537.お米といつかくる旅立ち
その日、マリアはメルフィーナの菜園に建っている温室でオーギュスト、コーネリア、ベロニカと共にお茶を飲みながら雑談をしていた。
最近の領主邸はその規模に対して人が多くなってしまったので、団欒室でゆっくりと話をするという雰囲気ではない。段々暖かくなってきたとはいえ中庭のベンチでお喋りをするにはまだまだ冷えるということもあり、こうして温室を借りることも多い。
「お米、麦に似た白い穀類ですか。確かにロマーナから南部にかけての地方と、スパニッシュ帝国の一部で見かけることがありますね。小規模に作られている穀類の一種で、麦と違い税がかからないので、主に麦を作るのに向いていない湿地帯で作られているはずです」
「どんな風に食べられているの?」
「パンのようにこねたら膨らむというものでもないので、基本的には水か出汁で、具と一緒に火を入れる方法のはずです」
炊き込みご飯のような感じかと思ったけれど、野菜や貝、海鮮などを入れて作ることが多いらしく、どうやらロマーナはリゾットに、スパニッシュ帝国はパエリアに近いものがあるらしい。
マリアはどちらも、ファミリーレストランのような比較的安価な場所で食べたことがある程度だ。
「ベロニカもお米の料理って食べたことある?」
「はい。昔滞在した村は湿地帯が多くて、地形の高くなっている場所以外は土を耕しても団子状になってしまうところがあって、そういった場所に水を引き込んで作られていました」
「へえー、見てみたいな」
ついつい食い入るように聞いてしまうマリアに、ベロニカも少し驚いた様子を見せている。
基本的にベロニカの話はどれも興味深く、またマリアにとっては切実なものが多いけれど、それだけに気軽に楽しく聞くことのできる話は少なかった。
今回のこれは重要というよりも嗜好性の強いものなので、安心して興味のままに尋ねられるのも嬉しい。
「マリア様は、そんなにお米がお好きなのですか?」
「お米は、元の世界の主食だったんだ。こっちでいうパンみたいなもので、毎日食べていたから、恋しくって」
「パンのようなものですか。それは、辛いかもしれませんね」
コーネリアが表情を曇らせたので、慌てて補足する。米を食べることが多かったというだけで、マリアの日常にもパンやパスタ、うどんといったその他の主食も食べていたので、こちらの世界のようになんにでもパンがついていると思われるのは少々イメージが違う気がする。
「あ、あっちにもパンはあったんだけどね。メインじゃなくて、軽食用という感じだったかな。朝食はパンって家も多いけど、うちはパパ……父が、お米派だったから」
言っているうちに、ますます恋しくなってしまい、ため息が漏れかけて、それをぐっと呑みこむ。
領主邸の人たちが、故郷を失い、そしてどうやら帰ることができそうもない自分を思いやってくれているのは十分に伝わってくる。
その状況で日本を懐かしんで落ち込む姿を見せるのは、どうしても気が引ける。
お米は気になるけれど、アントニオが次に来るのは春が訪れてからのはずだ。そこから探してもらって、領主邸に届くのはどれくらいかかるだろう。
その頃、自分がここにいる保証など、どこにもないというのに。
「では、食べに行きましょうか」
「えっ」
オーギュストがあまりにこともなげに言うものだから驚いて顔を上げると、彼は特に気負う様子もなく、いつもの少し悪戯っぽい笑顔だった。
「南部まで大急ぎで一ケ月……もう少しかかりますかね。まあそれくらいと見て、今からならちょうど南部の春の盛りに間に合いますよ」
「ああ、いいですねえ。南部は屋台文化がとても発達しているので、食べ歩きもとても楽しそうです。特に春から夏にかけては、毎日がお祭りのように盛り上がるそうですよ」
コーネリアがうんうんと頷く。自分もついていくと言い出しかねない表情だった。
「南部はロマーナと国境を面しているため経済的には不仲な状態が続いていますが、文化は近しく、似たような料理もとても多いです。オリーブが採れるので植物油を使った料理も豊富ですし。薄く焼いたそば粉の生地に具を巻いたものや、豚を焼いたものをパンに挟んだものなど、領主邸で出るのに似た料理もいくつかありますよ」
