454.明くる朝
目が覚めて、まぶたを持ち上げると青灰色の瞳と目が合った。
すでに起きていたけれど、メルフィーナが目を覚ますのを待っていてくれたのだろう。寝顔や寝起きの姿を見られるのは気恥ずかしく、さり気なく乱れた髪を直すけれど、焼け石に水なのは火を見るよりも明らかだ。
「あの……おはよう」
「ああ」
相変わらず素っ気ない返事だけれど、その声は妙に甘く響いて、もぞもぞと毛布の中に潜り込みたくなる。身支度をしたいけれどアレクシスにしばらく部屋を出て欲しいと要求するのも何か違う気がするし、かといって冷静な状態で肌を見せるのは、まだ恥ずかしい。結局どうしようもなくて、肩まで毛布に包まったまま、目の前にあるアレクシスの手をなんとなく、握ってみた。
ごつごつと節が立って、指の腹は少しかさついている、男の人の手だ。剣を持つためだろう、手のひらの皮は厚く固く、何度も肉刺が出来ては潰れて治ったような痕がうっすらと残っていた。
これまで何度も思ったことだけれど、やはり自分の手とは大きさも形も全然違う。指はずっと長いし、爪も厚い。手に限らず皮膚が硬いのは、男性だからか、それとも代々北部の寒冷な土地で暮らしているからだろうか。
アレクシスが何も言わないのをいいことに、気が付けばもぞもぞとその手をいじってしまっていた自分にはっと気が付く。
「……子供の頃、時々ベッドの中でうなされることがあったのだけれど、そういう時は乳母が手を握ってくれたの」
「君も私も、うなされていなかった」
「そういう話じゃないわよ、もう」
くすくすと笑って、視線を交わし合う。
とても親密で、少し重たい、けれどとても甘い空気だった。
「あなたは、どんな子供だったのかしら」
「今と変わらない。面白みのない子供だったよ」
「ウィリアムみたいな子かと思っていたのだけれど」
「ウィリアムは、弟によく似ている。情熱的でこれと決めたら貫く、だが優しくて、努力しすぎるのが心配になる一面もあった」
手を軽く握り返されてどきりとしたものの、引き寄せられ、指先に口づけられると逆に少し、冷静になった。
アレクシスの瞳からも態度からも、熱情や荒々しさは感じない。むしろ穏やかで、お腹がいっぱいになってメルフィーナの足にもたれかかっている時のフェリーチェを思い出させる仕草だった。
――もしかして、甘えているのかしら。
「どこかに行ったりしなかった? 北部の夏は短いから、南の方に旅行とか」
「そうだな……王領との境目にある街に、オルドランド家の別荘がある。そこに子供たちだけで何度か行ったことがある」
「いいわね。どういうところだった?」
「広葉樹の森がある、狩猟小屋も兼ねた小さな屋敷だ。――狩猟番の飼っていた犬が二匹いた。どちらも当時の私と同じくらいの大きさで、弟やマーガレットは怖がっていたが、オーギュストは犬との相性が良くて、すぐに配下のように付き従えていた」
それは決して、嫌な記憶ではないのだろう。記憶を掘り起こすように、ぽつりぽつりと話すアレクシスの目は優しいものだ。
「いずれ討伐に参加するために、オルドランド家は成人前から狩猟に参加することが許されている。私も八歳の夏から、そこで狩猟を教えられた。私は剣の方が好きだったが、初めてうさぎを射った時は奇妙な高揚を覚えたよ。半矢にしてしまったためにナイフでとどめを刺すように言われた時は、震えたな。命を奪ったのはあれが初めてで、光沢のある黒い瞳がじっとこちらを見る様子は、しばらく夢に出た――」
そうして、アレクシスは言葉を切った。それから僅かに、口の端に苦い笑みを浮かべる。
「君に聞かせるようなことではなかった」
「いいえ、聞きたいわ。あなたが嫌でなければ、たくさん、あなたのことを聞きたい」
そうねだれば、あまり自分のことを口にするのが得意ではないだろうに、静かな口調で、時々記憶をなぞるように間を取りながら、アレクシスは言葉を濁すことなく話してくれた。
「私に比べれば、やはりウィリアムは度胸がある。先日の狩猟でも、少しも怯んだ様子を見せなかった。成長すれば思慮深く、かつ勇猛な当主になるだろう」
「きっとウィリアムも、大人になった時、あなたに初めて狩りに連れて行ってもらった時のことを思い出すわ。――その別荘、今も維持しているの?」
「ああ、今でも狩猟番がいるはずだ」
「なら、いつか私も連れて行ってくれない? あなたが忙しいようならマリーとウィリアムで行ってもいいし」
そう言った途端、体を包んだ毛布ごと腰を抱かれ、引き寄せられた。
毛布の中でぴったりと体が密着したのを感じた瞬間、耳元で低く、囁かれる。
「――私を仲間外れにするのはひどいんじゃないか?」
「仲間外れとかではなく、あなたは忙しいから」
「時間は作る。――今年は、難しいかもしれないが」
少し苦々し気な声にクスクスと笑うと、抱きしめる腕に少し力がこもる。
力強い腕だけれど、痛くはない。ちゃんとそう手加減されているのが分かるから、メルフィーナもそっと剥き出しの胸に頬を寄せた。
まぶたの裏には青く晴れた空に、広葉樹の森。大きな狩猟犬とともに走り回るフェリーチェと、アレクシスと成長したウィリアム。
もしかしたらそんな光景のなかに、他にも子供がいることも、あるかもしれない。
「領主邸でたくさん思い出を作って、あなたも一緒に夏の別荘に行きましょう。きっと特別な時間になるわ」
囁いて、抱きしめ合って、しっとりと時間は甘くて。
さて、そろそろ身支度をして朝食をとり、市場を回りにいこうと、どのタイミングで切り出そうか。
理性ではそんなことを考えているのに、お互いの目を見つめ合えば静寂を壊すことを恐れるように、唇に温かいものが重なった。
それからしばらく、楽しい未来の話や、これからやりたいことを小さな声で話し合って。
その間もずっと、お互いの体温が混じり合い、境目が分からなくなるまで、寄り添い合ったままだった。
二人のデート編、お付き合いありがとうございます。
次回から舞台はエンカー地方に戻ります。