511.閑話・二人の時間と結婚契約書【コミカライズ3話記念SS】
2話更新しております。
本日コミカライズ3話更新です。ページの下記にリンクがありますので、読んでいただけると幸いです。
こちらは461話の少し後くらいの話です。
夕食を終え、当たり前のようについてきたアレクシスを部屋に迎え入れてドアを閉める。
メルフィーナの部屋は領主邸本館の二階にあり、マリーやマリアの部屋と向かい合った場所にある。今日は二人とも食堂に残ってお茶を飲んでいたので気恥ずかしい思いをせずに済んだけれど、きっと気を遣ってくれたのだろう。
「長椅子に座っていて。お茶でも淹れましょうか?」
エンカー地方に来た当初から自分の身の回りのことは自分でやっていたこともあり、私室に他人がいるという状況は、いまだに少し落ち着かない。
以前密談を希望した折寝室に誘う口実で招いたことはあったけれど、あの時とは随分状況が変わってしまった。今思えば随分大胆なことをしてしまったし、もうみんなの前で同じことは出来ないだろう。
「いや、それよりこちらに来てくれ」
アレクシスは寛ぎ用の長椅子に腰を下ろすと、その隣をそっと撫でる。夕飯を済ませたばかりで腹は満ちているし、喉も渇いていない。そっとアレクシスの隣に腰を下ろすと、背中に腕が回り、腰を抱かれてしまう。
アレクシスは意外とスキンシップが好きだし、それに対して照れることもないらしい。慣れているというより、夫婦ならばそうした振る舞いは普通だと思っているような振る舞いだ。
メルフィーナも、二人きりの時にはこうして寄り添い合うのは好きだった。アレクシスの自分に向けられる愛情をたっぷりと感じるし、心臓が高鳴って、体温が上がり、アレクシスを愛しく思っているのを強く実感することができる。
そっと頭をアレクシスの肩にもたせ掛けると、大きな手のひらがアップにまとめた髪を撫でる。想いを受け入れられて、受け止められているのが実感できる。
「ねえ、アレクシス」
「ああ」
「その、ね。マリアの、というかみんなの前で、あんまりそういう感じを出すのは、やめない?」
「そういう感じとは?」
意地悪ではなく、本当に分からないという様子だ。膝の上で指をもじもじと組んだり解いたりを繰り返しながら、なんと告げるべきかとしばし、迷う。
「その、プライベートすぎる感じというか」
数瞬の間の後、ああ、とようやく気が付いたように頷かれる。
「人前でイチャつきたくないということか」
「……イチャつくって言葉が、あなたの語彙力にあるのね」
あまりにも厳格で冷徹な雰囲気のあるアレクシスの口から出たとも思えない響きに、思わず目を見開いて彼を見ると、アレクシスはふっ、と僅かに口角を上げて笑う。
アレクシスは最近、よく笑うようになった。満面の笑みとは到底言いがたいけれど、喜びや機嫌の良さを隠さない優しい笑みだ。
それを見る度にこちらもつい笑ってしまう。
感情を表現しようとせず、自分が喜びも悲しみも感じていることを気づこうとしなかったアレクシスが、こんな風に自分に笑っているのが、嬉しくて。
「口にしたのは初めてだが、市井の言葉は、それなりに聞く機会がある。昔は身分を隠して出かけたこともあったし、何よりあれが近くにいるからな」
「もう、またそんなことを言って」
あれというのがオーギュストを指すのはすぐに分かった。アレクシスが側近の騎士を信頼しているのは、傍で見ていれば解る。こうして時々露悪的に振る舞うのは、男性同士の昔からの付き合いという気安さなのだろう。
「君は、そういう振る舞いを人前でしたくないということだな」
――アレクシスの、こういうところが好きだわ。
きちんと話を聞いてくれていて、こちらの意見を理解しようとしてくれている。かつて何度となく一人で決めるな、話し合ってほしいと伝え続けたのを、誠実に受け入れてくれていると感じる。
「前世で暮らしていた国は、あまり夫婦や恋人の親密さを外で表現する習慣がなかったのよね。駄目というわけではないのだけれど、まだ少し、恥ずかしくて」
まして今世の夫婦観など、実家を思い出せばお察しというところである。
ゲームの中でもクールで冷徹な大貴族というキャラクターだったアレクシスが、こんなに愛妻表現を隠さない人だとは、メルフィーナも思わなかった。
こちらでは後ろ暗いことでもない限り、貴族は人の目などあまり気にすること自体がない。家族間でも当主の方針が優先され、属する家族はそれに従うのが一般的である。
領主邸の主はメルフィーナであるけれど、アレクシスはその夫で、大法典においては妻は夫に従うものとなっている。とはいえ、そうした慣習や法的な規範の話がしたいわけでもない。
「今更だけれど、私たち、名ばかりの夫婦だった時間の方がずっと長いじゃない? マリーもセドリックもそれは知っているし、いずれ離婚の可能性もあることも話していたから、なんというか、少しばつが悪いの」