ベロニカ自身はあまり食事に興味があるようではないけれど、長く生きてあちこちを移動しているだけあって、南部の食事事情にも詳しいらしい。
「足を延ばしてロマーナに行ってみるのもいいかもしれませんね。ロマーナは美食にうるさい国なので、美味しいものもたくさんあります。首都を避ければ楽しむことができると思いますよ」
「首都には色んなものが集まってくるイメージだけど、避けたほうがいいの?」
その質問に対しては、ベロニカはやや複雑そうな表情を見せた。
「ロマーナの美食文化は、王政時代の生活を便利に、食事は美味なものを、労働は最低限にという王家の方針が大きいのです」
「悪いことではない気がするけど……」
「ええ、ロマーナの栄華はまさにその方針によって築かれたものでしたが、二十年ほど前に大きな政変があって、首都はその中心地だったのです。現在首都は元老院によって支配されていて、かつての王家の方針の大半に否定的で、街には元老院の息の掛かった秘密警邏隊も多く巡回していますので」
物騒な単語に思わず顎を引く。
「政変って、戦争ってこと? こっちでは戦争は禁じられているんじゃなかったっけ」
「元老院の言い分では、内戦ではなく政治的な変遷であり教会や神殿の口を出すような類のものではない、のだそうです。ですが彼らのやり方は非常に残忍で、王家やそれに連なる人々以外にも、知識を持った奴隷や宮廷人、知識人たちにも及びました」
どうしてそうなったのか、そうならざるを得なかったかはマリアには分からないけれど、現在ロマーナを牛耳っているらしい元老院という組織は、かなり元の王家を嫌っていたらしい。
「多くの本が焼かれ、蓄積された知識が失われました。職を失った職人たちが路頭に迷い、治安は悪化の一途を辿りました。乙女が降臨するほどの虐殺だったわけではありませんが、一時は教会と神殿が一部の知識人たちを出家の形で保護するしかない場面も多く、いまだに教会と神殿とロマーナ元老院は不仲の状態が続いています」
「ええ……」
マリアが分かりやすく引いているのが伝わったのだろう、ベロニカはふ、ふふと小さく笑って、話題を仕切り直す。
「とはいえ、首都以外の大きな街ではまだかつての王政の文化が多く残っています。特に港町は重要な外交と産業の要でもありますので、元老院も特区としてこれまでの文化の維持を認めていますので、そうした街を選ぶ方がよいでしょうね」
「どうせ南部に行くなら、色々な街を見て回ってもいいと思いますよ。領主邸の食事には敵いませんが、その土地その土地で美味しいものが沢山ありますので」
なんともコーネリアらしい言葉にあはは、と笑って、笑ったらなんだか力が抜けた。
この世界に来て最初に身を寄せた王宮での暮らしが全く水に合わなかったマリアにとって、日本の記憶を持つメルフィーナが主である領主邸は、第二の故郷のようなものだ。
怒涛のような日々に流されるばかりで将来のことを考える余裕などなかったけれど、なんとなく、ここで自分に与えられた力を使ってメルフィーナを助けながら生きていくような気がしていた。
でもどうやら「聖女」とやらが一か所に留まり続けると、そこは富み過ぎてしまうらしい。
きっとメルフィーナは、マリアが存在することで起きる影響について、迷惑だとは言わない。なんとかなるわよと笑ってくれる。
それがわかるだけに、心苦しい。その優しさに甘んじて起きることを見ないふりしていくのは、自分の性格には合わないだろう。
だからきっと、自分はいつか、旅立つことを選んでしまう。
領主邸が好きだから、エンカー地方を、好きになってしまったから。
「そうだね。色んな土地を回って美味しいものを食べて、メルフィーナの喜びそうなものをあれこれ探してみるのも楽しいかもしれない。エンカー地方では手に入りにくいけど、メルフィーナの欲しがりそうなものもいっぱいあるもんね」




