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499.失った過去と突然の来客

「おお、これが……」


 差し出した小箱を開き、天鵞絨ビロードを張った中に固定されたペンダントを、老紳士は震えながら撫でた。


「これがあれば、魔力中毒が和らぐのですな」

「数人だが、すでに効果は確認済みだ」


 その言葉に老紳士――フォルティエ前伯爵は短く息を吐き、膝に手を突いて、深々と頭を垂れる。


 祖父の代に勇猛な騎士として名声を誇ったと言われる前伯爵だが、アレクシスにとっては物心ついた時から穏やかな老人という印象が強い。今は息子に爵位を譲り妻と共に小さな屋敷に移って久しく、こうして会うのもアレクシスが公爵位を継いだ折の祝賀の席以来だった。


「閣下、幾重にも感謝いたします。これで、孫娘を助けてやれます。我がフォルティエ家はこれまでと同じく、いいえ、我が息子の代より永年、オルドランド家に絶対の忠誠を誓います」


 冬もそろそろ終わりが見えてくる時期とはいえ、北部の冬は常に危険と隣り合わせであり、領主は有事を鑑みて領地から離れることをしない。今回の申し出に代理の騎士や家令ではなく引退した前伯爵が訪れたのは、フォルティエ伯爵家の最大の敬意の表れだろう。


 孫よりも年下のアレクシスに、惜しみなく恭順を口にする男に、アレクシスはいいや、と低く答える。


「その礼は、無事ひ孫が生まれた時に受け取ろう。それに、これは発見されたばかりの解決案で、完全に安全であるとも言い切れない。これから改善の余地も出てくるだろう。――ここで儀礼にこだわる必要はない。早くガブリエラ夫人に届けてやるといい」

「は……。閣下、厚かましい願いであることは承知の上ですが、ガブリエラの下の娘が、春には隣の領に嫁ぐ予定です。無事ガブリエラの子が生まれたら、これを下の娘に託すことをお許しいただけないでしょうか」


 ペンダントはあくまで貸与であり、子が生まれたら返却が必要であることはすでに説明が済んでいる。だが、北部の問題は貴族家ならば妻に、娘に、孫娘にと、間断なく訪れるものだ。一人が救われれば他の親族も救ってやりたいと願うのは、自然な成り行きだろう。


「それは魔石の道具と同じく使えば少しずつ消耗するもので、どの程度消耗していくかもまだ検証の段階だ。その折には、また新しいものを用意しよう」


 おお、と震える声を漏らし、フォルティエ前伯爵はもう一度深く頭を下げると、何度も丁寧に礼を告げて公爵家を後にした。


「――これで、八家か。思ったよりも多いな」

「北部の貴族は、冬生まれが多いものですから」


 ルーファスの言葉に頷いて、天井を仰ぎ、深く息を吐く。


 元々北部の若い貴族や騎士は、冬の間の領地の防衛が最も重要な仕事である。それ以外の季節は鍛錬と並行して領地の仕事を行うため、家庭内に関してもこの時期に集中しやすい傾向がある。


 プルイーナの遠征中に子がいつ生まれるか分からない状態であるというのは、北部の騎士にはそう珍しくないことであるし、実際アレクシスも弟のクリストフも冬生まれだ。


 マリアが作り、エンカー地方で加工された聖魔石のペンダントの存在は、現在身内が子を宿している北部の貴族や騎士たちにすんなりと受け入れられた。


 オルドランド家の信頼が厚いということもあるだろうが、効果が定かではなくとも、妻と子を失うかどうかは天に運を任せるしかない状態では、どんな不確かな救いにも縋りたいと願ってしまうものなのだろう。


 あとは、ペンダントを預かった家で無事に子供が生まれていけば、自然と、そして速やかに広がっていくだろう。メルフィーナが計画している保養施設が完成するまでのつなぎとしては十分に機能するはずだ。


「……いつか、北部にとって子を授かることが本当の意味で慶事になる日も、遠くなさそうですね」


 ルーファスの言葉はしみじみとした、そして重たいものだった。


 家を継承し領地を守るためには、跡を継ぐ子供がどうしても必要であり、誰もが願う。強く、健康で、願わくば魔力の耐性の強い子供が生まれてくるようにと。


 だがその陰で、多くの女たちが肉体と精神を削り続けてきた。妊娠は単なる慶事ではなく、その先の喪失を予感させるものだ。


 それを、変えることが出来るかもしれない。女が肉体を損なわず無事に子が生まれ、プルイーナの侵攻を止める肉の剣となる前提さえ失われ、健やかに育つ、そんな時代が北部に来るのかも。


