49.サウナと白いパン
建築ラッシュが続くエンカー地方だが、領主の館にもいくつか増築することになった。
まず、屋敷自体が非常に小規模ということがあり、敷地の近くに使用人用の宿舎を造ることにした。
今のところ男性使用人は人足から雇用したラッド、クリフ、エドで、この三人が馬の世話から御者、雑用の大半をこなしてくれている。三階の使用人部屋で暮らしてもらっていた彼らを使用人用の宿舎に移すことになった。
母屋である領主館にも、規模が大きめの地下貯蔵室のほか、元の建物につなげる形で新しく一階部分に広間と、その二階に客室にもなる部屋を増やしてある。
メルフィーナが来るまで領主邸自体がほぼ放置状態だったほど、エンカー地方は人の出入りのない土地だ。こんな北の端に貴人の来客が来ることはほとんど無いとは思うけれど、以前アレクシスが訪ねてきた例もある。
領主が暮らしている屋敷である以上、最低限客人をもてなす食事を振る舞うためのホールと宿泊できる部屋くらいはあったほうがいいというのが、マリーとセドリックの共通の意見だった。
女性の使用人は、住み込みで働いているのは秘書のマリーだけで、彼女は侍女時代と同じようにメルフィーナと同じ母屋の二階にある一室を私室としている。後はニドの妻であるエリと、エンカー村から女性が一人、メイドとして通いで来てくれるようになっていた。
――エリは冬の間お産でしょうし、春になっても赤ちゃんに付きっ切りになるだろうから、住み込みのメイドを探してもいいかもしれない。
都市では裕福な平民でも住み込みの雑役メイドを雇っているくらいなので、領主の屋敷にメイドが通いで二人しかいないというのは、本来あり得ないことだ。
しかし、お茶くらいならマリーやエドが淹れてくれるし、掃除もメイドたちと共にラッドやクリフの手が空いた時に済ませてくれている。大きな家なら家政を取り仕切る人間が必要になるけれど、日常でこれ以上人手に困っているわけではない。
何しろ領主と騎士と使用人を全て入れても八人程度しか出入りのない屋敷なのだ。
これについては、問題が出始めたらおいおい考えていけばいいだろう。
当面の問題は、護衛騎士であるセドリックの部屋だった。
セドリックも宿舎に部屋を作るよう打診してみたけれど、これはきれいさっぱり断られた。
有事の際に別棟にいては異変に気付けないかもしれないと言われてしまえば、一度不覚を取った身では強く言いにくい。
かといって、貴族出身の彼をいつまでも元物置に住まわせているのも、気が咎める。
そういった事情もあいまって、増築部分とは別に、領主館の一階部分もある程度規模の大きい改築をすることになった。
現在の建物から突き出す形で個室をいくつか作ってもらったのと、もう一つ、厨房の近くに、とある施設を増設してもらうことにした。
その完成が昨日のことである。今日はその施設の一部を利用し、昼食を作ることになった。
仕込みは午前中に済ませておいて、設備の建設に関わった職人たちを昼食に招いたのだが、全員がその出来栄えを見たがって厨房に入っている。
「……少し手狭ですね」
領主館のキッチンはそれなりに広いけれど、メルフィーナとセドリックとマリー、元人足の三人組とエリ、大工の親方であるリカルド、その弟子のエディ、鍛冶師のロイとカールとなれば、さすがに過密状態だ。
すでに厨房には甘く優しいパンの焼ける匂いが満ちている。全員が興味津々の様子で、セドリックが熱を放つ鉄の扉が開くのを見守っていた。
「熱いので十分気を付けてくださいね」
「はい。――この鉄板はどこに置けば」
「テーブルの上にレンガを置いたので、そのまま下ろしてください」
石窯のオーブンから専用の金具をひっかけて天板を取り出してくれたセドリックは、指示通り、ゆっくりとテーブルの上に下ろす。
「……本当に白パンですね」
「切り分けてみましょう。みんなも味見して、感想を聞かせてちょうだい」
「領主様、俺にやらせてくれ。俺は熱いのは平気だからな」
