477.再会と思わぬ来訪者
冬は停滞と沈黙の季節であり、春を待ち、太陽の出ない日々を雪の下の木の芽のようにじっと待つ季節でもある。
人の出入りが減って物流は滞り、出歩くのも億劫になるので、人々は最低限の農業の他は家に籠って手工業に時間を使う。そうした日々はもどかしいほどゆっくりと過ぎていき、ある日、太陽が雲の切れ目から差し込んだことに気づいて冬が明けたと喜びと共に知る。
それが北部の冬なので、来客というのはとりわけ特別なイベントだ。それが三年ぶりに会う家族となればなおのことであるし、メルフィーナがそわそわしているのが伝わるのだろう、領主邸の使用人たちもこの数日は特に念入りに掃除を行い、その日は朝からいい匂いが邸内に広がっていた。
牛肉を柔らかくなるまでじっくりと煮込み、同じく丁寧に取ったブイヨンと赤ワインで仕上げたシチューにチーズとホワイトソース、冬野菜をたっぷりと使ったグラタン、ミンチした豚肉とみじん切りにした野菜を香り高く調味した種をたっぷり入れたパイと、若い青年が好きそうなメニューというオーダーにエドは楽しそうに応えてくれた。
冬のさなかに塩で漬けた以外の新鮮な肉を食べるのは、大変な贅沢である。もてなしの気持ちは十分に伝わるだろう。
「あの子、昔からお肉料理が好きだったのだけれど、甘いお菓子は好きかしら」
「メルフィーナ様の作ったものなら、きっと何でも大好きですよ。僕だったら絶対そうです」
「ふふ、エドは優しいわね」
メレンゲを泡立てながら漏らした呟きに、隣でカスタードを作っているエドが明るく言う。メレンゲは口当たりが軽やかなメレンゲクッキーに、カスタードは手でつまんでひと口で食べられるプチシューになる予定だ。
ルドルフの記憶は三年前で止まっているけれど、その印象を一言でいうなら男の子らしい男の子だった。
棒を拾っては振り回し、枝ぶりのいい木があればとりあえず登ってみる。蛇を見つけては振り回し、とんぼを捕まえて母親の裁縫箱から刺繍糸を持ち出し足にくくりつけ飛ばして遊ぶようなこともやっていた。
お肉が好きで野菜は嫌い、我儘な一面もあるが愛嬌がある性格で憎めない。勉強面では得意と不得意がきれいに分かれていて、座学より乗馬や剣術のほうが得意だった。
前世の弟と比べてもヤンチャという表現がよく似合う。愛されて許されてのびのびと成長した少年。それがルドルフ・フォン・クロフォードだ。
「さすがに以前のようにグラッセを避けるようなことはしないと思うけれど、最初のうちは濃い目の味付けで美味しく食べられるようにしておきましょう」
「滞在中に野菜の美味しさに目覚めて頂けるといいですよね」
「農業体験したら苦手な野菜も食べられるようになったという話も聞くし、菜園の人参でも抜いてもらおうかしら」
そもそも貴族は、階級自体が野菜を避ける傾向があるので野菜料理自体を嫌うのはそう咎められることではないけれど、菜食を取り入れるのは健康にも精神面にもいいことだ。エンカー地方ではメルフィーナが喜んで野菜を食べるので、領主邸や政治と治安を司る庁舎、兵舎も野菜料理がよく振る舞われるようになっている。
今回の滞在が終われば、ルドルフとは数年、下手をすれば十数年単位で会えない日々が続くだろう。
この世界で遠方に嫁ぐというのは、そういうことだ。同じ国の中とはいえ、南部と北部は距離があり、よほど特別な機会でもない限り軽々と越えられる距離ではない。
それを思えば、成人したてでまだ爵位を継いでおらず、どこかの領地に封じられる前のこのタイミングは、唐突ではあっても良い時期だったのかもしれない。
量も品数もたっぷりと完成し、正午の鐘が響き渡って少し過ぎたころ、公爵家から派遣された早馬が領主邸に到着する。あと一時間ほどで馬車が着くという知らせにいつもより少しいいドレスに着替え、化粧をして、大げさではない程度の宝石も身につけた。
マリーも今日はお仕着せではなくドレスを身につけて、マリアには普段のパンツスタイルの服ではなく、メルフィーナのドレスに着替えてもらう。
「黒髪に似合うアクセサリーも用意したほうがいいわね。と言っても、この世界には黒髪の人ってすごく珍しいんだけど」
マリアの髪に櫛を入れ、一部を結って残りは垂らす少し前までメルフィーナがよくやっていたヘアアレンジをしていると、マリアは首を仰がせて、後ろに立っているメルフィーナに顔を向けた。
「ほんとに私も同席していいの?」
「勿論、マリーもマリアも、私の大事な妹だもの。ルドルフに真っ先に紹介しなくちゃ。同行者もいるから晩餐は別になるけど、様子を見て少しずついつものスタイルにしていくわ」
「うー、仲良くなれるかな」
「大丈夫よ、マリアを嫌える人なんていないわ」
素直でまっすぐなマリアは、ルドルフとも気が合うのではないだろう。マリアは照れくさそうに、そうだといいけどと言って大人しくなった。
