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497.吐血と名前と彼女の配置

 団欒室に向かうと、少し開いたドアの向こうから微かに言い争うような声が聞こえて来た。領主邸で普段聞くことのない荒っぽい声に、セドリックと視線を交わし合い、移動する速度を少し上げる。


 セドリックが一度メルフィーナを手で制し、扉を開けて先に中に入る。その体の端から覗き込むように中を見ると、マリアが椅子に座ったまま腹を抱えて背中を丸めており、マリアとベロニカの間にオーギュストが割り込む形で、剣に手を掛けていた。


「一体何ごとだ」

「領主様。マリア嬢が急に痛みを訴えて、少量ですが血を吐きました。様子を見ようとしたのですが、こちらの騎士に阻まれているところです」

「マリア様と向かい合っていたのは貴方様です。不用意に近づかないでいただきたいと願っただけですよ」

「この通り、私が毒を盛ったと言いたげな様子なのです」


 ベロニカが不快感を表情に出しているのは、これが初めてだった。二人の諍いには構わずマリアに駆け寄り、その背中に手を当てて顔を覗き込む。


 血の気が引いた蒼白な顔だが、意識はある。ぎゅっと引き締めている唇には、確かに赤い物が滲んでいた。


「マリア、どこが痛いか言える?」

「お、おなか……痛い」


 酷い苦痛が続いているのだろう、ぎゅっとつぶった瞼の間からたらたらと涙がこぼれているのが痛ましい。


「マリアは私が診ます。セドリック、アントワーヌ夫人を部屋まで送って。それから、オーギュスト。あなたも部屋の外へ」

「俺はここに」

「……今のあなたは、マリアには毒よ。落ち着いたら必ず呼ぶから、今は出て行ってちょうだい」


 きっぱりと言うと、オーギュストはひどくたじろいだ様子だった。そんな彼には構わず、ベロニカはテーブルを回りこみ、扉へと向かっている。


「部屋までの道順は分かりますので、見送りは結構ですわ」

「いえ、お送りいたします」

「……では、遠慮なく」


 セドリックの硬い声に固辞は無駄だとすぐに悟ったらしく、二人は団欒室を出ていった。迷っていた様子のオーギュストも、騎士の礼を執ると、足音を立てずに団欒室を後にする。


「マリア、もう二人きりよ。大丈夫、私の部屋にいる時と変わらないわ」

「う……うん」

「おなかが痛いのね? 血を吐いたなら、胃だと思う。辛いだろうけれど集中して、あなたなら治せるわ」

「ん……」


 痛みで集中出来ないのだろう。いつもならばとんでもない力を放出するマリアだが、粘ついた汗をかきながら、彼女の体から強張りが解けるまで十分近くが必要だった。


 荒い息を吐くマリアの背中を撫で、ようやく表情から苦痛の色が消えたことに、ほっとする。


「大丈夫そう?」

「うん……ありがと、メルフィーナ」

「大事に至らなくてよかったわ」


 ほっと息を吐いて、何か飲ませようとカップに手を伸ばし、ほとんど残っているお茶に指を止める。結局予備のカップに人肌の温かさ程度の水を出してマリアに渡した。


 念のためにカップのお茶も「鑑定」してみるけれど、毒やおかしな成分は見当たらない。オーギュストの疑念が外れたことに、ほっと肩から力を抜く。


「多分急性の胃潰瘍ね」

「胃潰瘍って、ストレスで胃に穴が空くやつ?」

「の、まだ軽い症状」


 あの痛みで軽いんだとマリアは嫌そうに言うけれど、胃潰瘍だって軽度のうちならば服薬でなんとかなるけれど、重度になれば手術が必要になる病気である。それも前世の医療技術があればの話で、この世界ならば命に関わるものだ。


「……ちょっと前からたまに痛くなっていたけど、急だったから驚いたよ」

「ストレスが続くと胃を保護している粘液の分泌が不足して、胃液で胃の内側が焼けてしまうのよ。ベロニカとの話で、何かショックを受けるようなことがあったの?」

「……うん」


 マリアはゆっくりと水を飲み干すと、深く、ため息をついた。


「ごめん、メルフィーナ、ベロニカと話をするって、先走っちゃって」

「いいのよ。――アレクシスが来る前に、と思ったんでしょう?」


 マリアはその問いに、無言で頷いた。


 ベロニカが現れてからというもの、アレクシスの傍で長年北部の悲劇を見てきたオーギュストはずっとピリピリと肌が痛むような殺気を放ち続けている。常に飄々として何ごとも深刻ぶらないオーギュストがあの調子なのだ。アレクシス本人がベロニカを前にすれば、どう出るのか、メルフィーナにも分からない。


