518.めぐる命と不適格者
「ベロニカ様。輪廻転生という言葉は、ご存じですか?」
「? いいえ、初めて聞きました」
「人は死ねば魂が神の国に渡る。神の国で生きた魂は、この世界に再び生まれるという考え方です」
どうやらぴんとこないらしく、急に話題が変わったことに、ベロニカは戸惑っている様子だった。
「実は、私がそうなのです。神の国で過ごし、なぜかその記憶が消えないまま「私」に生まれました。マリアの聖典について詳しいのもそのためです。神の国で同じものを読んだ記憶が、私にもあるのです」
「……、そんな、とても、信じられません」
この世界には、輪廻や転生といった概念がないことは薄々感じていたけれど、これだけ長く生きたベロニカすら触れたことのない考え方らしい。
「でも、あなたは似たような現象を知っているのではないですか? ユルスとユリウス様のように、私の夫のアレクシスとマリア・フランチェスカ・モンティーニの傍にいた北部の公爵、アレクシスのように、乙女の周囲には、なぜかいつも似たような名前と性格の人々がいたのではないでしょうか」
「それは……ええ、確かにそのとおりです」
「私、思うんです。そんな偶然はある訳がないと。なぜか私は記憶を消し忘れられてしまったようですが、もしかしたら彼らも、私と同じように魂が巡っているのではないでしょうか」
ベロニカは懐疑的に眉を寄せ、それから軽く、首を横に振った。
「確かに、なぜか乙女の周囲にはいつも似たような名前と容姿と性格の方がいますが、彼らが同じ魂を持っているというのは、少々信じがたいです。たとえばユルス様とユリウス様はよく似ていますが、ユリウス様の方がよほど人に心を寄せていますし、オルドランド公爵も五番目の乙女の傍に侍っていた方と比べれば、人当たりが良く感じます」
「性格を作るのは、その人の体験とそこから獲得した思考法ですから。聖典に出てくる「メルフィーナ」は、それは意地が悪く傲慢で、贅沢と浪費が大好きな上に癇癪持ちで、使用人に不必要に当たり散らし、聖女を命がかかわるほどに苛め抜く悪女でしたよ。マリア・フランチェスカ・モンティーニの傍に、そんな女性はいませんでしたか?」
ベロニカは思い出すようにしばらく黙り込んだものの、短い沈黙の後、軽く息を吐いた。
「……オルドランド公爵閣下の奥方様が、当時ブラン王国の宮廷に出入りしていました。確かお名前は、領主様と同じだったと思います」
その反応を見るに、どうやらハートの国のマリアとそう遠からぬ性格をしている女性だったのだろう。
「勿論、今の私はそんなことは致しません。けれどそれは、私の周りの人々が優しく私を受け入れてくれたから――もっと言うなら、夫が私を愛してくれたからです。人は与えられた環境によって、いくらでも変わってしまいます。同じ魂を持っていても、どう育ったのか、何を学んだのか、誰と出会ったのかで全然違う人間になるのでしょう」
だから、と静かに、しっかりと意図が伝わるように、ゆっくりと告げた。
「乙女は――聖女はみな「マリア」の名を持っています。嗜虐的で周囲の誰も幸せにしなかった方も、たった一人の許に駆け出して愛し抜いた女性も、故郷から連れ去られたことに耐えきれなかった少女も、一貫して人を救い続けた乙女も、みんな「マリア」であることに違いなかったのではないでしょうか」
ベロニカにとって、マリア=ジョセフィーヌは唯一の人だ。彼女が永遠に失われたことが、ベロニカの希死念慮に繋がっているのは、話を聞く限り明らかだった。
「あなたのジョジーは失われてしまった。それはとても悲しいことです。けれど、記憶を失くしても、別の人格を持っていても、ジョジーの魂は今もこの世界にいるかもしれません。……新たなマリアになって」
「そんな……」
「マリアはひとつの魂であるからこそ、乙女がいる時は別の乙女が降臨してこないのではないですか。一人が一度に複数存在することは出来ませんから」
魂を取り出してその形を見ることができない限り、これもまた、誰にも確認しようのないことだ。
メルフィーナにあるアドバンテージは、マリアが降臨前に過ごしている神の国と呼ばれる異世界の記憶を自らも持っていることと、聖典と呼ばれているハートの国のマリアをよく知っていること、この二つだけなのだ。
