534.市参事会と春の綻び
春を目前にして、冬の停滞した空気も少しずつ緩み始め色々なことが動き始めていた。
今年の春を目途に、エンカー地方はこれまで通りの領主制に加え、文官によって司法を取りまとめる官僚制と、エンカー村・メルト村の有力者が集まって作られた市参事会に、勅許としてある程度の行政権を与えて地方自治を行う体制が始まることになっている。
元々はマリアが降臨してきた折、ユリウスの浄化を依頼するためにある程度以上エンカー地方を離れても問題が起きないようにという意図で進めていたけれど、拡大の一途を続けるエンカー地方の行政をメルフィーナ一人で支えるのはそろそろ限界が近いこともあり、そのまま体制を整えることになった。
領地運営の全てがメルフィーナの決定に拠らなくなるため、仕事の量は段階的にだが、減るはずだ。
仕事を劇的に減らしてのんびり暮らすのだと言うたびに、傍にいるマリーとセドリックは穏やかに笑って返事をしてくれないことが気になるけれど、とりあえず目標はそこである。
新しい体制を整える直前というのは、何かと忙しくなるものだ。この日もエンカー村の村長、フリッツ宅で、村から選出された市参事会のメンバーが集い、なんとも不安げな表情を並べていた。
メンバーはエンカー村の村長フリッツ、大工の棟梁であり現在はエンカー地方の商工会の会長の肩書を持つリカルド、その他、長年エンカー地方で土を耕してきた人たちが中心になっている。
「我々に本当に自治など可能なのでしょうか。自分の名前や簡単な読み書きはできる者も増えてきましたが、何分学のない農民の集まりですし」
「勿論、すぐにやれとは言わないわ。時間を掛けて体制を整えていけばいいし、そのための補佐もたくさん入れるから。皆にお願いしたいのは、お金を払うから市参事会に推薦をしてくれないかとか、自分の意見を通してくれないかとか、そういう依頼が増えると思うので、それを弾くことね」
「そんなことがあるのでしょうか」
「これは確実なことだけれど、市参事会が正式に告知されたらみんなのところには、あっという間に色々な人が押し掛けて、贈り物を渡し、名前を売り込みにくるわ。執政官たちにもしっかりと周知するように頼んでおくけど、それらは贈賄、不正として、発覚したら市参事会の席は剥奪させてもらうことになるから、重ね重ね、気を付けてほしいの」
エンカー地方は発展が始まってようやく三年目。大人たちはそれまで寒く貧しい中で懸命に土を耕して暮らしてきた人たちだ。
百戦錬磨の商人や政治家の代理人、投資家たちにとっては、彼らを騙すのは赤子の手をひねるよりも容易いだろう。
けれどこの先、さらに洗練されていくだろうエンカー地方において、純朴で善良なだけであっては、土地を守ることはできない。
「市参事会には、他のエンカー地方の住人を守る見本であり、盾になってほしいの。そのためには欲に溺れない強い自制心と規範的な態度が求められるから、負担の多い仕事であると思うけれど。本格的に運用するのは今の子供たちの代くらいからで、みんなはそれに向けて準備をしているという気持ちでお願いしたいの」
「子供たちの……」
誰ともなくポツリと呟き、それから集まった面々が、静かにうなずき合う。
「子供は、以前は生まれても半分はすぐに神の国に渡ってしまうものだと思っていましたが、ずっと我々の元にいてくれるようになりましたなあ」
「ええ、元気にそこらを走り回っている様子を見ると、なんとも嬉しいような、切ないような気持ちにさせられます」
「我々が欲に駆られて結局土地や家をなくしたんじゃ、凍った土を耕し続けてくれた親父や祖父たちに、申し訳が立ちませんね」
ああ、そうだなと言い合うたびに、少しずつ言葉に熱が宿っていくのがメルフィーナにも伝わって来る。
「メルフィーナ様。我々にできることは、最初は少ないかもしれません。でもこの土地で根を張って生きて来たのは俺たちだっていう誇りだけは、誰にも負けないつもりです」
「できる限り努力すると約束します。ですので、よろしくお願いいたします」
口々にそう言われ、メルフィーナもしっかりと、頷く。