大工の親方であるリカルドがナイフを取り上げ、指を添えてさくさくと切り分けていく。かなり温度が高いはずだが、本人が言う通り、熱さをものともしていない様子だった。
味見なので一口サイズに切り分けられたパンをマリーが手早く皿に載せる。そこからめいめいにひと切れずつ手に取った。
「あちち。うわ、美味しいですね!」
「僕は白パンを食べるのは初めてですけど、外はパリッとしていて、中はふわふわで、黒パンより断然美味しいです!」
「柔らかいですね。これは……すごく美味しいです」
元人足の三人組は口々に絶賛してくれる。貴族の食事に慣れているだろうマリーとセドリックを見ると、二人とも咀嚼しながら目を輝かせていた。
「これは、公爵邸で出るパンより美味しいかもしれません」
「ああ、焼き立てということもあるだろうが、実家の晩餐で出るパンよりかなり柔らかいな」
こちらもおおむね好評なようだ。
白パンは各料理人によって作り方が秘匿されているので、家によってパンの味や出来栄えが違うのは普通のことだ。二人に聞いてみると、王都のカーライル家は白い部分がより柔らかく、北部のオルドランド家のパンは密度がみっちりと詰まっているという。
これは、発酵させる室温によるものが大きいだろう。
「浴場を造ると言われた時も驚きましたが、まさか同じ設備でパンが焼けるとは、流石に驚きました」
そう、新しく領主邸に造ってもらった設備とは浴場、もっと詳しく言うなら、サウナ風呂である。
高温に耐える石窯をキッチンに造り、その隣にサウナ風呂を設えた。水の魔石を組み込んだ配管を通すことで、排熱によってお湯を作ることも容易だ。
問題は、毎日お風呂に入りたければパンを焼く必要があるということだろう。時間もパンを焼くタイミングに合わせる必要があるので、いつでも好きな時に入浴出来るわけではないけれど、それでも領主邸に風呂が出来たというのは、メルフィーナにとって大きな喜びだった。
この世界では、風呂は王宮か大貴族の屋敷にしかなく、お湯もいちいち複数のメイドが沸かしたものを浴槽に溜めてもらってそこに浸かる形だ。
長湯するなら、さらに追加で湯を持ってきてもらわなければならない。
そのように大変手間のかかるものなので、庶民だけでなく貴族ですら日常的に風呂に入る習慣は根付いていない。前世の歴史とは違って風呂に入るのは体に悪いという悪説が流布されているわけではないけれど、この日常は前世の記憶を持っているメルフィーナには中々辛いものだった。
――かといって、お風呂のためにマリーやエリにお湯を運んでもらうのも申し訳ないし、体を拭いて髪を洗うだけで我慢していたのよね。
それでも、冬はお風呂に入りたい。出来れば使用人たちにも温まってほしい。リカルドにサウナ風呂のシステムと必要性を理解してもらうのには中々手間がかかったけれど、早速夕べ使ってみたサウナに引き続き、オーブンも満足いく完成度だった。
こちらは鍛冶職人のロイとカールが随分頑張ってくれた力作だ。
元々領主邸には魔石のオーブンがあるけれど、風呂と石窯オーブンのシステムはさらにブラッシュアップして、いずれ村にも公衆浴場を造りたいとメルフィーナは考えていた。
村で使える熱源は多くないので、共同のパン焼き窯は是非とも併設したいところだ。
「全粒粉を使って作った丸い方と、小麦粉を使った細長い方、どちらが好みですか?」
「多少趣は違いますが、どちらも美味しいと思います。強いていうなら細長い方は水分が少ないのでスープと合わせて、丸い方は大きい分柔らかい部分が多いので、サラダや肉料理と相性が良さそうです」
「以前公爵家のパーティで、これに似たパンを薄切りにしたものにチーズやハムを載せたものが出たことがありました。ああいう食べ方も出来そうですね」
「だったら、その時安価な粉と分量で使うレシピを決めたら良さそうね。今年は難しいけれど、来年にはそれぞれの村にひとつずつくらい、共同の公衆浴場と窯を設置できるようにしましょう」
