462.散策と聖魔石のペンダント
階段を下り扉から中庭に出る。
今日も今日とて北部の空は厚い雲に覆われているけれど、ナターリエは空を見上げ、眩しそうに眼を細めていた。
「雪かきはしてあるけれど、体が冷えないように今日は少しだけにしましょう」
エンカー地方に来た当初に比べれば随分顔色も良くなり、幾分肉付きも良くなったけれど、寝付いていた時間が長かったので筋力も落ちているだろう。そう声を掛けると、ナターリエは儚げに微笑んで、頷いた。
その首からは、新しく作った聖魔石入りの小さなペンダントがぶら下がっている。
こちらの世界では、アクセサリーは分かりやすく富や権力を示すものなので、自然と石は大振りか、小さな宝石を使う時はいくつも並べて豪奢に仕上げるのが一般的だけれど、首が細くすらりとしているナターリエには飾り気のない小さなペンダントがよく似合っていた。
「ナターリエ様、寒くないですか?」
「ええ、大丈夫です。ありがとうございます、アンナ」
「お疲れになったらお茶を持ってきますから、すぐに言ってくださいね」
率先してナターリエに付き添っていたこともあり、アンナとナターリエはすっかり気心が知れているようだった。気遣うアンナを、ナターリエも慣れたように受け入れている様子は、騎士の妻とメイドという身分差はあっても、まるで仲のいい姉妹のようだ。
領主邸にはあちこちにベンチが設置されているので休憩する場所には困らない。少し歩いて、疲れが出るようなら休み休み散策を楽しんでもいいだろう。
「向かって左側の建物が、行政を行っている庁舎になるわ。右側が私の暮らしている領主邸の本館で、向こうの出口から出て左側に進むと使用人用の宿舎と兵士たちの訓練場や厩舎、エールの醸造所やガラス工房があるわ。そちらも追々案内するわね」
「ありがとうございます、メルフィーナ様。――領主邸から卸されるエールは、本当に美味しいのだと、いつか私にも飲ませてやりたいと、以前夫が言っていました」
遠慮がちにそう告げるナターリエに、笑いかける。
「子供が生まれて授乳が落ち着いたら、たくさん飲んでちょうだい。うちの職人たちは腕がいいから、きっとあなたも気に入るわ」
「ありがとうございます。こちらは、お茶も本当に美味しくて。でもそれは、アンナが淹れてくれるからかしら」
アンナが面映そうに笑うのに、ナターリエも口元をほころばせている。
女性ばかりで行動するというのは、メルフィーナの日常には中々珍しいことだ。話題も自然と華やいだものが多く、これはこれで楽しい気分になってくる。
「もっと暖かくなったら、女性ばかりで小さなお茶会を開いてもいいわね。メイドたちも呼んで、お茶とお菓子を用意して、最近村で流行っているものや、面白かった話をするのもいいわ」
「それ、楽しそうです! 私も、何かお菓子を作ってもいいですか?」
「勿論構わないけれど、アンナはお菓子を作れるの?」
「最近エドに教えてもらっていて、簡単な焼き菓子ならなんとか……メイドたちの賄いに出してる程度ですけど」
「私にも今度、食べさせてくれる?」
「はい、勿論です」
マリーはメルフィーナに寄り添うように、静かに傍に控えてくれている。ナターリエと体調の話をすることと、城館内ということもあり、セドリックとオーギュストは少し離れた場所から見守ってくれていた。
「本当に……またこんな風に、自分の足で外を歩けるなんて、思っていませんでした」
ナターリエが空を見上げると、おそらくウルスラだろう、小さな鷹が円を描くように領主邸の上空を飛んでいる。
メルフィーナの手によるナターリエの浄化を行わなくなってから、十日ほどが過ぎた。その間も体調が悪い方に傾くことはないまま回復傾向が続き、今日はようやく、少し城館の外を歩いてみようというところまできた。
その様子からだけでも、彼女が首から掛けている聖魔石は正しく機能していることが伝わってくる。
元々はメルフィーナが作った聖魔石のペンダントを身に付けてもらい、それも一定の効果があったけれど、やはりマリアが作ったそれの効果は歴然としているようだ。
