460.屈託のなさとバームのレシピ
アントニオは難し気な表情をして、黙ってしまった。裾の長い袖に隠して、隣に座るアレクシスの手をそっと握る。
貴族の前で平民が黙り込むのは無礼だと咎められる可能性が高いけれど、この場で最も身分の高い男性であるアレクシスが黙考を許せば、セドリックやオーギュストも自然とそれに準じることになる。
こうなると、メルフィーナの意思を確認する前に慣例で叱責をする騎士より、元々が寡黙なアレクシスの方が場の流れを遮らないかもしれない。
――その代わり、黙ったまま突然何をするか分からない人でもあるのだけれど。
自分の周りの男性は困ったものだと、口にすればこちらの台詞だという目で見られてしまうだろう。
「もしかして、何か難しいことがあるの? アントニオ」
静かになってしまったのを不思議に思うように、マリアが気負いない声で尋ねる。それでようやく沈黙していたことに気づいたらしく、アントニオははっと顔を上げた。
「いえ、そういうわけではありません! 申し訳ありません、会頭がどう返答するかと、考え込んでしまいました」
「謝らなくてもいいけどさ。レイモンドもメルフィーナを信頼しているみたいだし、そんなに問題あるのかなって思っただけだから」
「銀行事業は、直接金を扱う事業です。当たれば大きいですが、外れれば莫大な借財を負う可能性もあります。会頭は、類稀な商才の持ち主です、普通に運用していれば、まず大きく失敗することはありません。ですが、何が起きるか分からないのがこの世の常というものですので、その時にメルフィーナ様に累が及ぶのは、会頭も決して良しとはしないでしょう」
アントニオは、レイモンドの持つ事情を知っていて、そう言うのだろう。
聖女を手に入れることが叶わなくても、レイモンドはいつか必ず祖国を――ロマーナを取り戻すはずだ。彼がどのような手段を取るかは分からないけれど、商売は言うまでもなく、政変も何がどう転ぶか分からない。
長く続いたロマーナ帝国は王国になり、そしてとうとう共和国になったように。
「あー、そっかぁ」
マリアはゲームの知識でレイモンドの真の身分と目的を知っている。うーんとしばらく考えるように首をひねる。
「でも、メルフィーナは大丈夫だって思うんだよね?」
「そうね」
「じゃあさ、アントニオ。メルフィーナを信じた方がいいよ。だって、エンカー地方をたった三年でこんなに大きくした人だよ。レイモンドと同じくらい、商才があると思わない?」
「それは勿論、メルフィーナ様の手腕を疑うことはありませんが……」
「アントニオだけで判断できないなら、レイモンドにも聞いてみたら? 私なら絶対、メルフィーナが手を組もうって言ってきたら、断らないもん」
あっけらかんとした楽天的なマリアの言葉にふっと息を漏らすと、アントニオは失礼しました、と恭しく告げた。
「何か、肩から力が抜けた思いです。ありがとうございます、マリア様」
「うん。とりあえず帝国のことは急ぎなら、今からぱっとクリームだけでも作って運んじゃえば? それなら私も手伝えるからさ」
「それがいいわね。アントニオ、手付けとして代替案のクリームのレシピも教えるから、レイモンドに相談をしてみてくれる?」
「かしこまりました。――お二人のご恩情に、深く感謝いたします」
商人は立ち上がると、恭しく礼を執った。
「ご提案に報いる道がきっとよい結果になるよう、私からもよくよく、会頭にお伝えさせていただきます」
* * *
どうせなら実際に作ってみせた方がいいだろう。幸い材料は全て領主邸に揃っていたこともあり、新しいお茶を淹れ直すついでに、厨房で実演してみせることになった。
マリアに助手を頼み、レシピの書き取りはマリーが担当してくれている。
「渡したクリームは保湿剤としてグリセリンと呼んでいる物が入っていて、それを作るのが今の段階では手間がかかるのよね。でも、全く同じものとはいかないけれど、近いものは比較的簡単に出来るわ」
「あの、メルフィーナ様。それは以前私が贈ったアロエではないでしょうか」
作業台の上に並べられた材料の一つに目を留めて、アントニオが怪訝げな様子を見せる。
「ええ、良く育っていて、本当に重宝しているわ」
「この季節のエンカー地方で、そのように青々としていられるものではないはずなのですが」
「コツがあるのよ」
