467.社交の練習と来訪の手紙
「通常、職人にはあまり大仰な礼儀作法は求められないけれど、芸術系の職人だけは違うのよね。神話や教養から、時には政治の話題を振られることもあるの。これはどうしてか分かる?」
いつもより優雅な手つきでティーカップを摘むと、シャルロッテも同じようにカップを手にして、しずしずと口をつける。
「画家や彫刻家は、モチーフの意味を正確に把握する必要があるからです。画家が無知で砂が落ち切った砂時計や、テーブルの一部が露出したクロスの描きこみは「命運が尽きた」や「後ろ暗さ」を暗示すると言われて、良い印象を与えません」
その言葉にゆっくりと頷く。父親もまた彫刻家であり、長く父親の手伝いをしていたというシャルロッテだけあって、この辺りの感覚はしっかりしているようだ。
「そうね。特にどこかで政変が起きている時や、不作が問題になっている時は細心の注意を払う必要があるわ。職人にその意図がなくとも、政権の批判や領主の無能をあげつらっているように受け取られることもあるから」
「そういう悪い意味? のものを使わないようにするのは駄目なの?」
悪く取られる可能性があるなら最初から描きこまなければいい。マリアの問いかけは素朴で率直なものだ。
「あえてそうしたものを描くことで、絵画の世界観に深みを出して、見る人の想像力を掻き立てさせるという手法もあるの。特に貴婦人の肖像画には、そうした暗喩が多く含まれているわ。分かりやすい陰りのない笑顔よりはどこか憂いに満ちたまなざしや無表情、華やかな宝飾品の端にしおれた花を添えることで、栄華や贅沢の裏にその貴婦人の悩みや戸惑いを表現したりね」
「分かるような、分からないような」
「小豆を煮る時に砂糖だけではなく、ひとつまみの塩を入れると甘さがより引き立つでしょう? そういうものよ」
「ああ、なるほど」
マリーもセドリックもオーギュストも、シャルロッテまでそれでいいのだろうかという表情を浮かべたものの、すぐにそれを隠してしまうのが彼ららしい。マリアは納得したようだし、実際、似たようなものだ。
「特に男性同士では、貴族と芸術家で政治の話をするのが好きですね。閣下がああ、とかそうだな、しか言わないので、相手は困ることが多いようですが」
「彼らしいとは思うけれど、それでいいのかしら」
「そういう状況では、大抵お喋りが好きで世話好きな、場の雰囲気を和ませる別の貴族が傍にいるので、適材適所ですね」
その光景が目に浮かぶようで、くすくすと笑う。どこにいてもアレクシスはアレクシスということだろう。
「女性の職人に関しては、前例がないのでどうなるかは分かりません。若い新進気鋭の職人は大目に見られることも多いですし、むしろ粗削りなところを寛容に受け入れ支援するのが富豪としての度量と見做される一面もありますが――」
オーギュストの言わんとすることは分かる。
好みの差はあれど、シャルロッテは、十人が見れば全員が認めざるを得ない美貌の持ち主である。若く「美しい」シャルロッテに、男性の若手職人にするのと同じ振る舞いをするのは、下心があるのではないかと邪推される、もしくはその可能性を懸念する動きも、無いとは言えないだろう。
だが、ならば女性同士の社交をメインにするかというと、それはそれで難しい。
同年代の貴族の女性より教養があると示せば反感を買い、愚鈍に振る舞えば職人として侮られる。
シャルロッテを自分の婚約者や夫に紹介したいと思う女性は、そうはいないだろう。
改めて、彼女は本当に難しい立場だ。
「当面は商人か、年配の貴婦人を招いたサロンで紹介するのがよいと思います」
マリーの言葉に、メルフィーナも頷く。
商人の中にも愚か者がいないとは言い切れないけれど、彼らは利に敏く、権力の恐ろしさをよく理解している。メルフィーナが後援する職人に滅多なことを口にしたりはしないだろう。
また、年配の貴婦人は保守的で頭が固い一面もあるけれど、社交界での発言力が強く、一度懐に入れた者を身内として庇護する傾向がある。社交界を牽引する夫人のお気に入り、という名目だけで、その令嬢も一目置かれるほどだ。
シャルロッテの才能は本物だ。いつかメルフィーナの庇護から羽ばたいていく時もあるかもしれない。