 もしかしたら怒りに目がくらみ、その場で手討ちを行うことすらあるかもしれない。


 だが、天与ディヴィナに続いて二人目の、気が遠くなるほど長い更新履歴を持つ存在だ。彼女が何かを知っているだろうことはほとんど確定で、それはこの先、マリアが歩むだろう道と深く関わっているのも、想像に難くない。


 マリアにとってベロニカは、先の見えない道を自分より前に歩いてきた先達のようなものだ。

 彼女の立場ならば、話を聞きたいと思うのも当たり前だ。


「何を話したか、聞かせてくれる?」

「うん。と言っても、大した話はしてないよ。ベロニカってほら、あんな感じじゃん。私の探りとか軽く流しちゃうし、そのたびに後ろにいるオーギュストの雰囲気が怖くなっていって、段々何を聞いていいか分からなくなっていったし」


 王都では、かなり大きな家があるらしいけれど、そこに滞在するのは珍しく、基本的には一年中あちらこちらにと移動をすることが多いらしい。


「何か、見回りをする必要があるんだって。普通は家令がすることだけど、ベロニカにはその役割をしてくれる人がいないから、自分でするしかないって言ってた。それから、結婚前は東部でしばらく暮らしていたって。結婚してからは王都にいて、死に別れてからはそうやってあちこちに移動する暮らしをしているって言ってた」

「そう……」


 ほとんどは家令に任せることになるけれど、信頼できる家令がいない場合、領主が領地の見回りをするのは、そう珍しいことではない。ベロニカが女相続人の場合、珍しいとしても可能性がないというほどではないだろう。


「旦那さんとは、死に別れたと言っていたの?」

「うん、結構前に亡くなったって」

「そう……」

「あとは、友達はいるのかとか、趣味とか、結構当たり障りのない話が続いて……あんまり長引くとオーギュストが爆発するかもしれないって思ったから、適当なところで切り上げようと思ったんだけど、ベロニカ、ずっとニコニコ笑ってて……なんだろう、ちっちゃい妹か、子供を見るみたいな感じなんだよね。完全にあっちのペースでさ……」


 マリアは、その感覚をどうにも形容しがたく思っているようだった。

 食事の席や他人がいる場所では、ベロニカは儀礼的に微笑み静かに話すけれど、マリアには当たりが柔らかい。二人で話をという誘いにも、すぐに了承した。北部での暮らしが一年にも満たないマリアには、プルイーナの被害やそれに付随する北部の問題も、話には聞いていてひどいことだとは思うけれど、実感が伴ったものではないだろう。

 少なくともベロニカは、そんなマリアにとっては到底悪人には見えないはずだ。


「本当にこの人が、オーギュストやアレクシスがそんなに怒るようなことをしたのかって、話しているとどんどん分からなくなっちゃうんだ。それで、そろそろ切り上げようと思って、その前に「鑑定」をしたんだけど」


 言葉を切り、マリアは再び胃の辺りをそろりと撫でる。


「……ものすごい更新履歴だった。あれを見て平気な顔をしていたユリウスは、ちょっとどうかと思う」

「まあ、ユリウスだものね」

「それを見ているうちに気持ち悪くなっちゃって、ちゃんとした数を数えるのは無理だったよ。あとはベロニカの名前、すごく長くて難しかったけど、ちゃんとアナスタシアって名前だったんだけど……」


 マリアは口の中でモゴモゴと反芻する。

「ベロニカ・アナスタシア・ムリシュ……多分、ナディ、ナディウム? アントワーヌになってたよ」

 初めて聞く響きに、メルフィーナも軽く眉を寄せる。大陸の共通言語ならば古語までは履修したメルフィーナにも、一度も聞き覚えがなかった。

「偽名というのが逆に嘘だった、ということかしら。いえ、本当の名前を名乗っていないという意味では、嘘ではないのかもしれないけれど」

「うん、それと、これにも驚いたんだけど」


 マリアは眉尻を落とし、自分が見たものをどう表現すればいいか分からないというような、困った表情を浮かべていた。


「配置がNPCになってた。これって、どういうことなのかな?」


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