――全部屁理屈で、確証もなければ確認のしようもない。
けれど、人が生きる理由などというものは、いつだってそうではないか。
夢も、希望も、願いも、誇りも、愛ですら、手で触れてその形をなぞることは出来ない。全て曖昧で、不確かなものばかりだ。善と悪だって、白と黒で明確に分けられるようなものじゃない。
そこにあるのはただ、それが「ない」と思って傷つき、「ある」と信じて生きる、人の心だけだ。
傷ついて苦しんで、その痛みを持て余し他者を傷つける者も、痛みを乗り越えて人を救う者も、みんな懸命に生きていたはずなのだ。
「それに、こう言ってはなんですが、私はベロニカ様の期待に応えられるような人間ではありません。それは確かなことです。なにしろ前科がありますから」
我ながら情けない宣言ではあるけれど、出来ないことを誤魔化しても仕方がない。
「昨年のことですが、ユリウス様は魔力の暴走により一度魔物になりかけ、このままでは、四つ星の魔物に匹敵する魔物になってしまいかねないからと、その場に居合わせた私に心臓を刺すようにと言いました」
思い出すだけで恐ろしく、手足の先が冷たく痺れる。この場で詳しい事情を知っているのは当のユリウスとアレクシスだけで、領主邸のメンバーにも伏せたままにしてきたことだ。
「私は、エンカー地方を愛しています。領民を、自らが指揮を執って開墾した土地を、ここにある全てをこの先も守りたいと思っています。それでも友人の命と天秤にかけて、結局どちらも選べませんでした。もし大切な人の魔石が私の手元に届き、多くの命と引き換えにしなければさらに長期的にたくさんの命が失われると分かっていたとしても、どうしよう、どうしようなんてオロオロしているうちに湧いてきたサスーリカに襲われて終わるのが目に見えています」
「まあ、レディはそうですね。時々驚くくらい甘い方です」
「おい、ユリウス」
「だからさ、友よ。レディには閣下や君や侍女殿や僕のような、伴侶や友人や参謀が必要なんだよ」
軽い口調のユリウスの言葉に苦笑する。まったくもってその通りで、反論の余地もない。
トロッコ問題には正解はない。ただ、自分の倫理観や価値観、道義心や判断力が複雑に絡み合って結果を出すだけだ。
そしてメルフィーナは、自分が毅然と、時に冷酷な判断が出来るような人間ではないことは、よく分かっている。
理屈では、領主として、貴族としてより多くの人を助けるために少数を犠牲にするのが「正しい」ことは解っているのだ。
けれど実際にその場に立たされたとき、メルフィーナは何もできなかった。未来にくるマリアに、確信もないのに助けてもらうと判断するしか。
あれはしみじみと、自分の情けなさが露呈した事件だった。
今でも忸怩たるものを覚える。けれど結局、それがメルフィーナ・フォン・オルドランドという人間の限界なのだ。
「そんな人間に、任せてもいいのですか? あなたの大切なジョジーの魂を持っているかもしれないマリアと、あなたが千何百年と守ろうとしてきた、この世界を」
ベロニカは、なんだか気が抜けたような顔をしている。
「守りたいものは、どうぞ自分の手で守ってください。でも、一人でそうする必要もないのではないでしょうか。幸いマリアを守りたいと思っている人間はここにもたくさんいますし、きっとこれからも増えていきますよ。あの子は優しい、いい子だから」
「領主様は、本当に……」
言いかけた言葉を切って、ベロニカは静かに、頷いて、それきり黙り込んでしまった。
「今日は、これくらいにしましょうか。沢山喋って疲れてしまったし、もう頭もよく回らないわ」
ベロニカからもたらされた怒涛の情報量と、彼女を説得するために屁理屈をこねくり回したことで、実際、とても疲れていた。
甘いものが食べたいし、行儀悪く寝そべってしまいたい。なんなら手足をバタバタさせて、どうしろっていうのと枕に八つ当たりをしたいくらいの気分だ。
けれどその前に、まだやることがある。
「オーギュスト、マリアには、話はまた後日改めてすると伝えてちょうだい。彼女にどこまで、どういう表現で伝えるかは、その前に話し合いましょう」
「かしこまりました」
「アレクシス」
「ああ」
「話があるわ。私の私室に来てくれる?」
「――わかった」
やることが、まだひとつ、残っている。
大切な人との、大切な話だ。




