542.幼い憧れと嫉妬心
半ば宴会の場と化したエンカー村の村長宅だが、イルマがそろそろ最終の馬車が出るから連れて行って差し上げな! とトビアスに声を掛けたことで、よろよろと村長宅から抜け出すことができた。
外はまだ明るいけれど太陽はすでに西の空の端に差し掛かっている。もう少ししたら夕食が始まり、すぐに村は眠りに就く時間になるだろう。
エンカー地方では各村や主要な建物に、定期的に馬車が出ているのだという。エンカー地方はかなり発展しているが、村から領主邸までは歩いても移動できる距離だ。こんな近距離で乗り合い馬車が出ていることにも驚いたが、聞けば隣村やその向こうにある農奴の集落まで、ぐるぐると巡回しているらしい。
王都や大きな街にはよくある仕組みだが、こうして決まった時間に安価に行き来できる手段を作ることで、人や物の流れを促進することができるようになる。これもまた、メルフィーナの施策のひとつなのだろう。
村には文官たちの出先機関があり、彼らは城館内にある宿舎に戻るらしく、馬車の待合場は身なりのいい人々でほどほどの混みようだった。
「兄ちゃん、ちゃんとあったまった?」
「ああ、助かったよ」
「また来てくれよな。じいちゃんちからうちまで、そんなに離れてないからさ!」
城館への滞在はあと数日というところだし、エリアスの予定はルドルフ次第なので再訪の約束はできないけれど、少年の明るい言葉にそうだな、と答える。
宴会に巻き込まれたのはさすがに驚いたが、トビアスとその妹たちが体を冷やしていたエリアスを気遣ってくれたのは事実だ。腰に提げた財布から銀貨を引き出し差し出すと、トビアスはむっとしたように眉を吊り上げた。
「これは礼だよ」
「そういうの、いいから!」
「だが……」
世話になったら心づけをするのは、貴族にとってはごく当たり前の習慣である。ここは他領なので領主やその臣下にどこそこの誰に世話になったと話を通し、褒美は統治している者から行うものだが、心づけくらいならばその場でするものだ。
だがトビアスは、もう一度ほんとにいいから! と強く言った。
「ちょっとお茶飲んでいってもらっただけだろ。そんなん貰ったら、それ目当てみたいで、次は声かけらんないよ!」
「……そうか」
「そう! 兄ちゃんはぼーっとしてるから、また冷えてたらうちに来いよって言いたいし、近くに来たら普通に遊びにきてくれればいいよ。オレはそういうのがいいの!」
見返りが欲しくてやったわけではないという少年の目には、輝かしいものがあった。エリアスとしては心づけを渡すのは習慣でありそう大袈裟に思われることではないけれど、これ以上言うのは野暮というものだろう。
銀貨を仕舞い、代わりにまだまだ背の伸び切らない少年の頭を撫でる。
「君の親切に感謝する」
「兄ちゃんは大げさだな。そこはただありがと、でいいと思うけど」
「意味は変わらないさ。そうだろう?」
笑って言うと、トビアスもニヤリと歯を見せて笑った。
「うん、そのほうがずっといいや!」
「メルフィーナ様は素晴らしい方だが、その領民も、また素晴らしいな」
「へへっ」
その言葉に満足そうに笑う少年にエリアスも微笑む。人が集まっているのでそろそろ馬車が来るはずだが、まだその影は見当たらず、もう少しくらいは時間がありそうだ。
「そういえば、領主邸にも君のような子供がいたよ。レナという子で、メルト村の村長の娘だと言っていた」
地方都市の、特に有力者の子弟というのは幼い頃から親つながりで兄弟同然に育つことが多い。エンカー村の村長の孫なら、隣村の村長の娘だと名乗ったレナを知っているだろうと思い名前を出してみたが、先ほどまでの明るい表情とは一転して、ぎゅっとトビアスの眉の間には深い皺が寄った。
「ああ、あのズルっ子」
「ズル?」
「あいつの兄ちゃんがすごい「才能」を持っててさ、城館で働いてるんだよ。それで、そのおこぼれでメルフィーナ様の傍をウロチョロしてるんだ。自分がすごいわけじゃないのに、そんなのズルだろ」
