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捨てられ公爵夫人は、平穏な生活をお望みのようです  作者: カレヤタミエ


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550.別れとはなむけ

 出立は早朝と決まっていたので、食堂に集まったのは窓の外がうっすらと明るくなり始める、太陽が顔を出していない時間だった。


「姉上、会えて本当に嬉しかったです。どうかお元気で、幸せでいてください」

「ありがとうルドルフ。あなたも元気で、良い領主になってちょうだい」

「ルドルフ兄様、どうか壮健で。いつか私も、南部を訪ねさせてください」

「勿論だ。成人して任地に封じられる前に、少し飛び出して冒険しにくるといい」


 今では随分落ち着いているけれど、意外と猪突猛進なところがあるウィリアムならそそのかされかねない誘惑である。


 後日、飛び出したりしなくても相談してくれたらそのように手配するとさりげなく言っておいたほうがいいだろう。


 ウィリアムはともかく、交通網が発達していないこの世界では南部と北部の端で離れて暮らす姉弟は、次はいつ会えるか分からない。

 数年後か、十数年後か――病気や怪我で悪い風が入って、会えないまま思わぬ別れが来ることだってあるだろう。


 それでも、いつかまた会えるのだと信じて微笑む。


「エリアス、ルドルフをお願いね。この子は思い込みが強いところがあるから、間違ったことが起きたらあなたが諫めてあげてね」

「勿体ないお言葉です。未だ力の及ばぬ身ですが、努力していきます。それと……ルドルフ様とも話をいたしましたが、メルフィーナ様とマリア様のご所望された米につきましては、私から手配できれば幸いです」

「ええ、お願いね。届くのを待っているわ」


 馬車の用意もそろそろ終わるだろう。その前に、済ませておかなければならないことが一つ残っていた。


「贈答品の返礼なのだけれど、何にしようか色々と迷ってしまってね。宝飾品を託すのも、頂き物を右から左のようになってしまうし、それならいっそ実用品はどうかと思うのだけれど」

「実用品、ですか」


 返礼として相応しい実用品というものが思いつかなかったのだろう、エリアスの表情に、僅かに困惑が滲む。


「ええ、とてもいい実用品よ」


 そう言ってセドリックに運んでもらったのは、男性の腕で一抱えほどある大きさの木箱だった。テーブルに置いて蓋を開けてもらうと、金属製の重たい筒と部品がいくつか、それからレバーがきれいに納められている。


 それを見て、エリアスはさらに困ったような表情を浮かべていた。意地悪をするつもりはないので、すぐにこれが何かを説明することにした。


「これは水を汲み上げる装置で、エンカー地方では手押しポンプと呼んでいるわ」

「水を汲み上げる装置ですか。姉上、どのように使うか教えていただけますか」

「領主邸には裏庭にひとつ設えてあるわ。見てみないとイメージが湧かないでしょうから、実際に使ってみせるわね」


 メルフィーナがそう言うと、マリーがさっと毛皮のコートを差し出してくれる。好奇心に目を輝かせるルドルフと未だ懐疑的な色を消せないエリアスを伴って、厨房の脇にある扉から外に出ると、早朝のエンカー地方のキンと冷えた空気が頬を撫でた。


 厨房にある勝手口から出た裏庭は、商人が食材などの荷の受け渡しをしたり、メイドたちが洗濯をしたりするためのスペースになっている。


 領主邸内には水の魔石を使った蛇口があるけれど、洗濯はポンプで汲んだ水で行われていた。


「これが手押しポンプを組み立てたものよ。この下は井戸になっていて、水が溜まっているわ」

「これが井戸ですか……蓋がしてあるようですが」

「水はポンプから出るから、これでいいの。やってみせるから、見ていてちょうだい」


 レンガを積んで作った丸い枠に鋼鉄製の蓋をして、その上に手押しポンプを設置した井戸の前に立つ。蓋の上に置かれた手桶には水が入っていて、まずはそれをポンプの口に呼び水として注ぐ。


 レバーを持ち上げて下ろすのは非力なメルフィーナでもなんとかなる程度の力だ。最初はすかすかと手応えのない動きが続くけれど、動かしているうちにゴボゴボと水が動く音がして、やがてドッ、とポンプの口から水があふれ出した。


「こうして一度水が出れば、あとはレバーを動かすたびに井戸から水を汲み上げることができるわ」


 水を手桶に注ぎ、使った時と同じように蓋の上に置いておく。これが次にポンプを使うときの呼び水として使われることになる。


「素晴らしいです。水汲みは重労働ですから、これが村の中心にひとつでもあれば、領民はどれほど助かるでしょう」


 魔石の蛇口から水が出ることが当たり前のルドルフにはピンときていないようだが、エリアスには桶で水を汲む労力が理解できる様子だった。実際に使っているのを見て、興奮した様子で目を輝かせている。


「この手押しポンプは、どの程度の深さから水を汲むことができるのでしょうか」

「数字の上では十メートルが限界だけれど、安定して水を汲みたいなら七メートル前後というところよ」


 重機など存在しないこちらの世界では、井戸の深さは精々五メートルから十メートルの間というところだ。大抵の井戸に手押しポンプは適合するとエリアスも理解したようだった。