この三年間、色々なことがあった。懐疑的な表情で最初の肥料を作り、畑を耕し、土壌を改善しつつ広げていった。
芋の病気の流行が来ることを胸に秘めたまま、代替作物の定着に奔走し、その間に作付けを推奨したカボチャはすっかりエンカー地方の特産物だ。
メルフィーナのチーズ事業のため新鮮な牛乳の供給が多いことと、どの家も鶏を飼っていて卵と鶏肉が安価に流通するようになって、子供たちは明らかに肉付きがしっかりとし、背も伸びている。
彼らとならきっと、これからもいい方向に進んでいけるだろう。
「もちろんよ。――エンカー地方に来てから、皆のこの土地を良くしたいって気持ちに、私も何度も励まされたわ。これからも豊かで、平和で、暮らしやすい土地にしていきましょう」
* * *
「そのまま領主邸に戻りますか?」
馬車に戻ると御者を務めてくれているラッドに尋ねられる。
「そうね、もう用事はないし。……いえ、街道沿いの、牧場に寄ってくれる?」
「はい、ではそちらに向かいます」
路肩にはまだまだ大量の雪が寄せられていて、特に日陰の部分は解けずにそのまま残っている。
けれどほんの少し前まではなかった、春の目覚めの息吹きをそこかしこから確かに感じるようになっている。
エンカー村とメルト村の街道を半ばほどまで来たところで道を逸れると、個人経営を行っているやや規模の大きい農場が現れる。エンカー地方の酪農はメルフィーナが事業として始めたものがいまだ基幹になっているけれど、いずれ他の土地でも問題なく運営されている事業の大半は民間に任せる予定であり、他の土地で酪農を営んでいた一家を招致して開いたものだ。
エンカー地方の個人経営の事業のモデルケースでもあるので、時々顔を出しては事業を営む上で困ったことはないか、飼料は足りているかというようなことから、問題が起きた時に相談できるルートは確立しているかなど、聞き取りを行うこともあった。
「領主様! いらっしゃいませ!」
近づいてきた馬車に気づいていたらしい、馬に乗って駆けてきたくしゃくしゃの赤茶色の髪をした青年が、すぐに馬から降りて元気に挨拶をしてくれる。
「ジョセフ、お久しぶり。急に来てしまってごめんなさいね。ジョアンナは在宅しているかしら?」
「はい、今は母屋にいるはずです。案内します!」
この農場の長男、ジョセフは最初に会った頃はまだ背が伸び切らない子供だったけれど、子供の、特に少年の成長は著しいようで、随分大きくなっていた。
「馬に乗れるようになったのね」
「一応エンカー地方に来る前から乗れてはいたんですけど、一人で乗るのはまだ駄目だって言われていたんです。馬は人を見るから子供を主人とは認めないって。でも年明けから、もういいだろうってことになって」
「一人前と認められたのね。すごいわ」
ジョセフはどうも……とぶっきらぼうに言うと、少し馬の速度を速めてしまう。けれどその背中は誇らしげに伸びていて、馬に乗るのが楽しくて仕方がないという様子だ。
「まあ、メルフィーナ様。ようこそいらっしゃいました」
「こんにちは、ジョアンナ。近くまで来たので少し顔を出してみようかと思っただけだから、歓待の必要はないわ。そろそろ春が近づいてきたけれど、何か困ったことはないかしら?」
「はい、飼料も十分もちそうですし、家畜も今のところ健康に育っています。今年の春からは増えた羊の毛刈りが本格的にできそうですわ」
「まあ、いいわね。エンカー産の羊毛ができたら、是非最初は私に買い取らせてちょうだい」
「よろしければ献上させてください。こうして順調にエンカー地方に根付くことができたのも、メルフィーナ様の誘致があってこそでしたので」
「ふふ、嬉しいわ。――エンカー地方はとても寒いでしょう、羊毛の需要が下がることはまずないわ。羊ばかり育てるというわけにはいかないでしょうけれど、この農場の主要な産物のひとつにしていってほしいわ」
その後も牧場の運営についていくらか雑談を交わし、三十分ほど過ぎたところでそろそろと暇を告げる。
「急に訪ねてきてごめんなさいね。帰る前に会っておきたいのだけれど、ユディットはどこにいるかしら」