そうすれば、風呂に入った帰りにその日のパンを買って帰るというサイクルも完成しやすいだろうと目論んでいると、ラッドが心配そうに手を上げた。
「しかし、いいのでしょうか。共同炊事場にパンが焼ける窯を設置するのは、ギルドが黙っていないと思いますが」
「ギルドの参入を認めるかどうかは領主の権限よ。その方が税の徴収が簡単だという理由でギルドに独占特許状を出しているだけで、人が住む場所にギルドが必須というわけではないわ」
「では、メルフィーナ様はパンを焼くのに税を取るつもりはないと?」
セドリックの問いかけに、一度口をつぐむ。
「……パンもそうだけど、食べ物や飲み物は、他の税より軽いものにしたいと思っているの。庶民になってもこんな辺境で開拓を続けてくれているんだもの、最低限、食べるものだけは困らないようにしてあげたい気持ちはあるわ」
とはいえ、これは一歩間違えればいわゆるパンとサーカス現象に陥ることになってしまいかねない。
権力者が食料と娯楽を与え続ければ、領民は堕落するのは前世でも色々な実例と思考実験をもって証明されたことだった。
――前世でもナウル共和国の例があるし、労働とその意義を見失わせる真似は、為政者としてするべきではないわ。
豊かな資源の発見によって全国民に対して税の免除と公共事業の無償化に加え、ベーシックインカムと呼ばれる生活費の支給まで行った結果、国民から労働という概念が消失し、資源を採掘しきった後も働いて生活を営む時代に戻れなかった国が前世にはあった。
資源依存の体制が破綻して三十年を超えてなお、国民の失業率が九割を超え、国を維持するため様々な非合法な手口に手を染め、世界一豊かな楽園と言われていた国は、ほんの数十年で物乞い国家とまで呼ばれるようになってしまったという。
――豊かさと金満は違う。甘い砂糖も摂りすぎれば体を蝕む毒になってしまう。
その匙加減は、領主である自分の指先にかかっている。
「今は開拓村から少しマシになったくらいだけど、近在の領とあまり差をつけすぎるのも軋轢の理由になるしね。税については、冬が明ける前にある程度周囲と合わせたレベルで調整しようと思っています」
「なるほど。……おそらくその頃、ギルドが村に参入させるように言ってくると思います。エンカー地方が発展しはじめていることは、そろそろ耳の早い者には当たり前のことになっているので」
ロイの言葉にカールも頷きながら、浮かない表情だ。
ギルドの定めた遍歴制度で職人として立ち行かなくなりかけたことのある二人には、楽しい話題ではないのだろう。
「ギルドについては、参入を申し出てきたギルドと個別に話し合うことになるわね。互助組織はあるに越したことはないけれど、条件によっては一部参入を断るギルドも出てくると思うわ」
出来るだけ食べ物に困らないようにしたいと思っているメルフィーナの政策にとって、製粉ギルドやパン焼きギルドなどは入る隙がないだろう。
「それに、ギルドが入るにせよ入らないにせよ、職人を蔑ろにするつもりはないわよ。みんな一緒に頑張っている仲間だもの。大事にしたいし、していきたいじゃない」
「……メルフィーナ様らしいです」
「ええ、本当に」
小さな笑い声が起き、それはあっという間に大きくなった。
つられてメルフィーナも笑う。
「さ、お昼の配膳にとりかかりましょう。今日は鶏とかぼちゃのシチューと豆と野菜のキッシュ、それから焼き立てのパンと、領主邸特製のエールよ」
美味しいものを食べると、愉快な気持ちになるものだ。飢えさせないだけの食事を出しているけれど、ここ数か月トウモロコシ由来のものばかり食べてもらっていたので、久しぶりのパンにみんな高揚しているらしい。
食卓に着いた後もわいわいと言葉が弾む。まだやや若いエールを傾けながら、ふわりと香る麦の匂いについ唇が綻ぶ。
「本当はもっと白くてふわふわで美味しいパンも焼けるんだけど、この窯で焼くのは難しいのよね」
「これよりもっと……?」
「ふわふわに?」
「領主様、難しいというのは、もっと特別な窯がいるということですか?」
