526.燻製チーズと涙のビンテージウイスキー
「ああ、アレクシスがソリに乗せてくれた時に助言をくれたというのが、ブルーノだったのね。あの時名前を聞いたのに、お礼を言うのが随分遅くなってしまったわ」
「いやいや、成果があったことは閣下からしっかりと聞きましたとも! 奥方様がお元気になられたと、閣下も満足そうな様子でしたぞ!」
「ブルーノ」
「ふふっ、そういえばあの時、アレクシスが言っていたわ。ブルーノは名うての女泣かせの騎士で、女性の扱い方を聞いたって」
「メルフィーナ」
「いやはや、慕われる機会は多かったのですが、儂は妻一筋でしてなぁ! 口説かれた分だけ泣かせてしまう、罪な男でありました!」
「あら、ふふっ」
「はっはっはっ!」
いい感じに酔いが回ってきているためだろう、明るくノリのいいブルーノとの話しはよく弾み、気持ちが華やいでくる。
「閣下、どうか気を落とされずに」
オーギュストの慰めの言葉に返事はせず、氷を浮かべたジンをちびちびと飲んでいるアレクシスの手をテーブルの下で握る。ちらりと向けられた視線に、自然と笑みが出た。
「ごめんなさいね? あなたをからかうつもりはなかったの」
「いや、君が楽しそうだから構わない」
何だか気持ちがふわふわとして、うっとりとアレクシスを見つめてしまって、周囲がしん……と静かになっていることに気が付くのが遅れてしまった。
「……ちょっと、おつまみを追加しようかしら」
昼食の後であるし、ナッツや炙ったフランクフルトを摘みながら飲んでいたけれど、酔い覚ましに少し席を立つのもいいだろう。食堂から隣の厨房に移動すると、マリーやセドリックはともかくアレクシスとブルーノまでついてきてしまった。
「アレクシスとブルーノは、向こうで飲んでいてもいいわよ?」
「実は奥方様の作られる料理というものに、興味がありましてなぁ。閣下がウィリアム様と時折厨房に立つようになったと聞いた時には耳を疑いましたが、それも奥方様の影響とのことで」
「ふふ、今でも二人で何か作っているの?」
「時々、簡単なものだけだ」
ぶっきらぼうに返すアレクシスにくすくすと肩が揺れる。いつもより愉快と感じる感情のハードルが随分下がってしまっていて、簡単に心が浮き立ってしまうのが自分でもわかる。
「駄目ね、やっぱり酔っているみたい。いけないわ」
前世の感覚から、十代後半のメルフィーナの肉体での飲酒はなんとなく後ろめたく、これまでエールや蒸留酒は試飲程度で、楽しむための飲酒をする機会はほとんどなかったけれど、どうも自分は笑い上戸に相当する酔い方をするらしい。
身内しかいない場ではともかく、余計な失言をすることがないよう、人前で飲むときは嗜む程度にとどめておいたほうがいいだろう。
「じゃあ、公爵家でも簡単にできるおつまみでも作ってみようかしら」
大きなフライパンに木片をざらざらと入れ、網を掛ける。網の上にカットしたチーズや厚切りにしたベーコン、先ほどまでつまんでいた皿からナッツ類や干しブドウを拝借したものを載せて蓋をし、魔石のコンロに火をつける。
「これは何をしているのですかな?」
「ふふ、出来上がってのお楽しみよ」
家庭での燻製なら、十分も燻せば十分だ。もくもくと上がる煙を風魔法で排気口に誘導しながらしばし待つ。
「ふむ、これは木片のようですが、どうなるのか想像もつきませんな……」
「モルトルの森で伐採した木で、木材や炭を作るのに使って出た端材を粉砕したものよ。いくらでも取れるから二次利用をしたくて、研究中なの」
「奥方様は、どんなものにも価値を見出す方なのですなあ」
「根が貧乏性なのね。ふふっ、貴族なのに貧乏性って、ちょっとおかしいわね」
クスクスと笑っていると、そっとマリーが水を差しだしてくる。楽しい気分なのはいいけれど、さすがに少しはしたなかったかもしれない。
燻し終え、少し休ませてから蓋を外すと、なんとも香ばしい香りが厨房に広がった。
ジンは香り付けをして熟成させない度数の高い蒸留酒なので、飲み口は非常にすっきりしている分塩気のあるつまみや癖の強いものと相性がいい。
食堂に戻り、濃い茶色に色づいた切り分けたチーズを指先でつまんで口に入れ、くっとジンの水割りを飲むと、非常によく合う。
「ほう、チーズの燻製ですか。これは初めて見ますな!」
「燻製は基本的に、保存食を作るためのものだものね。この燻製は風味付けのためにしているものだから、燻されているのは表面だけで中は柔らかいままよ」
「ほう、ほうほう! これはこれは!」
語彙力が消失したブルーノの反応が楽しくて、少しは抑えなければと思うのに、また肩が揺れてしまう。
「いずれ、エンカー村にある食堂兼酒場に出してもらう予定なの。問題は、お酒と合い過ぎて酔っ払いが増えたら治安が悪くなってしまうことよね」
「騎士団にも稀に、エールの飲み過ぎで羽目を外してしまう者がおりますからなあ」
「酒は呑んでも呑まれるな、よね」
「奥方様は言葉選びのセンスもありますな! いやはや、この燻製のナッツとこちらの瓶の酒の合うこと!」
「うふふ」
「はっはっはっ!」
笑ったのをきりに、そこからは自分は水だけにしておくことにする。
