461.事業の話とサウナ上がり
何度も丁寧に礼を告げるアントニオを見送ると、すぐに夕飯の時間だった。移動が多く中途半端な時間に軽食をつまんだこともあり、自分の皿は少し軽めにしてもらって、マリアと共にサウナで汗を流す。
「アントニオも大変だよね。すぐに帝国に戻るなんて」
「そうね。移動だけでも大変なのに、今は冬だから、道中は色々と危ないことも多いでしょうし」
雪道で悪路が続き、低温であるということを差し引いても、夏に比べれば移動出来る時間が短く、北部の冬は魔物に出くわす危険もある。
魔物以外にも積み荷を狙う危険な野生生物だっているだろうし、危ないのは人間も同じだ。夜盗や盗賊だけでなく、立ち寄った村が困窮していて、時季外れの旅商人を襲うというような事態もあるだろう。
アントニオも、確実に帝国に仕入れたクリームを届け、クリーム製作のための手筈を整えるために万全の準備で出発するはずであり、護衛だけでも相当の出費を強いられることになるはずだ。
水路を使えばもう少し早く、比較的安全にエルバンにたどり着けるはずだけれど、万が一にでも船から落ちればこの季節の北部ではまず命はない。
旅は、この世界では本当に危険なものである。
十分に汗をかいたところで洗い場に移動して、桶に汲んだ水を肩から浴びる。マリアはサウナの後に冷水を浴びるのが苦手だそうで、温水で汗を流したあと手足の先にやや冷たい水を掛けていた。
髪をよく拭いて、軽く編んでアップにし、布で巻いておく。あとは寝るだけなので昼間は下着にもなる薄いワンピースを身に着けるだけだ。
「そういえば、あのハンドクリームはエンカー地方の特産品として売らなくてもいいの? 作るのは簡単だっていうし、エールとかと同じで売れると思うんだけど」
「やっぱり、日持ちしないのがネックね。冬場はともかく夏場は他所に輸出するのは難しいし、エンカー地方内で流通させる程度なら大獅子商会が作ったものを回す方がコストもかからないわ」
大獅子商会は商人の国と揶揄混じりにいわれるロマーナ共和国において有数の大商会であり、フランチェスカ王国だけでなく、大陸の近隣諸国に多くの支店を持っている。
メルフィーナの持たない組織力で、需要の見込める都市で製造販売が可能なのだ。
「それにこちらでは、肌の手入れって貴族の女性か裕福な商人の妻や娘くらいしかやらないし、それもローズウォーターと少しの油を塗る程度だから、まずお手入れをする習慣を広めないと、最初はなかなか手が出るものではないと思うわ」
今回のクリームも、まずは帝都の上位貴族を中心に話題になり、今回の騒動とは逆に、低位貴族や商人たちに話題が移動して広がっていくことになるだろう。
レイモンドやアントニオなら上手くやるだろうけれど、クリームが定着し利益が安定するまでに、並の商人なら数年はかかるかもしれない。
「私が率先して売らないのは、そういうわけ。それに、あのクリームに関しては別の部分で利益を出すこともできるしね」
「どういうこと?」
マリアのアップにした髪から一筋、黒い髪がこぼれ落ちているのを直してやり、ふふ、と笑う。
そのうち防腐剤を作って、それを大獅子商会に売ってもいいし、その次は防腐剤と香料を入れた、改良したクリームをエンカー地方で出してもいいだろう。
長い時間をかけて下地を作るのは人に任せて――というと聞こえは悪いが、その後ならば、良い商品なら広く受け入れられるはずだ。
それに、最初のシェアというのは決して馬鹿にできないものだ。後発の製品がすでに広まった大獅子商会のブランドを食い破るのは、かなり難しいことが予想できる。
「はぁー、ずっと先を見越して、今の取引があるんだね」
「それはそうよ。だから取引は慎重にしなければならないわ」
