491.領主の願いと傍観者
「大丈夫? 立てる?」
静まり返った室内にマリアの声が響いたことで、はっとそちらに視線を向ける。横たわっていたネロに手を貸し、立ち上がらせて、マリアは労わるようにその頭を撫でていた。
おそらく、マリアが軽く治療魔法をかけたのだろう、頬は赤くなっているけれど、大きな怪我をしている様子はない。それにほっとすると、マリアはこちらを振り向かず、けれどすぐそばにいる少年に話しかけるには、少し大きな声で言った。
「あのさ、私は、メ……姉様の近くにいただけだから、そんなに偉そうなことを言える立場じゃないんだけどね。姉様は、秋から冬まで、食糧の備蓄を何度も確認したり、エールを仕込んだり、保存食の蔵を増やしたり、炭の量を調整したりって、ずっと冬支度を頑張ってたんだ」
言葉を選ぶように、けれど切々と、その声は静まり返った室内に響いていた。
「全部、エンカー地方で暮らす皆が冬に寒くてお腹がすいて、辛い思いをしたり、ええと……神の国に、渡ったりすることがないようにっていう気持ちからだよ。姉様はいつも人前では平気そうな顔しているけど、本当に、すごく頑張ってたんだよ。君たちになにかあったら、お父さんとお母さんの次くらいに、姉様はすごく悲しんだよ」
「マリア……」
「だから、危ないことはしないでほしい。それが理由で、誰かが不幸になったりも、しないでほしい。誰かが辛い思いをするのが、姉様は一番、心を痛めると思うから」
数拍、しんと静まり返ったあと、少年のしゃくりあげる声が響く。それは次第に大きくなって、すぐに泣き声に変わった。
「ふ、うぇっ……。めっ、メルフィーナ様、ごめんなさい、みんな、ごめんなさい!」
「ネロ!」
ネロの母親が駆け寄り、抱擁する。父親は立ち尽くして、泣いていた。
肩から力が抜けて、椅子に座り直す。
どうやら収まるべきところに収まったらしい。それに安堵しながら、ひどく疲れてしまった。
* * *
「本当にお世話になりました。このお礼はまた、改めて」
日暮れが近づき、フリッツの家を辞す時まで、ベロニカは穏やかな様子だった。
「いえ、とんでもありません。その、あのような風呂しか用意できず、申し訳ないほどで」
「最近は公衆浴場に通うことが多いので、湯桶として使うのは久しぶりでしたので、何かと整わないことも多かったと思いますが」
始終恐縮した様子のフリッツとイルマに、ベロニカはいいえ、と微笑んだ。
「とても助けられました。それから、ネロ君の事ですが、今は元気そうでもおそらくこの後熱を出すと思います。体と心に大きな衝撃を受けた後は、往々にしてそうなるものですから。悪い風が入ったのとは違いますので、落ち着くまで安静にし、卵など、滋養のつくものを食べさせてあげてくださいね」
危ないことをしたのを叱るのは、その後にしてあげてくださいと続け、馬車にはメルフィーナとマリアが隣り合い、ベロニカはその向かい合った座席に腰を下ろした。
「アントワーヌ夫人、毛皮をどうぞ」
「いえ、もう充分温まったので、大丈夫ですわ」
「ですが、まだ髪が濡れています。この季節では冷えるでしょう」
「ああ、そう言えばそうでしたね。私の髪はどうも、細くて乾きが悪いのです」
苦笑して、少し癖がある濃紺の髪を指でつまむ。確かに髪質は細めであり、それでも十分なボリュームがあるということは髪の量が多いのだろう。それだとドライヤーがあっても中々乾きにくいはずだ。
「あの、ちょっと、ごめんね」
マリアが手を伸ばし、ベロニカの髪にそっと触れる。それからふわっ、と濃紺の髪が空気を含んだように見てわかるほど軽くなった。
「ええと、私、水の魔法が使えるんです。濡れたままだと冷えちゃうと思って」
「まあ、まあ……ありがとうございます。光栄ですわ」
驚いたように金の瞳を見開いて、ベロニカは僅かに頬を染めて笑う。もう一度毛皮の肩掛けを勧めると、次は受け取られ、穏やかな口調で礼を告げられた。
「アントワーヌ夫人。先ほどはありがとうございました。全て丸く収まって、本当によかったです」
「いいえ、あれで事が済んだのは、領主様のおかげです。私がしたことは、これまで領主様が築き上げてきたものの、ほんの上澄みを掬っただけですもの」
そう言って、ベロニカは馬車の窓の向こうに視線を向ける。
その横顔には、焦がれるような色がある。そんな気がする。
「今日一日、歩いてみてよく分かりました。本当にここは、素晴らしい土地です。領主様がどれほど心血を注いで人と土地を豊かにしてきたのか、それを思うと心から感服します。私は、これほどの豊かな土地を見たことはありません」
「そんな、褒め過ぎですわ」
いいえ、とベロニカは言って、メルフィーナを見据え、微笑む。
「人は、貧しく生きるほどに見えるものは小さく、考える範囲は狭くなっていきます。今あるものを守ることに必死な人たちは、共同体全体が罰を受ける前に個人を切り捨てることを、容易く選ぶものです。――多くの土地ならば、領主様方が到着する前に、あの子はむごく叩き殺され、それを償いとして差し出されていたでしょう」