「こちらはレモンの皮を乾燥させたものを多く使っているから、すごく華やかな香りがするでしょう。食中酒としてもとてもいいの」
「儂はこちらの瓶のものが好きですな。なんとも重く、癖も強いが、それが良い!」
「アニスとコリアンダーの配合を増やしたものね。北部の年配の男性にも好まれるかしら? 領主邸は若い子が多いので、意見を聞きたいわ」
「ふぅむ……。確かに若い兵士には華やかで軽いものが好まれるかもしれませんなあ。儂も三十を超えると苦み渋みがなんともいえず美味いと感じるようになりました」
「なら、やっぱりジンやウォッカよりもウイスキーかしら。セドリック、瓶に詰めたものをひとつ、持ってきてくれる?」
「はい、ただいま」
ほとんど飲んでいないセドリックはすばやく食堂を出ると、あっというまに瓶を手に戻ってきた。中身は淡く琥珀色になっている液体で満たされていた。
すでにそこそこ呑んでいるはずのブルーノだが、新しいフレーバーの登場に目が釘付けになっている。
「これは時々アレクシスにも呑んでもらっているのだけれど、色々な意見がほしいの」
アレクシスはお酒も甘いものもいける方ではあるけれど、強いかどうかでいうと、意外と弱い方だろう。
すぐに眠くなってしまうらしく、最初に蒸留酒をミルクで割ったものを飲んでもらった時にはそのまま眠ってしまったほどだ。
「これも強いお酒だから、最初は舐める程度にしてね。ジンと同じく氷を入れるか水で少し割るのがいいお酒よ」
蒸留を繰り返し熟成させない無色透明な酒であるジンとは違い、三年樽で熟成させたウイスキーは淡くだが色づき始めている。
小さなグラスにほんの少し注いでブルーノに渡す。その量に物足りなさげな顔をしていた老騎士は、口を付けた途端、カッと目を見開いた。
「こ、これは、奥方様!」
「ブルーノなら、このひと瓶にどれくらいの価値をつけるかしら」
「ううむ……もうひと口、呑んでみないと分からないかもしれません」
「ブルーノって、オーギュストとちょっと似ているわね」
「勘弁してください、マジで」
アレクシスの隣から渋い声が響く。グラス一杯の水の後という条件を付けて、もう一杯、今度は大きな氷を入れたグラスにウイスキーを注ぐ。
「この僅かな量でこの満足感ですからな……エールの大樽一杯分……いや、希少価値によってはその数倍を出す者もいるはずです」
原料と熟成に掛かる金額を考えるとトントンか安いくらいだけれど、輸送コストを考えると悪くないというところだろう。
「やっぱり、付加価値をもう少しつけたいわね」
「付加価値ですか?」
「ええ、この事業は始まったばかりで、これも最低限の熟成なの。平均的な飲み頃になるのに最低あと七年はかかるから、後に続く原酒のために色々とブレンドも試行錯誤をしておきたいところなの」
「なんと……それほど長くもつのですか」
「このお酒は十年や十二年なんてまだまだよ。二十年、三十年、ものによってはそれ以上。長く熟成したものと若いお酒を混ぜて味を複雑にすることもできるけれど、計算上は単独で六十年くらいまでは楽しめるはずよ」
原酒を樽で熟成する最もバランスのいい年数はマチュレーションピークと呼ばれ、一般的に十年から二十年とされているけれど、希少ウイスキーと呼ばれる原酒はそれこそ一世代では完成を見ることの叶わない長さだ。
六十年を越えれば、その希少性から愛好家によってひと瓶で城が建つほどの値がつけられることになるだろう。
「おお……それだけ長く置くということは、さては、長くかかるほど味が……」
こくりと頷くと、ブルーノはぶわっと涙を流す。
「ど、どうしたの!?」
「わ、儂があと六十歳若ければ、最高の酒を飲むことができたと思うと!」
「ブルーノ卿、今年五十五でしょう。まだ母親の腹の中ですよ」
「やかましいわ!」
空気を震わせるようなブルーノの一喝には迫力があるものの、この短い時間でメルフィーナも段々と慣れてきた。北部の騎士たちはとっくにお馴染みらしく、アレクシスは黙ったまま燻製したナッツを摘まみ続けているほどだ。
「げ、元気なのね。てっきりもっと若いと思っていたわ」
「実際、騎士団の誰よりも元気な方ですよ。一人で新兵二十人分ほどは騒がしく、よく呑みます」
父親より祖父に近いほどの年上の騎士に対しても、オーギュストの軽口は健在らしい。むしろその態度から、ブルーノがただ口うるさく高圧的な騎士ではないというのが伝わって来る。
「奥方様、こやつが普段こちらで無礼な振る舞いをしていないか、儂は心配です。カーライル卿よ、その時は頼むぞ」
「勿論、お任せください」
「何を頼まれてるんだ! え、俺大丈夫ですよね、マリア様」
「うーん……」
「マリア様!?」
「うん、大丈夫! オーギュストは最高の騎士だよ!」
気を持たせるような間の後で、マリアは笑って拳から親指を立てる。
サムズアップの意味はこちらでは通じないだろうけれど、意図はしっかりと伝わる、いい笑顔だ。
マリアはジュースしか飲んでいないはずなのに、場に酔ってしまっているらしい。
食堂に明るい笑い声が響き、試飲会兼昼呑みは次第に混迷を極めていった。