479.見えない思惑と失えないもの
ロイドが出て行き、ややして客人の案内を終えたマリーとセドリックが執務室を訪ねてくる。
マリアと二人そろってよほどひどい顔をしていたのだろう、マリーがお茶を淹れるというのに首を横に振り、ひとまずマリー、セドリック、オーギュストにソファーに座ってもらう。
「あとでユリウス様とも情報を共有するけれど、ひとまずこの四人で当面は対策をする必要があるわ」
そうして、ルドルフが伴ってきた女性が神殿のトップである大神官ベロニカであると告げると、ただごとではないと察していただろうオーギュストも案内をしてくれた二人も、息を呑んでいた。
「大神官といえば、滅多に神殿の外に出てこないことで有名な方ですよね。王宮の祭典などで遠目で見たことはありますし、マリア様が王宮に来られてからは何度か訪ねられていましたが、いつもベールを被られていて、素顔を見る機会はありませんでした」
「そうね、私も王都で育ったけれど、王族の結婚式や大祭典の特別な行事でもない限り、ほとんど表に出てこない方のはずよ」
とはいえ、メルフィーナは成人して早々に結婚が決まったため正式な行事に出た経験自体が少ない。宮廷伯の子息として王宮に出入りする機会の多かったセドリックも、素顔までは知らないらしい。
「マリアは、王都でベロニカの顔を見たことはある?」
その問いに、マリアは緊張した面持ちでううん、と首を振る。
「さっきから考えてたけど、分からない。こっちに来たばかりの頃はとにかく混乱していて、話しかけてきた人は沢山いたけど、どんな人がいたかは全然覚えてなくて」
それも仕方がないのだろう。突然全く違う場所に連れてこられてマリアの精神状態は最悪だったはずだ。
聞けば最初の頃、マリアは自分が怪しげな宗教団体に拉致されたのだと思っていたらしい。何しろ第一王子に絡まれても、それが攻略対象であるヴィルヘルムだと気が付かなかったほどだ。
それは、乙女ゲームの主人公として異世界に転移したのだと思うよりは、常識的な判断なのだろう。
「でもうっすらと、白いベールを被っていた人がいたのは覚えているよ。思えば、あれがベロニカだったのかな」
「その辺りはゲームと同じなのね……」
ベロニカはゲームでも始まりの時点ではベールを被って顔立ちが分からないキャラクターだった。チュートリアルを終えて王宮、神殿、教会の三つのルートを選ぶことになるが、その時神殿を選べば攻略出来るキャラクターの一人になり、そこで初めてベールを脱いだ姿を見ることが出来、神殿ルート以外ではベールをかぶったまま、マリアに便宜を図り助言を行うお助けキャラクターとして機能する。
聖職者の立場なので、ミニキャラでも特に違和感はなくメルフィーナもそういうものとしてプレイしていた。
「そもそも、あの人は本当にベロニカなのかな? 顔はそっくりだけど、ゲームとは随分雰囲気が違うし、ただ顔が似てる別の人ってこともあるかも」
あ、でもアントワーヌって名前のこともあるか、とぽつりと漏らす。
「そうね、マリアの心配が、当たっていたわ」
「でも、いくらなんでもベロニカが来るなんて思わないよ!」
マリアが自信なさげに言うのも、無理はない。メルフィーナとて何かしら神殿からのアプローチがあるのは覚悟していたけれど、まさか大神官本人が来るとは想像もしていなかった。
アレクシスは神殿に強い敵意を持っていることを隠さない。あれがベロニカであると告げてから、騎士の二人も感情を抑えてはいるものの、うっすらと怒りを滲ませている。
神殿の行いは今の時点では限りなく黒に近くとも疑惑の段階であり、確たる証拠はない。だからこそアレクシスは神殿に正式な闘争を仕掛けるのを自制し、実質的に北部の問題を解決することを優先している。
――アレクシスはお父様も、弟君もプルイーナ戦で亡くして、お母様の心も壊れてしまった。
そして、それにまつわる北部の問題で婚約者だった女性も早くに失ってしまった。
目の前に神殿の最高責任者がいれば、アレクシスでも感情を抑えることは難しいだろう。
アレクシスが統治者として苛烈な一面があることは、王都でも有名な話だ。プルイーナが出現しなかったことは遠征に随行していた神官たちからすでに伝わっているだろうに、もしあれが本当にベロニカだったとしたら、無防備を飛び越して半ば自殺行為に近い蛮行と言えるだろう。
「一体、どんな顔で閣下に目通りしたんでしょうね」
「オーギュスト……」
彼には珍しく、吐き捨てるように言ったオーギュストに、マリアが慮るように声を掛ける。きつく唇を噛んだ後、目もとを手のひらで隠し、天井を仰いで、オーギュストは間延びした息を吐いた。
「――申し訳ありません。少し、冷静ではないようです」
「無理もないわ。もし、冷静になりきれないようだったら、ベロニカの――アントワーヌ夫人の前には、極力出なくても構わないから」
「いえ、それではお二人を守れませんから。……大丈夫です、上手くやりますよ」
「私もです」
セドリックと共にマリーも頷いてくれるのに力づけられて、うん、とメルフィーナもそれに応える。