現在定期収入となっている麦麹にしても、ロマーナで製法が割れれば領主邸で作っているものは今のように売れなくなるだろう。その辺りはレイモンドもシビアな商人だ。
ガウンを羽織ってサウナを出ると、すでに騎士服を寛げたアレクシスが別館の廊下からこちらに来たところだった。
これからサウナで体を温めるところなのだろう。使用中は内側から鍵を掛けることが出来るけれど、入れ替わりでちょうどいいタイミングだったようだ。
「ね、メルフィーナ。もっと話が聞きたいから、今夜は部屋に泊まっていい? 今オーギュストと、何か新しいこと始めたいねって話しててさ」
「ええ、勿論――」
構わない。そう言いかけた寸前、アレクシスに肩を抱き寄せられる。ちょうど廊下の死角になっていたようで、アレクシスに気づいていなかったマリアが驚きに目を見開いていた。
「聖女。彼女は私が先約だ。悪いが遠慮してもらえるか?」
「ちょっと、アレクシス!」
何を言い出すんだと、つい声が大きくなる。マリアは不思議そうに少し首を傾げたあと、みるみる目を見開いて、瞳が大きくなるのと同時に、顔が真っ赤になっていった。
明らかに、サウナの火照りとは違うだろう汗をぽたりと落とすと、慌てたように一歩後ろに下がる。
「あ、あっ……そ、そっかぁ」
「マリア! 待って、違うの!」
言って、自分でも何が違うのか全く分からない。マリアも聞いているのかいないのか、へらへらと困惑を滲ませたような笑みを浮かべながらじりじりと後ろに後ずさっていった。
「あの、鈍感でごめんね! おやすみメルフィーナ! また明日!」
「マリア!」
サウナとメルフィーナ、マリー、マリアの部屋は同じ領主邸の二階にあり、自室のドアはすぐそばだ。
マリアが部屋に引っ込むのを呆然と見送っている間に、アレクシスに肩を抱かれたままエスコートされるように進んで、メルフィーナの寝室のドアを開けられてしまった。
「ちょっと、アレクシス、入っていいなんて言ってないわ」
「駄目なのか?」
「だ……」
駄目に決まっている。大体なんで急にあんなことを言い出すんだ。部屋を訪うにしたって、もっと人目に付かないようにすることは容易いだろう。マリアにだって、大事な話があるからといくらでも方便が使えたはずだ。
言いたいことは山ほどあるし、これからも似たような振る舞いをされるのは居心地が悪い。
そう思うのに、キッと見上げたアレクシスは、いつもと同じ無表情のくせに、妙にしょんぼりしているように見えてしまって。
「私が、ここにいられる時間はそう長くはない。昼間は君の傍は人で溢れている。私も、日中は大人しくしていただろう?」
「それは、だって、私にも色々、仕事があるし」
分かっている。そう続けるアレクシスの声は静かで、深く、そして熱っぽいものだった。
「だが、夜くらいは君を独占したい」
駄目か? もう一度そう尋ねられて、さっきは勢いで言えそうだった言葉が、喉に引っかかって、もごもごする。
その言葉通り、アレクシスはずっと領主邸に滞在できるわけではない。そう遠くないうちにソアラソンヌに戻るだろう。
その次に会えるのは、春が来てからか、もっと先か――どちらにしても、二人とも領主としての仕事で今より更に忙しくしていることは間違いないのだ。
共に過ごせる夜は、更に短く――。
想いが通い合った今、共にいる時間が甘いほど、離れている期間は切なくこの胸を締め付けるだろう。
想像している今ですら、そうなのに。
「だ、だめ……じゃないわ」
「では、行こうか」
「ああ、もう!」
メルフィーナが何に怒っているのか理解している様子もなく、しっかりと肩を抱かれたまま扉の内側に入り。
ドアを閉めた音の後は、その羞恥交じりの怒りすら、あっという間に分からなくなってしまった。