領主邸では身分の垣根は低く、朝食や夕食も初期からの使用人たちと食堂で食べているし、アレクシスもその習慣に倣っている。
外部から来たばかりのルドルフやその同行者にいきなりそれに合わせろとは言えないけれど、少しずつエンカー地方のやり方に慣れてもらえばいいだろう。
コーネリアはナターリエについていてもらい、それ以外のメンバーが揃って出迎える。
メイドたちも今日は一際、エプロンのゆがみやスカートの皺などを丁寧に直して緊張した面持ちをしている。
城門が開き、公爵家の紋の入った立派な馬車が入って来る。前庭で止まり、馬から降りた騎士がドアを開けると、背の高い赤毛の男性が降りてきて、手を差し伸べ、ふわりとしたスカートを履いた女性をエスコートする。そのドレスは花嫁衣裳と見間違えるほど白く、同色の帽子を被っていて顔立ちは分からないけれど、その所作は非常に洗練され、高貴な身分であることが一目で分かるものだった。
二人が馬車から降りると、男性は勢いよくこちらを振り向いた。
「っ、姉様!」
そうして駆け寄ってきた青年に、ああ、弟だと最後に見た姿から、随分背が伸びたし、声も低くなった。何も知らずに街ですれ違ったら、弟だと気が付かないかもしれないほどだ。
反面、子供の頃に半年ぶりに領地から戻りメルフィーナを見た時、姉様と呼んで駆け寄って来る姿と、何も変わっていない気もする。
流石にあの頃のように勢いよく抱き着いてくることはせず、寸でのところで止まり、感極まったように赤い瞳に涙を滲ませながら、くしゃくしゃの笑顔になった。
燃えるような赤い髪と同色の瞳。南部の支配者、クロフォード家の特徴を色濃く継いだ弟に、メルフィーナも目頭を熱くしながら微笑む。
「ああ、ルドルフ……大きくなって。立派になったわね」
「姉様、いえ、姉上も、ますますお美しくなりました。……ずっと、お会いしたかったです」
「ふふ、前に別れた時に言われていた通りになったわね」
「っ、はい」
最後に共に過ごした冬はまだメルフィーナの方が背が高く、次に会う時は姉上を抜いていますよと笑って、南部に向かう馬車に乗り込んだ後も見えなくなるまでいつまでも手を振っていた弟を、まるで昨日のことのように思い出すことができる。
すらりと背が伸びて、肩幅もがっしりとしてきて、もう立派な若い紳士だ。子供の頃の印象が強すぎて心配ばかりが先に立っていたけれど、この季節に王都から北部までやってくるだけの力もつけたのだろう。
「姉上、本当に会えてよかった。姉上が北部に嫁いだと聞いた日から、一日だって姉上を思わない日はありませんでした」
「会えなかった間の話を、たくさんしましょう。聞きたい話も、聞いてほしいことも、たくさんあるわ」
「はい、是非」
「その前に、お連れの方を紹介してもらえる?」
互いに涙を拭って笑い合ったところで、それまで気配を殺していた白いドレスの女性が、そっと歩み寄ってくる。
背はメルフィーナと同じくらいだろうか。レースを垂らした帽子で目もとが隠れているけれど、笑みの形になっている唇は紅が塗られていて、妖艶な雰囲気が伝わって来る。ルドルフは姉に駆け出した子供っぽさに気づいたらしく、しゃんと背を伸ばした。
「こちらはアントワーヌ夫人です。王領と北部の境の街で出会ったのですが、行き先が同じエンカー地方だと言うので、同道することになりました」
この季節ですので、紳士として見過ごすわけにはいかず、と続けられ、驚く。
てっきりどこかの貴族がクロフォード家の息子が暴走するのを止めるためにつけた、お目付け役のようなものだろうと思っていたのに、道すがらで知り合った相手だとは思わなかった。
女性は丁寧に淑女の礼を執り、それから白い手袋で包まれた手で、帽子を外す。
妙齢の美しい女性だった。
編み上げた黒に近い濃い紺色の髪に、輝く黄金の瞳。目を細めて笑うと、屈託のなさより圧倒されるような色気のほうが先に立つ。
背後で息を呑む音を漏らしたのは、おそらくマリアだろう。
メルフィーナもすぐには、声が出なかった。
彼女には、確かに見覚えがあった。
だがメルフィーナの知っている「彼女」は、髪を下ろし、いつも優し気に微笑んでいる姿だ。
この世界では結い上げた髪は既婚女性か、正式な場に出る時の女性の髪形で、未婚女性は髪を下ろすか三つ編みにして垂らしていることが多い。
下ろした髪は未婚、つまり処女を表すもので、神殿の関係者は基本的に髪を結い上げることはないからだ。
「お初にお目にかかります、公爵夫人。アナスタシア・フォン・アントワーヌと申します。道行きで往生していたところを、弟君に助けていただき、ここまでまかり越すことが出来ました」
ハートの国のマリアにおける攻略対象の一人であり、神殿の最高責任者。
大神官ベロニカは、石を呑んだように固まったままのメルフィーナに、優雅に微笑んだ。