「偽名を使って来た以上、あなたは大神官ベロニカですかと聞いて答えてくれるとも思えないわ。それに、危険と分かっていてここまで来たからには何か目的があるはずよ。一番ありそうなのはマリアの身柄を取り戻すことだろうけれど……これは多分、今更よね」
エンカー地方は何かと人の口に上りやすい状況であるし、マリアは安全のために多少立場を偽ってはいるものの、偽名を使ったり黒髪を隠したりしているわけでもない。
マリアがエンカー地方に滞在して十カ月近くが過ぎようとしている。最初の数か月はともかく、マリアがどこにいるかくらい、王宮も神殿も教会も、とっくに把握しているだろう。
それでなんの接触もないのは、彼女がこの世界にきた当初の取り決め――聖女のすることを誰も制限してはならないというものに由来しているはずだ。王宮なり神殿なり教会なり、どこかに連れて行きたいならば、騎士団という武力を引き連れて正式な使者を寄越せばいいだけである。
「じゃあ、プルイーナの魔石かな。今ここにあるけど」
マリアが腰に提げたポーチ型のポケットに手を添える。それが最もありそうな線ではあるけれど、それではメルフィーナ達が抱いている疑惑を正面から認めるようなものであるし、やはりベロニカ自身が直接出向いてくる必要もない。
何もかも、今の時点では分からないことばかりだ。
「さっき、ロイドに公爵家へ使いに出てもらったわ。アレクシスが来るまでは出来るだけこちらから刺激するようなことはしたくないし、皆もあくまで、貴族の夫人を歓待するという形で接してほしいの」
ベロニカが何か事を起こそうとしているならば、先手を取られたこちらが不利だ。ここからは、どう動くにしても慎重にならなければいけない。
「しばらくコーネリアはメルト村に匿ってもらって、ユリウス様には領主邸へ滞在してもらえるように頼んでみましょう。マリー、領主邸周辺に、いつもより見回りの兵士を多く配置してちょうだい」
「かしこまりました」
「マリアは決して一人にならないように気を付けて。邸内はオーギュストが一緒にいるでしょうけど、もし外に出る時は、兵士をあと二人は伴ってね」
「わかった。ベロニカがゲーム通りなら、私には激甘なはずだけど、なんか雰囲気が違ってたし、下手なことはしないようにするよ」
「神殿のトップだから、聖女マリアは崇拝の対象のはずよ。少なくとも、マリアに下手なことはしないとは思うし、プルイーナの魔石も引き続きマリアが持っているのが一番安全だと思うわ」
「任せて。お風呂の時も寝る時も、絶対離さないから」
「メルフィーナ様。どうか、メルフィーナ様ご自身も十分に気を付けてください」
硬く、感情を押し殺すような声でセドリックが告げる。
「私は書物……ゲームでしたか、そちらの内容は詳しく知りませんが、その流れを大きく変化させたのは、他でもないメルフィーナ様ではないでしょうか」
「そうね。きっとそうだわ」
メルフィーナが王都に行かなかったから、王都でマリアを追い詰め、彼女が心理的に攻略対象に依存する流れにならなかった。
エンカー地方を発展させなければ、飢餓が蔓延しただろう北部にセレーネが来ることもなく、ユリウスもエンカー地方にやってくる理由がなかった。
メルフィーナ自身が望んだ変化ではなかったものの、様々な要因がメルフィーナの行動の変化に伴って起きたことだ。
「神殿は、そのゲームの流れを維持しようとしているような気がします。今更元に戻るとは思えませんが、その場合、神殿にとって最も排除したい存在は……」
「きっと私ね」
けれどそれは、本当に、今更だ。
設定を守りたければ、エンカー地方に来たばかりの頃にでもクロフォード家に働きかけて何か口実を付けて王都に赴かざるを得ないように仕向けておけばよかったものを。
メルフィーナはアレクシスと結ばれて、マリアも心を向ける相手を見つけた。
今更、どう足掻いてもこの世界はハートの国のマリアのルートになることはないだろう。
「メルフィーナ様に何かあったら、閣下はもう、誰にも止めることは出来ない生きた魔物と呼ばれるようになるでしょう。その時は俺も、閣下に加担しますよ」
オーギュストがようやく、いつもの調子が戻ったように言う。その隣で弾かれたようにマリアも顔を上げた。
「わ、私も! そんなことになったらアレクシスに加担するから! 聖女の立場なんてどうでもいいよ。闇堕ち聖女になる自信ある!」
「マリア……」
「だから、メルフィーナも十分に気を付けて。出来るだけ私と一緒にいよう。それなら神殿は、危ないことは出来ないはずだよ」
頷いて、笑おうとして、失敗して、うつむく。
「メルフィーナ?」
「そうね、急なことで随分不安になってしまったけれど、私にも守るものが沢山あるわ。強くならなければいけないわね」
家族からも結婚相手からも顧みられず、満たされることなく欲しがってばかりだった悪役令嬢は、もうどこにもいない。
家族も、友人も、領地も、一つだって失うことはできない。
「何一つ奪われるわけにはいかないわ。全部私のものよ」
改めてそう言葉にすれば、心の置き所は決まった気がした。