「そうか」
「不仲に見せたいわけではないから人前では素っ気なくしてほしいとかではないの。その、一緒に寝室に入るとか、他の人もいる前で手をつないだりするのは……まだ、恥ずかしくて」
アレクシスはしばらく考えるように黙り込んだ。
彼にとっては何が問題なのか、ぴんとこなくても仕方がない。夫が妻の寝室に通うのは貴族家としては歓迎するべきことであるし、あからさまに人目を憚るような過度なスキンシップを求めてくるわけでもないので、メルフィーナも人の目を意識しすぎている自覚はある。
気恥ずかしくて、照れくさくて、少しだけいたたまれない。そんな気持ちを汲んでほしいというのは、アレクシスには納得できないかもしれない。
「わかった。君の望む適切な距離感は、都度教えてくれ。気に留めるようにする」
「ええ」
「二人きりの時はいいんだろう」
「もちろんよ。――ありがとう、アレクシス」
微笑み合って、指を絡めながら手をつなぎ、軽くキスをして寄り添い合う。
触れ合った部分から溶けていくような、幸福な気持ちをしばらく堪能していると、ところで、とアレクシスが言った。
「それで思い出したのだが、あれは、どうなっている?」
「あれ?」
「……結婚式の翌日に交わした、契約書だ」
少し気まずげな声に、結婚生活についての取り決めを記した羊皮紙の存在をようやく思い出す。
「多分そこの引き出しに入っているわ」
最近は存在を意識することすらなかった。処分することすら忘れていたので、今でも雑多な小物などと共に棚の奥に押しやられているはずだ。
「本当に今更だが、あれを破棄させてもらっても構わないだろうか」
その契約書は、君を妻として愛するつもりはないのだという取り決めを文章にまとめたものだ。
アレクシスの言葉にくすりと笑い、立ち上がって机の引き出しの中を探る。書類などのほとんどは執務室に置いているのでここにはメルフィーナのそう重要ではない私物が放り込まれていて、丸めてリボンを結んだ契約書もすぐに見つかった。
アレクシスのすることにメルフィーナは口を出さないこと。代わりに度を越さない限りメルフィーナはどこでも好きな場所で暮らして、自由に振る舞って構わないこと。
夫婦としての実績を作らないこと。エンカー地方をメルフィーナに割譲すること。
書かれているのはおおむねそうしたものだ。
「中身、一応確認する?」
「いや、そのまま燃やしてくれ」
その言葉に頷いて、火鉢の中に丸めた羊皮紙を放り込む。中々火がつかなかったので魔法で直接火をつけて、ほんの少し窓を開け、風魔法で煙を外に流す。
羊皮紙が燃える臭いと白い煙がたなびくように窓の隙間から外に流れていくのを確認して、アレクシスの隣に戻ると、なぜか複雑そうな顔をされてしまった。
「どうしたの?」
「いや……あんなに簡単に燃やしてしまって、よかったのか?」
夫婦としての実績はもはや今更だけれど、メルフィーナの選択や自由を保証する内容も記されて、きっちり公爵家の印章とアレクシスのサインも入った契約書だ。
アレクシスがそんなことをするとは思っていないけれど、この世界の夫婦の慣例に従い、妻の自由と権利を夫が制限する可能性だって全くないとは言えないだろう。
契約主義のアレクシスとしては、自分が不利益を被るかもしれない行いを、何の対価もなくあっさりとやったメルフィーナに困惑があるのかもしれない。
くすりと笑って、アレクシスに体を預ける。存在を忘れていた契約書のことなど、メルフィーナにはもう、どうでもいい。
「信頼しているわ、旦那様」
「……私の夫人は、時々底知れず、恐ろしいな」
「そこは可愛い妻だと言うところよ」
「ああ、愛しい、世界でたった一人の、大切な妻だ」
くすくす、と小さく笑い合い、何度かキスをして、夜は更けていく。
――本当に、どうでもいいことだわ。
慎重で、用心深くて、自分の領域に他人が踏み込むことを嫌っていた、出会ったばかりのアレクシスを思い出す。
あの頃の彼ならば丸めた羊皮紙の中身を確認しないままなど決してしなかったし、目の前で燃やされても確実に破棄したと信じることはなかっただろう。
散々金貨の山を受け取ったのだ、こと契約関係においては、自分を侮るような人ではない。
差し出された羊皮紙のリボンすら解かなかったのは、メルフィーナを信用し、信頼している表れだった。
――随分、甘くなったわ。あなたも、私も。
ほんの些細なことで歩み寄ったり、愚直なくらいに相手を信じてみたり、そんなことは、どちらもお互いにしかできないだろう。
そんな人と出会えたことが、今その人が傍にいるのが、嬉しくて。
寄り添い合ったまま時間が過ぎていく、ただそれだけのことが、とても幸せだった。