483.聖なる乙女と建国史
「あのう、質問していいですか?」
なんとなく、その場の空気がベロニカに呑まれる中、小さく挙手をして声を上げたのはマリアだった。
「乙女の建国の物語って、どういうものなのかなって思って。私、あんまりそういう話を聞いたことがないんで」
「文字通り建国にまつわる、子供に話して聞かせるようなお話なのだけれど……私は神殿で生まれたわけではないからかしら、その後もあまり関わる機会が少なくて、そう言ったお話に詳しくないのです。よろしければアントワーヌ夫人が聞かせてあげていただけませんか?」
「私がですか?」
「ええ、是非」
ベロニカはメルフィーナの依頼に少し困惑するような様子を見せたものの、マリアがじっと黒い瞳を向けていると、すぐにふっと微笑んだ。
その表情は幼子を見るようで、それまでの妖艶さとは趣の違う、柔和な雰囲気のものだ。
「そうですね……それでは、子供に聞かせる昔語りで恐縮ですが、お話しさせていただきます。フランチェスカ王国は去年建国二百五十年目を迎えましたが、初代の王妃様が天から遣わされた聖なる乙女であったというお話です」
フランチェスカ王国が建国する少し前の時代のこと。人々は今と変わらず畑を耕し麦を刈り、豚を放して暮らしていました。今ほど教会と神殿の権威が強くない時代であり、時折国と国、領地と領地の間で戦争や小競り合いが起きることも珍しくなく、盗賊や魔物も今よりずっと多い、そんな時代でした。
とある王国は、隣の国と戦争をしていました。たくさんの兵士が戦場に行き、兵士として男手を取られた農村の人たちは働き手を失い、家族の無事を祈って涙を流す日々を過ごしていました。
それなのに、王宮では王様や貴族たちが、毎日のように贅沢なパンを食べ、ワインを飲み、お肉を好きなだけ食べていました。
そんな国に、新たな苦難が訪れました。疫病が流行したのです。
疫病は人々を苦しめ、貴族と王族も苦しめました。
王様は、首を刎ねてきた貴族や平民たちが夜な夜な寝室に現れると言って、怯えました。
宰相は、お城のホールでいきなり大声を上げて倒れるまで踊り狂いました。
大臣は固まったまま動かなくなってしまいました。
子供が生まれてこなくなり、たくさんの家に後継ぎが得られなくなりました。
商人や平民たちにも混乱が広がり、魔物がたくさん出現しました。みんなが不安で、とても怖くって、そのうちあの家が井戸に毒を入れた、あの家が呪われていると人を非難するようになっていきました。
ベロニカの語りに、テーブルを囲んでいる全員が息を呑んで、聞き入っている。
その語り調子は、その時代に社会に蔓延していただろう不安や恐怖の空気を感じることが出来るほど、生々しいものだ。
まるで、その様子を自分の目で見ていたようですらある。
不安が不安を呼び、人の心は乱れ、そしてあちこちで農民による暴動が起きるようになっていきました。貴族たちは兵士たちに彼らを罰するように命令しました。大地は踏み荒らされ、血で汚れ、新たな疫病が発生し、世界は大きな混乱の中にありました。
ある日、そんな大地を嘆いた女神が、神の国から一人の聖なる乙女を遣わしました。
乙女は光とともに現れ、不思議な服を身に纏った特別な少女でした。乙女はたちどころに病を癒し、疫病を遠ざけ、人々の心に安寧をもたらしました。乙女は疫病の原因は麦に付くとても小さな魔物だと告げ、各地に赴き大地を祝福し、乙女が祝福した土地では二度と疫病が起きることはありませんでした。
乙女の清らかな心、慈愛の精神に、人々は武器を捨て、再び大地を耕しました。
王族や貴族たちは乙女の力を欲しがりました。乙女は素晴らしい力があるだけではなく、とても美しい黒髪と、黒い瞳を持った魅力的な少女でもあったからです。
たくさんの王族と貴族が、乙女に求婚しました。乙女はその中から、苦難の時も国に尽くし民のために力を注ぎ続けた若き宰相家の子息を選びました。
王族と他の貴族たちは、一部の乙女の理解者を除き、強く反発しました。宰相家の子息と乙女は王宮を出て宰相家の治める領地に移り住むことになりました。
乙女は彼と結ばれ、その土地で多くの人を救い、土地は豊かに実り、人々はいつも笑顔でした。
いつしかそこは宰相家――フランチェスカ家を中心として国が興り、宰相家の息子、ヴァレンティン・フォン・フランチェスカは初代国王に、乙女はマリア・フランチェスカ・モンティーニと名乗り、初代王妃となって、末永く国を幸福に治めていきました。
「これが、フランチェスカ王国の始まりのお話です」
その言葉で話を結ぶと、しばらく、誰も言葉を発さなかった。
「素晴らしいです、アントワーヌ夫人。すっかり聞き入ってしまいました」
ルドルフが感嘆したように言って、メルフィーナもはっと我に返る。
「お恥ずかしいですわ。色々と地方によって変化はあるようですが、これが王都周辺で語られている「清らかな聖なる乙女」のお話です」
「ありがとうございます。あの、すごく分かりやすかったです」
マリアがそう言うと、ベロニカは頬を僅かに染めて、嬉しそうに微笑んだ。
「お役に立てて光栄ですわ。またいつでも、分からないことがあれば聞いてください」
丁寧な言葉に裏は感じられない。ベロニカの言動のひとつひとつを邪推している方が、なんだか悪いことをしているような気分になるほどだ。
――私も、まるで呑まれかけているみたい。
これまで複数の攻略対象に出会ったけれど、こんなことは初めてだ。
アレクシスは初対面の印象は最悪だったし、セドリックはメルフィーナの意図した通りには動いてくれない堅物だった。セレーネは見ている方が辛くなるほど健気で痛ましく、ユリウスは何をしでかすか分からなくて怖いと感じていた。
彼らと比べると、ベロニカは穏やかで人当たりがよく、思わせぶりで意図が読めないところはあっても今のところ何かをしでかしたというわけでもない。
亡き夫を懐かしみ、思い出の土地を巡りにやってきた若く美しい未亡人という話を逸脱しない振る舞いをしている。
そして妖艶な雰囲気と理性的な話し口調がアンバランスで、それが強く気持ちを引き付けられる瞬間が確かにあった。
サロンを開き、社交界に出ていれば、必ず名前を広く知られる、そういう類の女性だろう。
「久しぶりに沢山お喋りをして、少し疲れてしまいました。公爵夫人、晩餐を終えたらお借りした部屋で、休ませていただいてもよろしいでしょうか」
「ええ、沢山喋らせてしまってごめんなさいね。デザートがあるのだけれど、甘いものはお好きかしら」
「よろしければ、明日頂いても構いませんか? ポタージュが美味しくて、今夜は食べ過ぎてしまいましたので」
お恥ずかしいですわ、とベロニカは静かに微笑んだ。
先ほどまでマリアに向けていた素朴な好意の滲んだものとは違う、自分の魅力をきちんと理解し、把握している。その様子が見て取れるような美しい微笑みだった。




