500.手紙と出発
手順を飛ばし形式が調わない目通りを何度も詫びて、家令見習いの青年が差し出したのは植物紙の手紙だった。
その手紙を持つ手はひどくひび割れ、あちこちに血が滲んでいる。頬はあかぎれだらけでところどころ切れており、唇には深い縦線が浮いていて、ほんの十日で二十年ほども老けたような様子だ。
久しぶりの帰郷を喜び、メルフィーナの元でしばらく過ごして春になる前に正式に暇乞いをするために戻ってくると笑っていた時は、公爵家に出入りするに相応しい若々しく身なりの整った様子だった。秋の終わりから彼についていたルーファスも、表情には出さないが何が起きたのか探るように、青年に視線を送っている。
手紙を差し出す手は疲労と寒さのためだろう、一回りほど浮腫んで震えている。すぐにでも休養が必要なのは明らかだった。
「手紙は確かに受け取った。ルーファス、すぐにサウナの手配を」
「かしこまりました。ロイド、用意が整うまでに食事を摂りなさい。――どれほど無茶をしたのか、その間に聞かせてもらいます」
ロイドは浅く頷くと、ギラギラと輝く目をこちらに向ける。
そうした目には、覚えがある。二年目以降の若い兵士がプルイーナの遠征に出る時に、このような目をする。
悲劇を知っている者が、命の危険を前になお危機に立ち向かう時の目だ。
「閣下、メルフィーナ様は、至急と申されました。どうかすぐに、手紙の確認を」
「分かっている」
しっかりと頷くと、青年はほっとしたように表情を緩め、最後の緊張の糸が切れたように、ふらりと足をもつれさせた。素早くルーファスが支え、控えていた従僕の一人がもう片側に手を貸す。
はっ、はっとひび割れた唇から漏れる息は短く、速い。歯の根がかみ合わないようで、かちかちと小さく音が響いている。
「これはいけませんね。まずは、温かい白湯をたっぷりと。食事はよく煮た麦粥――いえ、パンをミルクで粥にしたものを用意するように」
「はっ」
「今の彼には、サウナは刺激が強いでしょう。客間の暖炉に火を入れるように。薪を惜しむことがあってはいけません。汗をかくほどに部屋を暖めるように」
「はい、すぐに!」
従僕二人が左右から手を貸して、ロイドを連れて執務室を後にする。それを見送って、ルーファスは低い声で告げた。
「……彼には、公爵家を出る時に羊の手袋と毛皮を裏打ちしたマントを渡しました。よほどの無茶をしなければ、あのようになるはずはありません」
馬に乗る者にとって最も重要なのは、馬の性質を理解した技術であり、その次に注意を払うべきは防寒になる。
ただ馬に跨るだけでも、風に吹かれ、相当に冷える。走らせていればなおのことで、北部では一時間も馬に乗り続ければ乾燥と寒さで肌が乾き、動いた拍子に皮膚が切れるのもよくあることだ。
美しい羊飼いの手という諺がある。
羊飼いは他の仕事をしている者に比べ、総じて荒れた手をしていない。そこから転じて、北部には騎士や御者、単独で馬を操る者に無事と、つつがなく役目を果たすようにという祈りを込めて年長者から羊革の手袋を贈る習慣がある。
羊の革を使った手袋は防寒だけではなく、伸縮性がよく丈夫で細やかな動きに適しており、乗馬をする者には非常に重宝される。ルーファスはロイドによく目を掛けて手ずから家令に必要な技術を教えていた。贈った手袋も、上等なものだったのだろう。
一体どれだけの時間、馬を走らせれば若者があのような姿になるのか。恐ろしく無茶をしたのだろう。場合によっては命にも関わったはずだ。
「主命を懐に入れたまま自分の安全を顧みないとは、まだまだ血気盛んで未熟ですな。回復したら、よくよく言い聞かせる必要があります」
「衰弱は、神殿も教会もどうにも出来ない。しばらくは体を温め、滋養を付けさせるように」
「はい、そのように」
ロイドの様子を見るために一度辞す旨を告げ、ルーファスは執務室を後にした。数人の従僕が残っているが、特に言いつける用もないので机に戻り、急いで手紙の封を切る。