「母屋の裏にいると思います。どうも、あそこがお気に入りのようで」
「会いに行ってもいいかしら」
「勿論です。ジョセフ、案内して差し上げなさい」
「はい! ええと、こちらにどうぞ!」
少し前まで、用事を言いつけられると渋々という様子だったジョセフは、今は明るい表情で案内をしてくれている。
一家の生活が安定して、よい影響が出ているのだろう。
「ジョセフ。最近ユディットはどうかしら」
「元気だと思います。よくしゃべるようになりましたし、最近は……あ、あそこです」
あそこ、と指をさした先、母屋の裏の水路の傍に、ユディットは座り込んでいた。
まだ寒い季節だろうと思ったけれど、傍には丸々と太った猫が二匹、彼女を守るように寄り添っていた。
「去年からネズミ捕りに飼い始めた猫なんですけど、なんかユディットにすごく懐いてて、どこにいくにも一緒なんですよ」
「まあ、可愛いわね」
そんな話をしていると、ユディットもこちらに気づいて立ち上がり、小走りに近づいてくる。その少し後ろを二匹の猫がついてくるのも、なんとも愛らしい光景だった。
ユディットは、森に捨てられていたのをユリウスとレナが見つけ、この農場の養女となった少女である。
紺色の髪、金の瞳の整った顔立ちを、今は久しぶりに会うメルフィーナに向けて笑っている。
「メルフィーナ様、こんにちは」
「こんにちは。猫を飼ったんですってね。紹介してくれる?」
「こっちがチチで、こっちがロロです。どっちもメスで、たくさんネズミをとります」
「それ以外はユディットにべったりだけどな」
本当に懐いているらしく、ジョセフが茶々を入れる間も、チチと紹介されたブチ柄の猫がすりすりとユディットの脚に体をこすりつけている。
当初は感情をほとんど表に出すことがなく、どこか薄膜一枚を隔てて別の場所にいるような顔をすることの多かったユディットだけれど、発語が増えるのに従い感情表現もどんどん子供らしいものに近づいている。
ロロが甘えるような甲高い声で鳴き、ユディットがよいしょ、と言って抱き上げる。ロロは茶トラのかなり大きな猫なので、抱っこしているとユディットの方が小さく見えるくらいだ。
「ロロは抱っこがすごく好きなの。ずっと抱っこしていると疲れるから、よく座って膝に乗せてるんだけど、そうしないとずっと退いてくれないから」
「触ってもひっかかないかしら?」
「人間には手を出さないってお父さんが言ってました」
そう言われて、そっと背中にかけて一度優しく撫でる。見たまま、栄養状態はかなりいいらしく、ふわふわとしている。
メルフィーナにちらりと視線を向けたものの、すぐにユディットの肩口を両前足でフミフミと踏む動作をしはじめた。
とても甘えたい時に出る猫の仕草だ。
ネズミ捕り用として飼われていても、人を警戒しない様子は大事に飼われているのが伝わって来る。ユディットのことを母猫のように慕っているのだろう。
「……ねえユディット、お母さんに会いたい?」
ぽつりとそんなことを呟いてしまった自分に驚いて、慌てて手のひらで口を塞ぐ。
そんなことを言うつもりはなかったのに、ユディットとあまりに面影が重なる人を知っているせいで、こぼれてしまった。
けれどユディットはロロを抱いたままきょとんと首を傾げただけだ。
「お母さん、おうちにいるよ?」
「……そうね。私もさっき会ってきたわ。変なことを聞いてごめんなさいね?」
「ううん?」
よく分かっていない様子で首を横に振り、ユディットは抱いているロロのふわふわとした体を抱きしめて、口元を少しだけ笑みの形にしている。
服はどこもほつれておらず、紺の髪はおさげに結われて、小さなリボンで結ばれていた。
その様子から、ユディット自身がここで大事に育てられているのだと伝わってくる。彼女にとっての母親とはジョアンナであり、この農場が彼女の家なのだ。
「私はもう帰るけれど、雪が融けて春になったら、またレナたちも誘って、今度は綺麗に咲いたお花でも見ましょう」
「はい」
顔を上げて、そう言って、ユディットは春の訪れの直前に相応しい、固く閉じていたつぼみが柔らかにほころび始めるような笑顔を見せてくれた。
「たのしみです」




