスは合図をすれば戻ってくるように躾けられているそうで、自由に草原を駆けては時々足元のクローバーを食んでいた。
今日はいい天気で、青空が広がっている。時々千切れたような形の雲が空を流れていくけれど、それも冬の間の曇天と比べれば可愛いものだ。
ここに来るまでの道も路肩に避けられた雪はまだまだ残っていたけれど、新しく降ることがないので少しずつ溶けて、日に日にその姿を消していくのだろう。
「太陽が出ているだけで結構あったかいね」
布の上で足を伸ばして言うと、オーギュストもそうですね、と応じてくれる。
靴を脱ぎたいと思ったものの、こちらの世界では足を出すのは非常にはしたないこととされているとメルフィーナから忠告を受けているため、我慢する。こちらでは、ピクニックの時でも靴を脱ぐようなことはないらしい。
「どうでしたか、初めての乗馬は」
「乗ったというより乗せてもらったって感じだけど、すごく楽しい! 練習したらどれくらいで乗れるようになるものなのかな」
「小姓だと結構ばらつきがありますね。最初からある程度乗れる奴もいれば、中々馬との信頼関係が結べないやつもいますし。コツは、馬の傍では静かにゆっくりと話すことですね。馬は神経質なんで、特に大声を出す男は好まない傾向が強いです」
「そういえば、騎士ってみんな落ち着いてて、ゆっくり話すもんね」
「小姓と従士の時点で、その辺りは礼法としてかなり厳しく叩き込まれます。騒がしくて落ち着きのない騎士は、士気を乱しますから」
オーギュストも気ままで自由そうな雰囲気ではあるけれど、衝動的に大声を出したりオーバーリアクションをすることはほとんどない。彼がそうする時は、その態度にちゃんと意味がある時だ。
オーギュスト以外の騎士となると、マリアは数人しか知らないけれど、やはりみんな寡黙で落ち着いている人ばかりだった。例外といえばブルーノだろうか。彼は声が大きくて身振り手振りもかなり派手な人だった。
そんなことを考えていると、まるで思考を読んだように、オーギュストがふっと笑って告げる。
「ブルーノ卿の馬は、主に似て図太い性格なんです。脚もすごく太くて、馬力が強く、乾いた土地を走ると土煙がすごいんですよ」
「あは、なんか想像できるかも」
「勢いがあって人を率いる力のある走りを見せる馬です。先頭を走っていると後に続けと思わせられるし、駆けつけられると助かった! と感じられる、得なタイプですね」
オーギュストの声は軽い口調だけれど、ブルーノに対する好感がしっかりと滲んだものだった。ブルーノの前では軽薄なように見える態度を取っていたけれど、きっと尊敬する人なんだろう。
少し冷たい風がそよそよと吹いていて、気持ちいい。太陽の光がさんさんと降り注いでいるので、寒いとは感じなかった。
以前から馬に乗せてもらおうという話はしていたけれど、今日は思い切って乗せて欲しいとねだってみたのは、オーギュストと二人で話したかったからだ。それには領主邸から連れ出してもらう必要があった。
領主邸内にはあちこちにベンチが設置してあり、誰でも自由に使っていいことになっていて、中庭に面した回廊のベンチはマリアのお気に入りだ。そこも日当たりがいいし、魔法で水や風を出しても室内のように滅茶苦茶にすることはないし、よくユリウスとレナが何かしら遊んでいるのもこの辺りが多い。団欒室に次ぐ憩いの場である。
けれど、そこではできない話もある。
オーギュストとは、一応両想いになった。
相手に余裕がありすぎるしマリアはいつも一杯一杯で進展らしいものはないけれど、ちゃんと気持ちを言葉にしてもらったし、そういう嘘を吐くタイプではないと思う。
ただ、人目があるところで恋人のような振る舞いをすることはない。そこは仕える相手と護衛騎士の、けじめというものなのだろう。
そして中庭だろうが団欒室だろうが、領主邸内で人目のないところなどほぼないのである。
勘のいい彼のことだから、マリアが話をしたいと思って誘ったことは気づいているだろう。けれどただ二人きりになりたかったというのも嘘ではなく、そのはずなのに実際目に映る場所にはカノープスとウルスラ以外誰の気配もないとなると、途端に緊張してしまう。