ロイドがメルフィーナの身に何かが起きたと口にしなかったのは、周囲にいる使用人たちを憚ってのことだろう。だがその様子から、受け取った手紙が甘い内容のものではないことは知れた。
その予感は、すぐに的中した。
アナスタシア・フォン・アントワーヌは神殿の大神官、ベロニカ。
至急救援を願う。
メルフィーナ・フォン・オルドランド
前置きもなく、署名を除けばたった二行の短い文字に、血の気が引き、次に湧き上がったのは、炎のような怒りだった。
義弟と共に訪れた、深い紺色の髪の女を思い出す。あまり強い印象はなく、夫を亡くし、思い出深い北部を巡ろうと思い立って家を飛び出してしまったのだと言っていた。
その所作は明らかに貴族特有の洗練されたものであったし、話し言葉、立ち振る舞いからそれなりに高位の家の出であることも窺い知れた。義弟の情婦というわけでもなく、ただ行きずりの相手に親切心を出しただけであるのも、話をすればすぐに分かった。
適切な距離感を取るのが上手い。だがただそれだけの、毒にも薬にもならない存在。その程度の印象しかなかった女が神殿の最高位に就く者であり、それをむざむざと、メルフィーナの元に送ったことになる。
「ルーファスを私室に呼べ。それから、至急最も足の速い馬を用意しろ!」
アレクシスの怒号に従僕たちが体を震わせ、すぐに動き出す。剣を持ち大股で執務室を飛び出し表向きにある私室に入り、ゴテゴテと装飾の付いた上衣を脱ぎ捨てる。
僅かでも軽い方が、馬は長く走る。裏に毛皮を張ったブーツに履き替え、遠征用のマントを羽織る。剣を公爵家の者であることを示す紋章の入った革の鞘に移し、羊の手袋を嵌めれば用意はそれで済んだ。
「閣下、一体何ごとですか」
「すぐに発つ。来客の対応と全ての権限をお前に預ける」
「閣下、すでに日は落ちています。どこに行くというのですか」
常にない行動をしても、アレクシスが幼い頃から公爵家の表向きを取り仕切っている家令は動揺を見せることはしない。ただ訝し気に眉を寄せるだけでも、ルーファスとしては相当感情が動いている証だ。
「エンカー地方に賊疑いのある者が入った。騎士団を編成し、明日、日が昇り次第出発するように取り計らえ。私は先に出る」
お待ちください、と続ける家令を煩わしく振り返ると、ルーファスは控えていた従僕に静かな声で指示を出す。
「火の魔石の入ったランプで最も大きく、照らす範囲の広いものの用意を。換えの魔石は必要ないでしょうが、念のために予備を一つ、すぐに用意を。――携帯食と水嚢と、少しでも身軽であることをお望みでしょうが、馬を替える時に保証金も必要でしょう。大銀貨を数枚はお持ちください」
「……止めないのか」
「翻意していただけるならば、命を懸けてもお止めいたします。ですが、それが叶わないならば、せめて僅かでも安全を確保することが私の仕事ですので」
ルーファスは顔に掛けたガラスの板……眼鏡と呼ばれるものの側面をなぞる。
それがメルフィーナから与えられたものであることは聞いていた。度々、年齢を理由に引退をと口にしていたルーファスが随分仕事が捗るようになったのだと、珍しくそうと分かるほど口角を上げて笑っていたのは、そう以前の事ではない。
「エンカー地方には奥様とマリー様、ウィリアム様も滞在中です。気持ちが急いておられても、決して皆様を悲しませるようなことにはならないよう、お願い申し上げます」
「言うまでもない」
深々と頭を下げる家令に、きっぱりと告げる。
プルイーナを殲滅し、砂糖事業による景気の拡大と大規模な政治体制の改革。北部を苛み続けた問題の解決と、今後もやるべきことは山のようにある。
あらゆるものが変わり、そしてそれは、幸福への道へと続くはずだ。
北部は凍てついた長い長い冬が終わり、これから暖かな春を迎えるのだ。
幸福へと導く春の女神のごとき、公爵夫人と共に。
「行ってくる」
「無事のお戻りを、お待ちしております」
ロイドはエンカー地方出身なので、貧しかった頃とメルフィーナが来てから豊かになったエンカー地方の両方を知っています。何か大変なことが起きていることを察し、メルフィーナと故郷のために冬の街道を走り抜けました。