コツでどうにかなる問題なのかと大きく顔に書いてあるけれど、温室のことを細かく説明する必要もないだろう。アントニオもメルフィーナが煙に巻いたことは解っているだろうし、それより今は目先の問題の解決のほうが優先であるとすぐに気持ちを切り替えたようだった。
葉を縦に割き、外皮を除去して布で包み、浸潤してくる汁を吸い取る。この汁には下痢を引き起こす作用があるので、丁寧にふき取っておき、アロエを葉肉だけにしたら、薬研で丁寧にすり潰す。
「今回はこのオイルを使うけれど、帝国に下ろすものはココナツオイルか椿油を使うといいわ」
エンカー地方は冬が寒すぎて栽培に向かないけれどどちらもロマーナの輸出品目に入っているものだし、帝国でも椿油は問題なく製造することが出来るだろう。
「オリーブオイルでもいいけれど、オリーブオイルはどうしてもオリーブの香りが強いから」
すり潰したアロエに、数回に分けてオイルを垂らし、よく混ぜたら小鍋に入れて少しだけ温める。同じく温めて柔らかくした蜜蝋と慎重に混ぜていけばやがて白濁したはちみつ色のクリームの完成だ。
「冷めたら固くなるから、温かいうちは少し緩いくらいでいいわ。これを容器に詰めたら、アロエと蜜蝋のバームの出来上がりよ。材料も少ないし、手に入れるのが難しいものも入っていなくて、簡単でしょう?」
まずメルフィーナが少量を指につけ、手の甲に塗ってみる。まだ温かいため柔らかく、伸びがいい。
塗り終わればしっとりとした潤いが残る。アントニオにも試してもらうと、しっかりと塗り込んでいる。その仕上がりに息を漏らしているので、及第点には届いたようだった。
「精油や香油を混ぜれば色々な香りを楽しむことも出来るし、無香料でも男性には喜ばれるのではないかしら」
「それは、はい……。その、メルフィーナ様。こちらは、大獅子商会が売り出しても、大丈夫なものなのでしょうか」
「構わないわ。競合する職人もいないでしょうし、きっとどこででも、人気が出るんじゃないかしら」
このクリームの製法自体はとても簡単だ。特別な施設も必要なく、材料さえあればこの通り厨房で出来てしまう。
商人が問題なく揃えられる材料で、設備も問わず、帝国の相当な高位の身分がある女性が所望しているという「実績」もある。
これがどれほどの利益を生み出すか、熟練の商人にはよく理解出来ているはずだ。
「全身に使うことが出来るので、蜜蝋の量を減らせばボディクリームにも使いやすいでしょうし、高貴な女性にはそういう需要もあると思うわよ。そうだわ、よければその方には、エンカー地方のガラスの器に入れて献上してもらえない? 元々はそれを欲しがっていらしたみたいだし」
「は、それはもう、そのようにさせていただければ」
「商人や裕福な平民向けのものは、陶器の器に入れて売るといいわ。蜜蝋の量で硬さの調節も出来るから、器からこぼれないよう固めに作れば可搬性も上がると思うし」
帝国だけでなく、フランチェスカ王国、ロマーナ共和国を越え、冬が厳しいブリタニア王国でも、あまり通商が盛んではないらしいルクセンにも、大きな需要があるだろう。
最初は貴族の御用達として売り出し、蜜蝋やオイル、入れ物の質を下げたものは一般消費物として売り出せばいい。
暗に、今回の献上品以外の方法での売り出しも構わないという言葉は正しく伝わったらしく、アントニオは額に汗を浮かべながら、言った。
「用意が出来次第、帝国に発とうと思います。同時に、一刻も早くロマーナの会頭の元に報せが届くよう、尽力いたしますので」
「ええ、よろしくね」
商談は無事まとまり、ほっと空気が緩む。オーブンを使っている最中の厨房は暖かく、なんとなくメルフィーナも気が緩んでしまった。
「油と言えば、本当は馬油もすごくお肌にいいのよね。特にひどい乾燥にはすごくよくて」
「メルフィーナ……」
それまで黙っていたアレクシスに、困惑したように名前を呼ばれてしまう。
騎士の二人もなんとも戸惑ったような、少し焦っているような、そんな様子だ。
騎士にとっては、馬の肉や脂の話は大変微妙な話題らしい。
「火傷の薬にもなるのだけれど……まあ、抵抗があるなら仕方ないわよね」
メルフィーナだってフェリーチェを可愛がっているし、特定の動物を食べることへの忌避感はある。
馬油は、前世ではかかとのケアに重宝したものだけれど、こちらの世界の価値観に合わないなら仕方がないのだろう。
以後、メルフィーナが馬の脂の話をすることはなく、それに周囲の騎士たちは、密かに安堵したのは、別の話である。