549.南と北の未来と友情
獲物を見据え、弓の弦を引くウィリアムを、ルドルフは息を呑んで見守っていた。
空気が肌に触れる感触すらぴりぴりと感じるほどの緊張感の中、きりり、と引かれた矢は空に放たれ、ちょうど上空を飛んでいた鳥の胴に吸い込まれるように命中する。鳥はそのまま地面に向かって落ちていき、兵士の命を受けた犬が一直線に走り出したところで、ふっとそれまで張りつめていた空気が緩むのがわかった。
「見事!」
射手であるウィリアムは集中を解いて、ふう、と満足げに息を吐いた。そう待つこともなく、獲物を回収してきた犬が戻ってくる。まだ若い犬で、褒めて欲しそうに尻尾をぶんぶんと振っている。
獲物は春の渡りを前にした、丸々と太ったヤマシギだった。小ぶりな鳥だが味は良く、南部でも丸焼きにして食べることが多い鳥だ。
「ウィリアムの弓は、本当に見事だ。飛んでいるヤマシギをあれほど正確に射抜くとは」
ヤマシギは飛び方が特殊で空で不規則な動きをするため、空を飛んでいるヤマシギを射抜くのは極めて難しいとされている。たまたま当たったのではなく、鳥を見て次にどう動くか予想をした位置に矢を放ち、それが的中したのだろう。
南部でも狩りは貴族の嗜みではあるが、これほどの射手はそうはいないだろう。まして成人はまだ先で、弓もそれほど強く張ったものを使っていないはずのウィリアムがここまで精密な矢を放つことに惜しみない称賛を贈ったものの、当のウィリアムは照れたように、そして少し困ったように笑った。
「いえ、少し右にブレました。鳥があと少し痩せていたら、尾羽を掠っただけで逃げられていたと思います」
そう言って、弓を見下ろす。その横顔は真剣なものだった。
「まだ大剣を持つことはできないので、これくらいは頑張らないと」
「いえ、ウィリアム様は本当に素晴らしいですよ。従士だっていうのに、俺なんかはヤマシギ相手だと三本射って二本当たれば今日は調子がいいな、というところですから」
公爵家の従士であるディルクが言うと、ウィリアムはようやく表情を綻ばせた。
今日の訓練は森まで足を延ばすことになった。きちんと踏み均された道ではなく、急な坂道で枝を払いながらの行軍である。
北部の騎士や兵士の栄達にはプルイーナの討伐への参加が避けられない。そのため雪中での行軍の訓練や、弓の腕を磨くことも求められるのだという。
装備も南部とは違い、金属がほとんど使われていない革鎧がメインで、装飾の少ない革の鞘に剣を収め、騎士団の標準装備であるという編み上げの靴を履いての参加だった。
特にこの靴は変わっていて、双翼と呼ばれている特殊なものだ。使用者の足の形に合わせて作っているため買い求めることはできないそうだが、サイズが近いものをと姉に口添えで融通してもらったものが、ルドルフの足を包んでいる。
飛ぶように走ることができるという由来から名付けられたという靴は、その名の通り踏み込みが跳ねるように軽いだけでなく、足底がかなり厚く作られていて山や雪道といった足場の悪い場所でも小石や枝が足底の革を突き破って怪我をするおそれがない。そのため、ここに来るまでで相当歩いたはずだが、驚くほど疲れは感じなかった。
足回りを気にしなくていいというだけで、これほど疲労感が軽減するとは思わなかった。是非とも自分用の靴が欲しいと願ったが、こちらはエンカー地方と公爵家が抱えている職人が作っているもので、まだ流通していないのだという。
こうした特殊な技術は、秘匿されるのが一般的だ。メルフィーナの弟とはいえ外部の貴族であるルドルフに貸し出されたというだけで、相当な特別扱いであるのは分かっていたので、無理を言うつもりはないけれど、惜しいなとも思う。
――代官になったら、靴の開発を奨励してみるか。
エリアスとも話し合って王都に戻ることが決定したため、今日が最後のエンカー地方に駐留している騎士団の訓練への参加になる。ここに来てからというものほとんど毎日のように足を運んでいたため、騎士や兵士たちともすっかり顔見知りになったので、それも少し、寂しい気持ちがあった。
「ウィリアムは、あれほど剣も弓も巧みだというのに、随分と謙虚なんだな」
「北部は弓の腕も重要視されますが、領主は特に大剣を扱うことを求められます。伯父上の剣の腕はすさまじいですよ。近くで見せていただいた時には、圧倒されてしまいます」
「義兄上には是非手合わせをと思っていたが、恥をかくことになりそうだな」
「伯父上は、人間相手なら誰でも無敵だと思います。なにしろ剣を合わせた途端、相手は受けきれず体が飛んで、剣も折れてしまいますから」
敬愛する伯父の話になると、ウィリアムは頬を紅潮させ、すこし早口になる。
アレクシスは長身だが決して筋骨隆々という体つきではないが、おそるべき膂力の持ち主らしい。
「なあディルク。伯父上とまともに立ち合いができるのは、カーライル卿とオーギュスト卿くらいのものじゃないだろうか?」
ウィリアムが水を向けると、ディルクははい、としっかりと頷く。
「カーライル卿が騎士団に入団した時は、驚きました。王都の騎士団から引き抜いてきた腕のいい騎士という触れ込みでしたが、あの時は第一騎士団との手合わせで全員を下しましたので。特にブルーノ卿との手合わせは激しいもので、剣と剣のぶつかり合う音が訓練場に激しく響き渡り、皆が息をするのも忘れたほどでした」