「このポンプの現物と、構造を熟知している技術者を半年貸し出すわ。構造自体はそれほど難しいものではないから、南部の職人に同じものを造れるように技術指導をしてもらってちょうだい」

「まさか、これほど素晴らしい技術を供与していただけるとは……」


 新しい技術と知識は独占するのが常識となっている中で、それの供与は計り知れない価値がある。金貨にすれば何枚になるか分からない贈答品も、技術の値段ひとつで賄えてしまうものだ。


「ルドルフ、このポンプの価値は、ただ民衆や使用人の日常を便利にするのにとどまらないわ。――南部にも地下水で水没してそれ以上の採掘ができなくなってしまった鉱山って、あるでしょう?」


 ルドルフがはっと表情を変える。隣のエリアスはそれに気づかなかったことに息を呑んだ後、青ざめた。


 鉱山の採掘中における湧水、もしくは天水の流入は採掘の大敵である。


 坑道に水が湧けばそれ以上の採掘が困難になり、水に有害物質が溶け込んで人体に重篤な害を与えることすらある。まだポンプが「発明」されていないこの世界では、坑内排水は人力で汲み出すしかなく、非常に過酷な労働であり、使い潰す前提で犯罪奴隷を投入するような仕事のひとつになっている。


「今見たように、このポンプは私くらいの力でも七メートルほどの距離から水を容易に上に汲み上げることができるわ。七メートルごとに集水地を作って、下から順に水を汲み上げて排水を行っていけば」

「現在、湧水でそれ以上採掘できなくなっている鉱山も再採掘が可能になるわけですね、姉上!」

「それは……その価値は、計り知れません。南部の鉱山を抱える領地全てに革命が起きます」


 乾いた声で呟くエリアスに、頷きで返す。


「ルドルフ。これは私からあなたへのはなむけでもあるわ。上手く使いなさい」


 言葉の意味が分かったのだろう、ルドルフははっとしたあと、真剣な表情になる。


「はい、姉上」

「エリアス、ルドルフの補佐をお願いね。――結局一度も足を踏み入れることのなかった南部だけれど、あなたたち二人が南部を明るく照らす未来を、私も信じているから」

「はい。……はい、必ず」


 涙ぐんで頷くエリアスの背中を、ルドルフが少し強めの力でバンバンと叩く。

 笑い合う二人は主従を越えて、仲のいい同性の友人の距離感だった。


 そうして太陽が稜線から顔を出す頃、別れを惜しみながら二人を乗せた馬車はソアラソンヌに続く街道へと出発した。遠のいていく馬車が小さな点になるまで見送って、胸に残る寂しさに、ふっと息を吐く。


「それにしてもメルフィーナ様。よろしかったのですか。手押しポンプだけでなく職人まで連れて行かせてしまって」

「手押しポンプの機構自体はそう難しいものでもないもの。使い方はこれから試行錯誤してもらうとしても、職人は秋までには丁重に帰してもらうわ」


 それに、とメルフィーナは問いかけたセドリックに微笑む。


「元々手押しポンプは、騎士団を引退したブルーノにエンカー地方に来てもらうお礼に、彼の実家に供与する予定だったもの。これを機に国中に広がると思うわ。北の端と南の両方からなら、広がりやすいでしょうしね」


 ブルーノの実家であるカンタレラ家は、鉱山地帯を治めている家のひとつだと聞いている。他の鉱山がそうであるように、湧水や坑水に悩まされていることだろう。


 一族で現在、唯一高魔力のブルーノを顧問として預かるのだから、相応の礼儀としてその技術の供与を行う予定だった。


 手押しポンプの構造はシンプルで、見よう見まねで作っても数回試行錯誤すれば職人には機構がすぐに理解できるものだ。


 すでにエンカー地方にはあちこちに設置されているし、目ざとい商人たちは現物を欲しがって鍛冶工房や領主邸への問い合わせも増えている。特許という概念などないこの世界のことだ、一度現物が外に出れば、瞬く間に類似品が作られていくのは目に見えていた。


 採掘量が限られた宝石類や、職人の手が細やかに入っている宝飾品や毛織物は長く価値が変わることはないけれど、あのポンプは十年後には色々な場所で使われるありふれたものとして、その価値は作っている金属の価格に少し上乗せしたくらいのものになるだろう。


 もっともそれまでも、そこから先も、ポンプという道具が与える恩恵は非常に大きなものであり、それは決して輝かしい宝石に負けるものではない。


 新たな領地に封じられるルドルフの、最初の実績になってくれればいいと思う。


 馬車を見送るメルフィーナの目に眩しいものが刺さり空を見上げると、灰色の雲の割れ目から青色が覗いていた。


「あら、晴れ間だわ」

「久しぶりの青空ですね」


 うしろに控えていたマリーがしみじみとした声で言う。


 厚い灰色の雲が空を覆うのは、北部の冬の約束ごとのようなものだ。

 長かった冬が、ようやく終わりかけている。


 春はもう、すぐそこまで来ていた。



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