メルフィーナは領主なので、基本的にはエンカー地方から外に出ることは滅多にない。将来、シャルロッテがメルフィーナ以外から受注するようになったとき、そうした貴婦人たちの庇護があれば北部のサロンでも安定して活動していくことが出来るだろう。
「だったら当面、仕立てるドレスは少し古風で装飾も抑えたものがいいわね。宝石の代わりに刺繍とレースをたっぷりと使って、華やかさは損なわないような意匠にしましょうか」
「色合いも、落ち着いたものがいいでしょう。いえ、逆に純白のドレスにして清楚さを出すのも、良いかもしれません」
「髪は細かく結って一部を垂らしたらどうかな。シャルロッテの髪は色が鮮やかだから、見せびらかさなきゃ勿体ないよ」
「私は、またメルフィーナ様の素晴らしいドレス姿が見たいです」
こうした話になると、もう男性陣は会話に加わる空気ではなく、きゃっきゃっと女性陣がはしゃぐ声を上げるのに、空気のように気配を消して、お茶を傾けている。
その容姿で苦労をすることが多いシャルロッテだが、何しろ元がいいので着飾らせる方も楽しいものだ。肌が白いので真珠も似合うだろうし、艶のある赤銅色の髪に合わせてルビーをあしらったイヤリングも映えるだろう。
しばらくそんな話に花を咲かせていると、団欒室の扉がノックされた。素早く立ち上がったオーギュストがドアを開けると、アンナが丁寧に礼を執る。
「メルフィーナ様、お手紙が届いています。至急ということでしたので、お持ちしました」
「あら、こんな季節に珍しいわね。騎士団からではないのね?」
「はい、神殿の方が配達にきました」
エンカー地方でもっとも手紙の配達が多いのは、商人を経由してのもので、次が教会によるものだ。
それぞれに特徴があるけれど、そこそこ安価でそこそこ早く、だからこそ迅速な連絡や重要な案件にはあまり選ばれない神殿経由での手紙は珍しい。
「確かに受け取ったわ、ありがとう」
「ご歓談中、失礼いたしました」
優雅に退室の礼をして、扉が閉じる。オーギュストが銀盆ごと持ってきてくれた手紙は、羊皮紙を畳んで封蝋が押された、こちらの世界ではごくオーソドックスなものだ。
サインなどはないけれど、封蝋に押された紋章がそのまま署名になる。それを確認して、メルフィーナははっと息を呑んだ。
実り多い南部の麦の大地に大領地を封じる盾のモチーフ、鎖に縛られた燃え上がる炎を従えた羽ばたく鳥をあしらった紋章は、クロフォード侯爵家……メルフィーナの実家のものだ。
盾の中に富の象徴である蜂がひとつあしらわれているのは嫡男が使用する紋章――当代では、メルフィーナの弟、ルドルフ・フォン・クロフォードのものである。
「ああ……」
気持ちが高まって、思わずその手紙を胸に抱く。つん、と鼻の奥が痛くなって、息を呑んで涙をこらえた。
「メルフィーナ様?」
「……ルドルフから、弟からの手紙よ」
エンカー地方に来て生活が落ち着いてから、時々ルドルフに手紙を書くことはあった。実家に検閲されている可能性もあるので、内容は元気にしている、こちらの生活にも慣れてきた、北部の冬はとても寒い、春が来て、花が咲き始めたといった、あたりさわりもなく、とりとめもないことばかりだ。
けれど、返事が戻ってきたことは、今の今まで、一度も無かった。
「よかったですね、メルフィーナ様」
「すぐ読んだら? あ、一人で読みたいなら、私たちは席を外そうか?」
「いえ、大丈夫よ。あの子、そんなに大したことは書いていないと思うから」
マリーとマリアに言われて、軽く首を横に振る。
活発で思い切りがよく、その分詩歌管弦には疎い弟だ。元気でやっているとか忙しくて返事が出来なかったというような、他愛ない内容だろう。
封蝋を外すと、一枚の羊皮紙を折りたたんだ手紙には思ったよりもびっしりと文字が書かれていた。意外な気持ちでそれを読み進めて行き、じわじわと、表情から余裕がなくなっていく。
「……どしたの、メルフィーナ。弟君、何だって?」
「ええと、要約すると、私を心配していて……ここまで来ると書いてあるわ」
「じゃあ久しぶりに会えるんだね。よかったね」
マリアは無邪気に言うけれど、書かれた手紙に滲む怒り、悲しみ、苛立ち、不安といった感情に動揺して、上手く返事が出来ない。
冬の移動は命懸けだ。北部ならなおのことで、それを強行しようとしている弟の、記憶にあるまだ幼い屈託のなさで姉様、お姉様と無邪気に慕ってくれる面影に、たらりと汗が落ちた。




