522.涙の夜と明るい明日
話を終える頃には、夜はすっかり更けていた。気が昂っているのかあまり眠気は感じなかったけれど、反面、疲れを感じてもいる。
ベッドに入っても、今日一日の目まぐるしさに頭が興奮状態で中々寝付けなさそうだなと思いながら団欒室の前で解散し、それぞれの部屋に戻る。
「マリア様、大丈夫ですか?」
オーギュストが声を掛けると、マリアはうん、と心あらずという感じで頷く。ぼんやりしている様子のマリアが気になって、メルフィーナも部屋に入る前に彼女に声を掛けた。
「マリア、今夜は一緒に寝ましょうか?」
「うん……あ、いや、いいよ! 大丈夫!」
はっとしたように顔を上げて、自分がぼうっとしていたことにようやく気が付いたらしい。照れくさそうに笑って、大丈夫だから、ともう一度繰り返した。
「オーギュストもほら、部屋に戻って。私は大丈夫だから」
「しかし……」
「また明日、おやすみ」
渋る様子のオーギュストに強引に挨拶をすると、オーギュストは苦笑して、また明日、と囁き、アレクシスとメルフィーナに礼を執ってセドリックと共に階下に下りていった。
「メルフィーナも、この数日ずっと気を張っていて疲れたでしょ? ベロニカがエンカー地方に何かしにきたわけじゃないって分かって安心しただろうし、アレクシスにも悪いし」
「アレクシスはそんなこと気にしないわよ。ね?」
「……もちろんだ。妻の友人関係の邪魔をするほど狭量な男じゃない」
鹿爪らしい物言いだけれど、これは彼の通常運転だ。ね? とマリアに向き直ると、なぜか先ほどのオーギュストそっくりの苦笑いをされてしまった。
「気を遣ってくれるのはすごく嬉しいけど、今夜は一人でいたいんだ。……私にも、一人で思い切り泣きたい日とか、あるからさ」
過去の聖女たちは確認される限り、こちらの世界で生きて亡くなったという事実に泣きも嘆きもしなかったマリアだけれど、やはり思うところはあるのだろう。
自分の感情なのに、自分が悲しんでいるとか傷ついているということに、それが大きければ大きいほど、中々気づけない時がある。
「……そうね。私にも経験があるわ」
「でしょ。明日はいつも通りおはようっていうからさ、知らんぷりしてて」
「分かったわ。おやすみなさい、マリア」
「おやすみ、メルフィーナ、アレクシスもお疲れ様」
「ああ……」
手を振って、ドアが閉まる。
領主邸はこぢんまりとした造りではあるけれど、決して安普請ではない。切り出した石で造られた石組みの建物で、ドアも樫の一枚板を使った重厚なものだ。
マリアが大声を上げて泣いても、外に聞こえることはないだろう。
こんな時、傍にいるだけが友人のできることというわけじゃない。そっと距離を取って、思い切り泣けるようにしてあげたい。
あの日、領主邸のみんながそうしてくれたように。
「私たちも寝ましょうか。私の部屋に来る?」
「ああ……いや、今夜は遠慮しよう」
アレクシスはそう言うと、軽く体を屈めてメルフィーナの頬に口づける。
「おやすみ、メルフィーナ」
「おやすみなさい、アレクシス。優しい明日があなたに降り注ぎますように」
別館に続く通路の先までアレクシスを見送り、メルフィーナも私室に入る。
ドアを閉めると、どっと両肩にのしかかるように疲労がやってくる。
今日は、本当に濃密な一日だった。ドレスを脱ぐと片付けるのも億劫でソファに放り出し、シュミーズ姿のままベッドに倒れ込む。
朝になったら色々とやらなければならないことがあるだろう。アレクシスを追ってくるだろう騎士たちの対応はアレクシスに任せるとして、ソアラソンヌとエンカー地方の間にある村や町に褒賞を与える手配もして、ロイドへの見舞いと状況の報告に人を遣る必要もある。
コーネリアも呼び戻してあげたいし、ベロニカはしばらくエンカー地方に留め置いて色々と情報を聞き出していく必要もある。聖魔石の貸し出しについてどうなっているのかアレクシスに聞いて、その生産だって再開していかなければならない。
領主として、為政者としてやるべきことはたくさんあるけれど、今はどうしても、向かいの部屋で泣いているだろうマリアに気持ちが向かう。
――もし元の世界に戻る方法があっても、多分マリアは……。
かつて、アルファと呼ばれる人狼から聞いた言葉を思い出す。
マリアに浄化されれば、あなたは人間に戻れるのかという問いかけに、彼は皮肉げに笑って言った。
自分の心臓は魔石となって、血液の代わりに魔力を流して生き永らえさせているのだと。
そして、それを浄化されれば、自分は死ぬだけだと。
魔力は肉体に代替可能な力だ。魔力によって傷を癒し、病気を癒し、時には欠損した部位を再生させるようなことまでやってのける。
心臓が魔石に変化するメカニズムは不明だけれど、血液の代わりに魔力が流れて肉体を支えているというのも、理屈としては分からないではない。
では、魔力そのものがない世界に、心臓が魔石になった人間が戻った場合、どうなるのだろう。
それまでと変わらず生きていけるかもしれない。
心臓が魔石になっている人間は生きていけずに、数分で絶命するかもしれない。
魔物がおらず、魔法が存在しない世界でこの世界の「魔力」はエネルギーとして機能しないのではないだろうか。
だから、おそらく後者ではないかと、メルフィーナは思う。
当面の問題だけでも山積みなのだ。検証のしようのないことを考えて一喜一憂しても仕方がない。
マリアは、自分の人生を一番に考えてほしいと言った。メルフィーナも誰かの犠牲になって生きるつもりはない。
けれどアレクシスと共に生きて、メルフィーナとしての人生を謳歌して、思い残すことなく生き抜いて、もしもその先に人生の余りがあるならば。
その時は親友として、マリアの力になってあげたい。
「……今は、考えても仕方がないわね」
それは遠い遠い未来のことだ。状況は変わるし、明日何が起きるかなんて今の自分には分からない。
だから心配しすぎることなく、不安も棚上げにして、今は眠ってしまおう。
大切な人たちに、明るい明日が降り注ぐように。
そう祈って、メルフィーナはそっと瞼を下ろすのだった。