ベロニカの言葉は淡々としていて、それだけに凄みがある。
まるでそんな恐ろしい光景を、実際に見たことがある。そう感じさせる口ぶりだった。
「……だから、ネロと同じ湯に浸かることまでなさったのですか」
目を離せば、それこそネロが「切り捨てられる」かもしれないと思ったから、傍に置いて放さなかった。ベロニカの言葉は明らかに、それを示唆するものだった。
「杞憂に終わって、本当によかったと思っています」
「なぜ、夫人がそこまでするのですか」
ベロニカにとって、ネロは行きずりの子供のはずだ。命の危険を冒してまで冬の川に飛び込み、その命を慮って同じ湯桶に浸かるほど心を砕く理由など、あるはずもない。
そう問いかけたメルフィーナに、ベロニカはそうですね、と小さく呟く。
「もしかしたら、弟様の影響かもしれません」
「――ルドルフの?」
「ええ。門で止められて立ち尽くしていた私に、ルドルフ様は行き先が同じなのだから同道しないかと声を掛けてくれました。私も無邪気な小娘ではありません。困った時にそんな声を掛ける男性の思惑が、そう多くはないことくらい、承知しているつもりでした」
ですが、と続ける声は染み入るようで、僅かに笑みの形になっている口元から出る言葉は柔らかく、するりと耳に入ってくる。
「ルドルフ様は本当に紳士でした。これから自分は姉に会いに行くのだと、本当に素晴らしい方なのだと、道中よく聞かせていただきました」
「あの子ったら……」
「ふ、ふふ。姉に会えるまで、私を姉として大切に扱うとも、言ってくれたのです。そして、ここにたどり着くまで、それは違うことなく果たされました。きっとルドルフ様も、慈悲深く、素晴らしい領主になられるのでしょう」
「ルドルフ君、いい子だもんね。雰囲気は全然違うけど、メルフィーナと似てるなって思うよ」
隣のマリアがそう続け、ベロニカはその言葉にしっかりと頷く。
「子供が追いかけっこをして遊び、大人たちは懸命に畑で仕事をしながら、明るく笑い合って声を掛け合っていました。市場では気さくに声を掛けられて、誰もが活き活きと輝いていて……ルドルフ様のように信頼できる方と時間を共にして、そしてこんな土地が存在すると知って、この土地に生まれた子供に不幸は似合わないと思ってしまったのでしょう」
「……恐縮ですわ」
ベロニカは、強く警戒するべき相手だ。何を考えているのか分からない。
その一挙手一投足に別の意味や思惑があるのではないかと考えてしまう。
けれど彼女の言葉も、まなざしも、ひとつも嘘はないようにも、思えてしまう。
――どうしよう。
メルフィーナは、自分もまた、ベロニカに呑まれかけているのだと自覚する。
この人が、ただの善い人ならば、どれほどいいだろうと考えてしまう。
神殿がしていることの予想が何かの誤解で、本当は全然別の真実があるのならどれだけ良いかと、そんな風に思ってしまう。
領主として、アレクシスの伴侶として、情に呑まれてはならないと思う心の半分がままならず、膝の上で自分を戒めるように、ぎゅっと拳を握りしめた。
* * *
日が落ちる直前にかろうじて城館にたどり着き、馬車のドアが開くとセドリックがエスコートの手を差し伸べてくれる。
その隣にいたのは、なぜか正装したユリウスだった。
普段は楽だという理由から、農民なのか商人なのか半端な平民の服を着ているのに、初めて領主邸を訪ねた日に着ていた服を、わざわざ引っ張り出してきたらしい。
長い髪をきちんと梳り、装飾品も身につけた、貴族然とした格好だった。
「はじめまして、アントワーヌ夫人。城館で食客として滞在をしております、ユリウス・フォン・サヴィーニと申します。昨日は少し離れた村に宿泊していたため、ご挨拶が遅れて申し訳ありませんでした」
「まあ、ご丁寧に、ありがとうございます」
礼をしてエスコートのために差し伸べられた手に、ベロニカは貴族の礼儀として手を差し出す。
あ、と後ろにいたマリアが、小さな声を上げた。メルフィーナもすぐに、ユリウスの意図を理解する。
「どうかなさいました? サヴィーニ卿」
「……いえ、あまりの美しさに、我を見失ってしまいました。これほど美しい方が来訪すると知っていたら、決して留守には致しませんでした」
「ふ、ふふ、お上手ですね」
一瞬、ユリウスの表情に珍しく緊張感のようなものが走ったけれど、すぐに、やや熱っぽい声に取って代わられた。
「今夜も料理長が腕を振るっているそうです。大きなトラブルがあったと耳に挟んでいますが、それもすぐに吹き飛んでしまうでしょう」
「それは楽しみですね」
「参りましょうか」
ユリウスとベロニカのやり取りにやや取り残され気味な四人は、複雑な表情でお互いに視線を走らせて、それから二人の後を追うことになった。
湯桶は普段は洗濯に使う桶と同じものです。大きな木製の桶で、お湯につかる時は大きな布を敷いてからお湯を溜め、それに浸かります。
エンカー地方では現在庶民用の銭湯があり安価で利用できるため、個人の家ではお湯を溜めてお風呂に入ることが減りました。一階はパン屋で、石窯の熱を利用して二階がサウナ風呂になっています。