「なんか、二人きりだと緊張しますね」
「……オーギュストもそうなの?」
「そりゃあ、そうですよ。他の誰かがいれば落ち着いた騎士らしく振る舞うのは難しくないんですけどね」
オーギュストのような大人の男性でもそうなのだろうか。それとも、緊張している自分に合わせてそう言ってくれたのか。
どちらにしても、少し会話をしたことで肩の力がふっと抜ける。マリアに抱っこされたままクルクルと甘えた声を出して脱力しきっているウルスラを抱え直し、すう、と息を吸う。
「あ、あのさ、エンカー地方を出るって話なんだけど、メルフィーナとも話をして、もうすぐロマーナの隊商が来るはずだから、最初はその移動に便乗させてもらったらどうかって話になって」
「ああ、いいですね。彼らは旅暮らしに慣れていますから、そこから学ばせてもらうことは多いと思いますよ」
「うん、アントニオに頼んでくれるって。アントニオ、帝国の偉い人に気に入られているらしいんだけど、それがすごく大変みたい」
「帝国は帝室の力がかなり強いので、気苦労が多いでしょうね。今の帝室には皇帝カルロス・フェルナンド・デ・スパニッシュとその妹姫のクラリッサ姫の二人しか直系がいないはずなので、そのどちらかと交流があるんでしょう」
「貴族とかじゃなく、いきなり帝室なの?」
「帝国は帝室の権力が強すぎて、貴族はほぼお飾り状態なんで。噂によると皇帝カルロスの前で帽子を脱ぎ忘れたという理由で、侯爵家が取り潰されたこともあるという話です」
多少誇張されているかもしれませんがとオーギュストは悪戯っぽく笑うけれど、本当だとしたらとんでもないことだというのはさすがにマリアにも分かる。
自国の侯爵家すらそんな理由で取り潰すなら、他国の商人など生きた心地はしないのではないだろうか。
「アントニオ、大丈夫かな。胃をやられてないといいけど」
「メルフィーナ様が胃腸を整える薬を作ってあげたいと言っていましたね。菜園で育てているリコリスが、そろそろ収穫時期だとか」
「リコリス? 聞いたことあるような、無いような」
「元々はルクセンのセルレイネ殿下のために植えたもののようですが、成長する前に殿下が去られてしまったので、使い道がなくなってしまったようですね」
同じゲームと日本の記憶を持っていても、メルフィーナの知識は裾野が広く多岐に亘り、また専門的なことも網羅している。一体どんな頭をしているのかと訝しく思うこともあるけれど、本人曰く雑学オタクなだけらしい。
「メルフィーナが作るなら、医薬品というよりハーブティみたいに効果がちょっと期待できる嗜好品って感じかな。前に、医療関係には軽率に手を出す気はないみたいなこと言っていたし」
なんにせよ、あの気のいい商人が少しでも楽になってくれればそれに越したことはないと思う。
会話が途切れて、また少し、沈黙が落ちる。
そよそよと吹く冷たい風が気持ちいい。手持ち無沙汰でウルスラを撫でれば、心地よさそうに首をぐい、と曲げてマリアの手のひらに頭を押し付けてくる。まるで猫のようなしぐさに、ふっと微笑んだ。
風が気持ち良くて、太陽の光が気持ち良くて、辺りは淡い緑に覆われていて、好きな人と二人きりで。
終わりかけの冬の、もしくは始まりかけの春の空気は少し独特の湿り気があって、でもそれは嫌な感じはしなかった。
黙っていても、今は居心地の悪さは感じない。むしろもうしばらくこうしていたいような気持ちすら湧いてくる。
「マリア様」
「ん? うん」
眠いわけではないけれど、その気持ちよさに少しぼうっとしていると、優しく名前を呼ばれる。
隣に首を巡らせれば、オーギュストは目を細めて、悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「俺に、何か聞きたいことがあるのでは?」
「あ」
忘れていたわけじゃないのに、不意を突かれてそんな声が出てしまって、くつくつと笑う食えない護衛騎士にかあ、と頬が熱くなってしまった。