リカルドの問いに、頬に手を当てて、ううん、と傾ける。
「今日焼いたのはハードブレッドと言って、高温でも焦げにくいから石窯みたいに温度が高くなる窯で焼くのに向いているのだけれど、ふわふわのパンはもう少し低い温度を一定に保てないと、すぐに真っ黒に焦げてしまうのよ」
ハードブレッドの主な材料は小麦粉と塩、果物を漬けて天然酵母を起こした水の、おおむね三つだけだ。
ふくらみを足すために発芽させた大麦を乾燥させて砕いたモルトパウダーや、それを煮詰めて漉したモルトシロップを添加することもあるけれど、こちらはエールを造る時にも使うので、手に入れるのは容易な素材である。
そうして出来上がったパンは、前世ではフランスパンやカンパーニュと呼ばれるパンだ。
一方、前世でよく食べられていた食パンやテーブルロールのような皮まで柔らかいパンは、油脂や砂糖、ミルクなどを加えて作る。これらの材料はすべて高温に晒すと焦げ付きの原因になるので、ハードブレッドより50度ほど温度を落として焼かなければならない。
「ふむ、窯の内部の温度を下げて、それを一定に保つ、か」
「窯自体の保温性は高いので、まず窯の中の温度を上げて、十分に温まったら燃料を半分ほどにすれば何とかなりませんかね?」
「燃料を取り出す時に安全なやり方が必要になるな。いっそ燃料を出し入れするための箱を別に作るべきか?」
「「よりふわふわのパン」を作る時は、生地を丸めて天板で焼くのではなく、専門のケースに入れるのはどうでしょう。銅板で作れば熱の伝導率が高くなりますし、余熱で熱を通すのに向いているかもしれません」
「やってみる価値はあるな。丸いパンにこだわるなら、銅板で丸い型を作ってみるのもいいかもしれん」
職人たちが次々とアイディアを出していくのに、驚きながらメルフィーナもワクワクしてくる。
銅板の型に入れれば、それこそ食パンが出来上がるだろうし、丸い型は形を調整すればマドレーヌやフィナンシェ、ぶ厚いホットケーキにも転用できるだろう。
食パンが安定して作れるようになれば、現在流通しているパンでは難しいサンドイッチも出来るようになるし、窯の温度を比較的低温で安定させることに成功したら、バターがたっぷりのリッチなクロワッサンや、パイを作れるようになる。
「メルフィーナ様、何か美味しいもののことを考えていますね」
「ああ、私にも最近、分かるようになってきた」
「どんな美味しいものが出来るのか、楽しみですねえ」
「窯の改良は大急ぎでしないとな」
「――こほん」
メルフィーナがわざとらしく咳払いをすると、みんなふっと視線を逸らす。
自分ばかりが食いしん坊だと思われるのは心外だ。ここにいる全員がそうであるとメルフィーナは知っていた。
なにより、食事と言うのは沢山の仲間と食べればそれだけ美味しく感じるものなのである。
メルフィーナはお風呂に大変な手間がかかるので、入浴をずっと我慢していました。
領主館は元々小さな建物で、初見ではマリーとセドリックも公爵夫人がここに住むのは無理なのでは? と思うような建物でしたが、この度少し増築しました。
文章だけでは分かりにくいので、簡単な図でもと思ったのですが、描いている自分でもよくわからないものしかできずに断念しました。
領主邸の西側一階に新しくセドリックの部屋と空き部屋をひとつ、お風呂とサウナ、石窯が増えています。
そして南側一階に広間、その上に客室が四つと控室ひとつが新たに増築されました。こちらは元々あった領主邸から各階へ行き来できるようになっています。
領主が暮らす屋敷には客人をもてなしたり祝宴を開くための広間が必要なのですが、エンカー地方にあったのは視察の際に簡単に宿泊するための屋敷だったので広間が無く、貴族の暮らしに慣れているマリーとセドリックには違和感が強いものでした。
そのほか、地方の領主邸は庭園や果樹園、領主邸で消費する農園といったものも設えてあるのがほとんどなので、メルフィーナの領主邸もまだまだ発展の余地があります。