 ほんの一年前までは、想像すらしなかった未来が来る。その予感に心が沸き立たない北部の貴族はいないだろう。それはアレクシスも同じだ。

 だが、聖魔石が完成しこうして必要とする者に渡すようになってから、どうにも感情が過去に引きずられることが多くなった。

 それはアレクシスが、とうに捨てたはずの夢だ。


 あとほんの十数年、聖女の魔力が発見されるのが早ければ。


 子供の頃、美しい庭の木陰で共に北部を良くしていこうと誓った弟が、お兄様たちは仕方がないですねと笑っていたマーガレットが、今も自分の傍らにいたのかもしれない。母は正気を取り戻し、マリーもまた、今とは違って実家と縁を保つことが出来たかもしれない。

 あるわけもない夢だ。


『アレクシス』


 甘い響きで、大切なものの輪郭をなぞるように自分の名を呼んでくれる妻の声を思い出す。

 あの声があれほど甘く響くのは、自分の名を呼んでくれるのが彼女しかいないからだろうか。

 それとも、父を、母を、弟を、マーガレットを失わずとも、同じようにその声は甘かったのか。


 蜂蜜のような金の髪。気の強そうな目もととは裏腹に、その実とても人がよい。


 整った貴族らしい指で地平まで続く豊作の畑を生み出し、魔法のように美味なものを作る。貴婦人としての振る舞いは完璧なのに贅沢は大して好まないらしく、彼女に何かを贈りたいと思う時は、いつもひどく悩ませられる。


 彼女の喜びも、悲しみも、怒りも、全てを知り、共有したい。いつか北部から深い悲しみが去った時は、共に手を取り、穏やかに生きて、家族を増やし、そして遠い未来には共に眠りにつきたい。


 彼女の方が年下であり、聖魔力を操るメルフィーナなので、次は置いて行かれることはないだろう。神の国で彼女が来るのをゆっくりと待つのも、きっと苦ではない。


 そう考えて、ふっと肩から力が抜ける。

 多分、何を失わずとも、彼女は自分の特別な存在になっただろう。


 この先、メルフィーナと共に大切なものを増やしていく未来を想像していても、その先すら彼女を手放す気はないのだと、心はとっくに決めてしまっている。


 自分にこんな執着や独占欲があるとは、想像したこともなかった。案外自分のことなど分からないことだらけなのかもしれない。


「後はドーマン子爵か。到着が遅れているようだが」

「街道が雪で埋まってしまっているようです。こちらから兵士団を派遣して除雪も行っていますが、山間の街道ですので、少し時間がかかるかもしれません」


 ルーファスの言葉に頷く。本来、北部の冬は決して移動に適しているとは言えない。それでも、春になるまで待てない北部の貴族や騎士たちの来訪が絶えることはなかった。


 有力貴族はドーマン家で一応終わりのはずだ。後はルーファスに代理を任せて、先だってエンカー地方に発った義弟を追うことにしよう。

 寝室に飾ってある絵の出来は本当に素晴らしいが、その分実物に会いたくなるのがたったひとつの欠点だった。いずれ家族の肖像をという話なのに、実際に出来上がれば今度は絵の中の自分に嫉妬をするという不毛なことになりそうだ。


 そんな愚かな自分もまた、悪くはないと今は思う。


 少し休憩を挟めば、もう晩餐の時間になる。明日からは、ドーマン子爵が到着するまで留守にする間の仕事を片付けておこう。そう決めたのとほとんど同時に、速足の靴音が執務室に近づいてくる。ルーファスが扉を開くと、従僕の一人が几帳面に礼を執る。


「閣下、ルーファス様、失礼いたします。来客があり、ルーファス様に至急目通りをとのことです」

「おや、こんな時間にですか」


 ルーファスは不思議そうに首を傾げる。太陽が傾き始めて以降の来客は滅多にあることではない。まして晩餐が近い時間ともなれば、相手によっては明日出直すようにと告げても礼儀に反したことにはならない、そんな時間帯だ。


「どなたですかな?」

「エンカー地方より、家令見習いのロイド殿です」


 従僕は緊張したような、どこか焦りを滲ませた表情で続けた。


「公爵夫人の使いとのことで、至急ルーファス様に取次ぎを願っています」


 それは、十日ほど前に義弟とともに送り出した、まだ年若い家令見習いの名前だった。


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― 新着の感想 ―
それは、十日ほど前に義弟とともに送り出した、まだ年若い家令見習いの名前だった。 ーーーー 一番最後の行ですが、ロイドは手紙目録贈答品などを託され、ルドルフ達が公爵邸に着く前に出立しているので、間違いで…
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