486.エンカー村の市場と散策
エンカー村には結局、メルフィーナとルドルフ、マリアとマリーと共に、騎士が三人兵士が四人と、思ったより大所帯で移動することになった。
馬車一台で四人は少々手狭ではあるもののルドルフは始終浮かれた様子で、雰囲気は悪くない。メルフィーナが貸した毛糸の手袋を時々眺めては、妙に満足そうに笑っている。
「マリー嬢は、義兄上の妹君だと伺っています。普段はずっとこちらで暮らしておられるとか」
「はい、メルフィーナ様が嫁いで来られてから傍に置いていただいています。それまで北部はあまり明るい雰囲気ではなかったのですが、メルフィーナ様が来て下さってからはまるで一年中太陽が降り注いでいるようですわ」
「分かります! ……いえ、失礼しました。我が実家は姉が嫁いでしまってから、全く逆でしてね。常に北風が吹いているかと錯覚するほどですよ」
「ルドルフ様も太陽のようなお方ですから」
「私など、姉上と比べれば太陽と小さな星のひとつのようなものです。本当に至らないことばかりで」
「あら、ふふ」
普段ならば冷静に最低限の返事で済ませるだろうマリーも、すっかり公爵令嬢モードに入っている。
「もう、二人ともやめてちょうだい。持ち上げても何も出ないわよ」
「本当のことです」
「いや、本当にマリー嬢はよく分かっておられる方だ」
ルドルフには昔からメルフィーナに対してよく分からない理想の姉像があるようだけれど、マリーと二人で盛り上がられては気恥ずかしい。それに、南に行くほど女性に対して親切で恋愛へのフットワークも軽い傾向があるけれど、北部での暮らしも三年目に入った今、子供だとばかり思っていたルドルフにもしっかりそういう一面があるのだとなんだか新鮮な気持ちにもなる。
思えばルドルフと関わるのは王都のタウンハウスばかりで、一緒に出かけたり二人そろった状態で誰かと会う機会などほとんどなかった。姉様、姉様と慕ってくれるルドルフの印象ばかりが強いけれど、案外家族以外にはこうした振る舞いをしていた可能性もある。
「ふふ、ルドルフ様は、本当にお姉さんが大好きなんだね」
マリアが嬉しそうに言うのに、ルドルフは照れくさそうに笑う。
「マリア嬢は公爵家の正式な客人ということですが、ご兄弟は?」
「弟がひとりいるよ。あ、言葉遣い、変だったらごめんね?」
「いえ、お気遣いなく。義兄上からマリア様は最厚遇の賓客であると伝えられています。私はそれなりに市井をうろつくこともあるので、砕けた喋り方にも慣れています」
「あら、そうなの?」
「領地は開放的な雰囲気ですので。父上も政務の合間に身分を偽って酒場に呑みにいくこともあるくらいですよ」
「……想像もつかないわ」
メルフィーナの記憶の父――クロフォード侯爵は、いつも不機嫌そうにむっつりと唇を引き締めて、鷹のような険しい目をした人物だ。親しく言葉を交わした記憶すらないし、ルドルフが王都に滞在している間もつかず離れずといった距離感だった。
貴族としての格式を重んじて軽薄なお喋りを好まず、同席する食卓はいつも気が滅入るほど静かだった。ルドルフが滞在する間は陽気に話しかけてくれるから、その間は随分気が楽だったものである。
あの父が、市井の酒場で出るエールを口にするなど想像も出来ない。けれどルドルフが嘘を吐く理由もないので、おそらくメルフィーナの知らない一面もあったのだろう。
貴族の男性が身分を偽って街に出る理由は、そう多くはない。成人して立場がある身とならばなおさらだ。
母が南部の領地に全く足を向けようとしない理由も、もしかしたらその辺りにあったのだろうか。
真実は確認しようがないけれど、そうなるとすでに市井に足を運ぶ習慣があるらしい弟のことも、少し心配になってしまう。
「ルドルフ、あなた、悪い遊びはしていないわね?」
「なんですか? 悪い遊びって」
「その、色々よ。あなたも成人しているとはいえ、まだ若いのだから、節度を以てエリアスの言葉にも耳を傾けて、身を慎むのよ? 十六になったということは、近々領内のどこかの街に封ぜられるのでしょう?」
ルドルフはいまいち、メルフィーナが何を言っているのか分かっていない様子ではあるものの、分かりましたと明るく返事をした。貴族としては言葉の裏を読むのが苦手なきらいはあるけれど、この素直で明るい部分は間違いなく彼の良い一面である。
夏と比べれば時間はかかるものの、しばらくして馬車がエンカー村の広場にたどり着く。ドアが開き、セドリックのエスコートで馬車を降りると冷たい空気に少し鼻が痛む。
日中のそう長い時間ではないとはいえエンカー村では冬の間も市が立っているものの、出稼ぎの人足や商人たちでにぎわう夏とはやはり活気が違う。屋外で食事をする者もいないのでテーブルや椅子代わりに使われていた樽や木箱も片付けられていて妙にがらんとした雰囲気だけれど、ルドルフには随分新鮮な光景のようだった。