「これからどんどん元気になっていくわ。無事に赤ちゃんが生まれたら、皆でお祝いしましょうね」
「はい」
体調が安定してきて、精神的にもようやく落ち着いたのだろう、いつも不安の影に怯えるような様子だったナターリエも、最近ようやく穏やかな表情を見せるようになった。
「ありがとうございます、メルフィーナ様」
そう言って微笑む穏やかな表情は、アンナが懐くだけあって、人をほっとさせるような温かみがある。
春になるとこの地方で咲く花、エンカー地方で採れる作物、領主邸の習慣、豊かな水源とメルフィーナが好きな場所を雑談交じりに話しながら、その日の昼下がりはゆったりと過ぎていった。
* * *
メルフィーナが執務室の応接テーブルの上に置かれた箱の蓋を開くと、そこには小ぶりなペンダントトップが並んでいた。そのうちのひとつを摘んで、角度を変えて眺めてみる。
本体は腐食しにくい金で作られているので、見た目より重量はあるものの、中空にした中に魔石が入っているだけなので首に掛けていても負担はない程度だろう。
魔石を使った道具と同じように、魔石が直接触れたり見えたりしないように石を内側に入れて、表向きは装飾のないつるりとした金属製のペンダントになっている。
「シンプルで、いい出来だわ」
本来、貴金属は宝飾品専門の職人にギルドを通して発注しなければならないものだが、内密の製作ということで、エンカー地方の馴染みのある鍛冶職人に依頼して、先ほど届けられた。出来るだけ特徴のない小ぶりで地味な形に、という発注を、ロイとカールはきちんと汲み取って仕上げてくれた。
並べられたペンダントトップは二十個。現在魔力中毒になる可能性のある妊娠中の女性がいる家門のうち、希望する者に限定して、用が済めばそのまま返却することを条件に貸し出されることになっている。
全ての行き先が決まっているわけではなく、いくつかは公爵家に予備として置かれる予定だ。
「できれば、目に届かない場所での聖魔石の実験は、せめてナターリエの子供が生まれるのを待ちたかったわね」
「今こうしている間にも苦しんでいる方もいますし、俺はメルフィーナ様の英断は正しいと思いますよ」
健康や命に関わることだ。慎重に慎重を重ねても足りないというのがメルフィーナの感覚ではあるけれど、こちらの世界の基準だと慎重すぎると捉えられることも少なくない。
特に北部の問題は、北部で暮らす者にとっては誰でも他人事とは言い難いものなので、解決の可能性があるならどんなものでも試してみたいと思うのが人情なのだろう。
「マリア様の力が悪い方に働いたことは、これまで一度もありませんしね」
「臨床の資料の数は多いに越したことはありませんよ、レディ。どのみち希望者に限定したものですし、何が起きてもこの場にいる全員の責任ですから」
「……そうですね」
プルイーナの魔石がひとつしかなく、それを設置する町の整備も一朝一夕というわけにはいかない以上、今は対症療法としてこのペンダントが最も有効な手段であることはメルフィーナも理解している。
この場にいるアレクシス、マリー、セドリック、マリア、オーギュスト、コーネリアとユリウスも、今の時点で踏み切ることに賛成したのだ。発案者である自分がいつまでも迷いを見せているわけにはいかないだろう。
自然と、手にしていたペンダントトップを、祈るように握りしめる。
――どうかこれが、一人でも苦しい思いをしている女性を救い、子供たちが無事に生まれてきますように。
そう願いを込めて、箱に戻し、蓋を閉じる。
「アレクシス、お願いできる?」
「ああ、確かに預かった。――君の祈りが北部を救うことを、私も信じている」
彼もまた、北部の問題に人生を大きく揺さぶられ続けた人だ。大領主として、オルドランド家の血を引く者として、誰よりも切望していた瞬間でもあるのだろう。
真摯に告げられて、メルフィーナも頷く。
そうして、エンカー地方産の聖魔石の最初の一矢は、放たれたのだった。