ディルクは、その時の様子を思い出すように瞼を伏せ、息を吐く。
「私はまだ小姓の立場でしたが、騎士というのはこれほどに素晴らしく、これほどに熟練したものであるのかと強く憧れました。しかし、従士になりいずれ叙任をという今の年になると、生涯をかけてもあの域まで達することができるのかと、そちらの方が不安になっています」
カーライル家は王の剣とも呼ばれ、母レティーナの実家とも並ぶほどの権勢を誇る、非常に重要な一族だ。
先代の当主とは、ルドルフも面識があった。
そのカーライル家に大きな不幸があり、つい最近代替わりしたという話は耳にしていたけれど、その当主が一体何をどうして、北部の公爵夫人である姉の護衛騎士などしているのかと頭を悩ませたのはつい先日の話である。
色々と事情はあるらしいが、要するに彼もルドルフの姉、メルフィーナに魅入られた一人ということなのだろう。
さもあらん。姉には不思議な魅力があり、人を惹き付ける人だった。クロフォード家のタウンハウスに閉じ込められているほうが、よほどおかしい状況だったのだ。
姉が南部で育てられその才気をいかんなく振るっていれば、その気になればルドルフはメルフィーナの傀儡としての当主にしかなれなかったかもしれない。
ほんの少し、何かが違っていれば今自分が姉に抱く憧憬や、姉が自分を弟として可愛がってくれる感情も変わってしまっていたのだろうか。
「南部では、領主に求められるのは経営の手腕でな。私は昔からこの通り、おおざっぱな性格で細かい計算は側近に任せてしまうことが多いのだが、南部に戻ったらもっと精進しなければならないな」
まだ背も伸び切っていない年頃だというのに、ウィリアムは弓だけでなく剣も相当の技術を持っている。南部の貴族としては強く求められなかったとはいえ、子供の頃から師範について剣を学んでいたルドルフでも三回に一回は軽妙な太刀筋に敗北を喫するほどだ。剣筋はしっかりしていて、特に正確な弓の腕は大人に決して引けを取るものではない。
三年もすれば、武芸では全く敵わなくなるだろう。そう予感させた。
「ああ、だから伯母様はあれほど見事な領地経営をされるのですね!」
ほんの僅か、屈託に似たものを持て余していると、ウィリアムは明るい口調で言った。
「ルドルフ兄様も伯母様によく似ているので、南部はきっと素晴らしい土地なのでしょうね。いつか行ってみたいです」
「私は、姉上には……いや、そうだな。姉上のような人に慕われる領主になるのが、目標だ」
長年の習慣で、つい出そうになった言葉を呑み込む。
メルフィーナには敵わない。それは子供の頃から自然に、純粋に思っていたし、今でもそうだ。きっと無意識に何度も、自分はそう口にしてしまっていた。
そのたびにエリアスや周囲の自分を支えている者たち、おそらくは父にも、複雑な思いをさせていたのではないだろうか。
父のしたことを認められない、許せないという気持ちは、確かにルドルフにもある。
反面、姉には冷淡だった父の感情を一方的に糾弾する資格が自分にはあるのかとも思う。
この感情は時間をかけて咀嚼し、いずれ父とも向き合わなければならないだろう。そうなるにはまだまだ、自分は未熟で頼りないと痛感するばかりだった。
ウィリアムは――年下の友人は、人間では敵わないと評した伯父の後継ぎとなるべく、この年から全く努力を怠っていない。そんな彼を傍で見ていれば、自分も襟を正さなければならないのだと強く思う。
本当は、彼と親しくなったとき、いずれメルフィーナに子供ができれば後継者としての地位は危うくなるのだろうと思っていた。
その時は、南部に仕官しないかと、それとなく誘おうかとも。
けれどそんな言葉は、目標に向かって一途に努力している少年に対して侮辱にしかならないだろう。
姉も義兄も情に厚く、人の努力を軽視する人では決してない。
友人として静かに見守ろう。今はそう決めている。
「ウィリアム。私の代になったら、是非南部に遊びにきてくれ。きっと素晴らしい領地を見せてやれる」
だが弟として、これくらいは言っても許されるだろう。
「姉上と義兄上の結婚で、北部と南部は強く結びついた。その結びつきを、私たちの代でさらに強固にしようではないか」
「はい、ルドルフ兄様!」
明るく笑ってそう言ってくれた友に、言葉通り、よい土地を見せてやりたい。
姉が嫁いだことで結びついた南部と北部のつながりが、無駄になることがないように、自分もできることをやりたい。
エンカー地方にはそう長くない滞在だったというのに、随分たくさんの、そして大きな目標ができてしまった。
やりがいはあるし、やってみせる。
何しろ自分は、あのメルフィーナの弟なのだから。いずれは、さすがは北部の貴婦人の弟だ、姉にまったく引けを取らないと認められるように。
姉がなんの心配もなく、南部は弟に任せておけば大丈夫だと思ってくれるように。
姉を日陰の身に落とした存在としての、せめてもの贖罪と言えばメルフィーナはきっと怒るだろう。
だからそれは、ルドルフにとっても輝かしい未来の目標である。