店の軒に布の日よけが張られ、ウインナーや塩漬けの後で燻製された魚の半身などが吊るされている。屋台には大麦や小麦の詰まった麻袋が並べられ、籠には卵や豆が盛られていた。青物は冬に穫れる野菜で、種類は少ない。並んでいる壺や樽は油であったりバターであったり、エールと比べれば高価なので少量ではあるものの、ワインなども売られている。
「この村は随分美しい街並みをしているのですね。ここに来るまでに立ち寄った村や町とは、随分雰囲気が違うようですが」
「新しい建物が多いのよ。実際、この広場を中心にした通りはほとんどここ数年、計画的に造られた区画だもの」
エンカー村は開拓民の村であり、整った区画などはそもそも存在しなかったけれど、メルフィーナが領主になってからは色々と手を入れて管理しやすいように都市計画に則った発展を続けてきた。碁盤目のように整った区画もそのためだ。
現在はざっくり、城館があり行政を司る区画、元々エンカー地方で暮らしていた人々が暮らす区画、職人街と、大きな川沿いに参入して来た商人たちの集まっている四つの区画に分かれてひとつのエンカー村として成り立っている。
「メルフィーナ様! ようこそいらっしゃいました!」
ルドルフや複数の騎士、兵士に囲まれているので気後れしていたようだけれど、屋台の店番をしていた女性の一人が高く声を上げるとそこかしこから名前を呼ばれ始める。軽く手を振ればみな嬉しそうに笑っていた。
「こんにちは。商売の調子はどうかしら。何か困ったことはない?」
「おかげさまで、この冬も温かく過ごさせてもらっています。あのう、よろしければ冬りんごをお持ちになりませんか? 今年はやけに豊作で、味も良いのです。そのままでもいけますが、バターで焼くのが最近の流行なんですよ」
確かに、軒先にはいかにも美味しそうな真っ赤なりんごが並べられていて、何とも甘酸っぱい香りが漂っている。
前世のものと比べると二回りほども小さくて、齧ると酸味が強いけれど形はりんごそのもので、香りもほとんど同じだ。メルフィーナとしてはシードルか甘く煮てお菓子の材料にしたいところだけれど、市井では普通に生食されている。
「では、籠でいただくわ。ちょうどお客様が来ているので、おもてなしの料理に使わせてもらうわね」
「いえっ、お金なんて受け取れません! どうぞあるだけ持って行って下さい」
「駄目よ。こういうことはしっかりしないとね」
店番の女性の手を取って銀貨を置くと、照れくさそうに頬を赤らめて笑っている。
兵士たちに林檎を運んでもらうよう頼み、移動するあいだもあちこちから声がかけられる。野菜もどうぞ、良ければ城館まで運びます、珍しい豆が入っているのですがと呼ばれては立ち止まるので、中々前に進まない。
「ごめんなさいね、表にくると大抵こうなるって、久しぶりだから忘れていたわ」
「いえ、姉上が慕われていることはよく理解できました。行き交う者も皆顔色がよく、体格もしっかりしています。姉上の威光が隅々まで行き渡っている証ですね」
「ええ、誰もがメルフィーナ様を敬愛しています。夏は皆商売に忙しいですが、今の季節はゆっくりメルフィーナ様に感謝を伝えられますし」
マリーの言葉にルドルフはうんうんと頷いている。マリアは楽しそうに笑っていて、オーギュストとローランドまで、口元にうっすら笑みを浮かべていた。
いつもと変わらないのは、真面目で堅物のセドリックくらいのものだ。
「そういえば、この近くに領主直営のエール売り場があるのです。メルフィーナ様が手ずから指示をされて造られた特別製で、エンカー地方でしか飲めないものなのですが」
「姉上が……それは、是非賞味しなければなりませんね」
「ちょっとルドルフ。あなた、エールを呑むの?」
タウンハウスではシードルか水で割ったワイン、紅茶くらいしか飲んでいるイメージがなかったのに、さっそくと言わんばかりに歩き出したルドルフに慌てて声を掛ける。
「普段はあまり口にする機会はありませんが、姉上の直営店なのでしょう? それは、私が飲まないわけにはいかないでしょう」
「ええ、是非ご賞味いただかないわけにはいきません。それから、建設中の橋も見ていただきましょう。水門が閉ざされていなければ、水路をご覧いただけたのですが」
「マリー……?」
物静かなマリーと勢いのいいルドルフはまるで正反対の性格だというのに、妙にウマが合ったらしい。常にない様子に戸惑っていると、マリアがとん、と軽く肩をぶつけて来る。
「ルドルフ君もだけど、マリーさんもはしゃいでるね」
「はしゃいでる?」
マリーとはあまり縁がなさそうな言葉だけれど、言われてみれば、いつもよりやや足取りが軽く、表情も緩んでいる。北部に来てからずっと一緒だったのだ。マリーが今、上機嫌であるのはメルフィーナにも理解できる。
「同じ熱量の人と推しの話が出来るのが楽しいんじゃないかな。あるよね、そういうの」
マリアの例えはよく分からないし、明らかにそういう場合でもないとは思うけれど。
機嫌よく笑っているルドルフといつもより柔らかい表情のマリーを見ていると、どうにも毒気が抜ける気分だった。