その声には子供ながら、生々しい嫌悪が滲んでいた。とても見知らぬエリアスに突っ込んできて強引に親切にした少年の態度とも思えず、レナを直接知らなければ、こんないい子がここまで言うならレナという少女にはよほど問題があるのだろうと先入観を抱いてしまっていたかもしれない。
「大体、あいつちょっと前まで農奴だったんだよ。メルフィーナ様に近づけるような立場じゃなかったのに、なのに今は綺麗な服を着て、村長の娘って言われてさ。そんなのどう考えたってズルじゃん!」
吐き捨てるような言葉に含まれた屈託に、エリアスは苦く笑み、もう一度トビアスの頭を撫でる。
「あの子も、親切な子だったよ。落ち込んでいる私に声を掛けて、明るく元気づけてくれた」
「そんなの……兄ちゃんが城館の客だからだろう!」
「では君は、私が城館の客だから温かいお茶を振る舞ってくれたのか?」
トビアスはその言葉に大きく目を見開いて、それからじわりと泣きそうに表情を歪ませる。
心づけすら激しい反応で断った彼が、そんな意図で自分に声をかけたわけでないことは見ていれば分かる。これくらいの子供にとって純粋な行為を歪んだ目で見られることは思いもよらない衝撃でもあるだろう。
「君がそうでないと、私は思っているよ。だから君も、人の気持ちを決めつけるような言葉を使ってはいけない」
「でも……だって……」
悔しそうに拳を握るトビアスに、膝を曲げて屈み、目線を合わせる。
彼は自分の言動に責任を持つには、あまりにも幼い。今抱いている感情に引きずられて、この人に優しい気質を歪めてほしくないと思う。
「人には所属する階級があり、それは尊重しなければならないものだ。だが貴族も、農民も、農奴も、商人も、職人も、全て必要だからこの世にいる人々だ。自分でどうしようもないことで、人を貶めてはいけない。――それにきっと、メルフィーナ様が最も悲しむ言葉だろう?」
「……っ」
貴族であるメルフィーナは、本来平民は直接言葉を交わすどころか、遠目に小さな馬車の窓からちらりと見ることができるかどうか、そんな存在だ。
エリアスから見れば危うく見える面も多分にあるけれど、これだけ慕われ、かつ村人たちが貴族という存在を全く恐れていない状態は、彼女がどれほどこの村の人々を大切に扱ってきたかの表れでもある。
メルフィーナに大事にされてきたはずの村人が、立場や階級で人を差別しては、本末転倒だ。
少年ながら利発な様子を見せるトビアスにも、その感情がメルフィーナにどう映るのかは分かるのだろう。
「お、オレ……」
「私に親切にしてくれた、君は優しい子だ。自分の感情に呑まれて、その優しさを忘れてはいけない」
「……うん」
素直に頷いたトビアスに微笑んで、立ち上がる。ちょうど大通りの向こうから、乗り合いの馬車がこちらに向かってきているところだった。
「ではな。君の妹たちや祖母や曽祖父にも、礼を言っておいてくれ」
「あ、あのさ、兄ちゃん」
「うん?」
「さっきの、メルフィーナ様に、言う?」
服を掴んでおずおずと、小さな声で告げる少年にははっ、と声を出して笑う。
「言わないよ。私は何も聞かなかった」
メルフィーナの統治について、自分が口を出すような身分ではない。下の者とは、そういうものだ。
それに、この少年の幼い嫉妬心が、全く分からないわけではない。
人は輝かしく見えるもの、手が届かなく思えるものに、憧れだけを抱けるわけではない。そこには妬みや反感や屈託といった、負の感情を孕むこともある。
「君はエンカー村の村長の係累だ。メルフィーナ様が大事にしている村の人間として、いつも誇り高くありなさい」
「うん! 兄ちゃん、またね!」
馬車に乗り込んだエリアスに、トビアスは小さな手を振ってくれた。
「またねー!」
通りを曲がり、馬車が見えなくなるまで。