451.冷たい夜と冷たいキス【コミカライズ記念SS】
本日二度目の更新です。
公爵家の正門は大きく、そして荘厳だった。
大きな前庭を馬車で抜け、そのままぱくりと口を開いたような扉のない内門をくぐり、内庭を進む。
南部の大領主の娘とはいえ、生まれ育ったタウンハウス以外で暮らしたことのないメルフィーナは、その規模にやや気後れするものを感じていた。
やがて馬車が止まり、扉越しに侍女が到着したと告げる。了承の言葉を口にすれば、すぐに馬車の扉が開いた。
そこにいたのは、お仕着せを着た数十人の使用人と騎士、兵士たち。そしてその中心には、白髪の目立つ男性が立っている。
「長旅をお疲れ様でございます。公爵家の家令を預かる、ルーファスと申します。こちらは奥向きを統括しているヒルデガルト。メルフィーナ様のご到着を心よりお喜び申し上げます」
流れるような口上に頷いて、侍従のエスコートで馬車を降りる。日程の最終日、休憩もそこそこに、長くガタガタと揺れる馬車に乗っていたため、重い疲労を感じていた。
自分を出迎える中で、もっとも重要なはずの人物を、自然と目が探す。使用人たちは深く頭を垂れていて、目的の人を見つけることは出来なかった。
「アレクシス様は、明日の結婚式の用意のため、お出迎えに上がることが出来ませんでした。メルフィーナ様におかれましては、今夜はゆっくりと休み、明日に備えて欲しいとのことです」
「まあ……お嬢様が到着したというのに」
「いいわ、到着が遅れたのはこちらに非があることですもの。――歓迎を感謝します。少し疲れたので、部屋に案内してもらえるかしら?」
「ご厚情を感謝いたします。ヒルデガルト」
「はい。奥様、家政婦長のヒルデガルトでございます。こちらはマリー。長く公爵家に仕えている者で、メルフィーナ様の侍女を務める者です」
王都から連れてきた侍女が、何か言いたげな様子を見せるけれど、メルフィーナはそれを黙殺して深く頭を垂れた女性に微笑む。
「北部の生活に慣れていないから、何かとお世話になると思います。よろしくお願いね、マリー」
「――はい、奥様」
「春とはいえ北部はとても冷えますから、どうぞ中へ。暖炉に火を入れて、部屋も暖めておりますので」
そう促されて、しずしずと中に入る。
公爵家の本邸ということもあり、内装は荘厳の一言だった。壁に掛けられた絵の一枚、彫像のひとつをとっても足を止めて眺めることが出来るほど精緻なもので、天井からは高価な魔石を使った照明が惜しげもなく中を照らしている。
全てがいちいち素晴らしく、貴族の屋敷として完璧で、そしてその完璧さがなんだかよそよそしく感じさせる。
「――使用人たちも長い移動で疲れていると思うから、部屋に案内してあげてくれる? 私は、ドアの前に護衛を残してくれればそれでいいから」
「ですが、メルフィーナ様」
「結婚の前日ですもの、少し一人になりたいの。どうせ明日は早朝から準備に入るでしょう? 今日はもう、ゆっくり休みたいわ」
微笑むと、侍女や召使たちは多少複雑そうな表情を浮かべたものの、主人の言葉に異議を重ねるようなことはせず、メルフィーナの着替えの手伝いを済ませると公爵家の使用人たちに案内を受けて去っていった。
ドアが閉まれば、しんと静寂が訪れる。
随分久しぶりに、一人きりだ。
メルフィーナは立場上、寝室にいる時でも傍に侍女や召使が控えていることが多い。物心ついた時から続いてきた当たり前の状況だというのに、今はそれがうっすらと苦痛に感じるようになってしまった。
――なんだか、感覚や価値観が前世と混じり合ったような、不思議な気分だわ。
これまで当たり前のことが、当たり前ではなくなってしまった。
ひとつひとつの判断を下すのに、以前より一瞬時間が必要だったり、以前は疑問を持たなかった感情も本当にそれでいいのかと迷いが挟まることもある。
十六で、会ったことも無い人に嫁ぐことも、その一つだ。
一週間前までの、貴族の娘であるメルフィーナには、それは当たり前の義務だった。
けれど、今のメルフィーナにとっては、背負いたくもない義務を背負わされてしまったような、嫌な気分だ。
ふぅ、と間延びしたため息を漏らし、ベッドに横たわる。
天蓋のついた立派なベッドだった。おそらく客室だろう、精緻な模様の入った絨毯が敷かれ、調度品もよく手入れがされている。大きな暖炉にはあかあかと火が燃えていて、薪を惜しげもなく使っていることがわかる。
この部屋ひとつ見ただけで、オルドランド公爵家の権勢と財力が伝わってくるというものだった。
部屋は十分に暖められていて、長旅の疲れを癒してくれるのに十分なほどなのに。
――なんだか、寒々とした場所ね。
今日、自分の夫になる人に会えば確信を持てると思っていたのに、それは叶わなかった。
明日、結婚式で顔を合わせることになる「アレクシス」は自分の知っている「彼」なのだろうか。
本当に、ここはハートの国のマリアの世界で、自分はメルフィーナ・フォン・オルドランドなのだろうか。
ここに至っても、認めたくはないし、受け入れ切れていない。
疲労にまぶたを下ろすと、目の奥にじわりと熱いものを感じる。
疲れと不安で、心が弱くなっているのが分かる。大丈夫。何が大丈夫なのか自分でも分からないまま、何度もそう胸の内で繰り返していた。
* * *
その日、太陽が辺りを照らす前から準備は急速に行われた。
香をたっぷりと薫きしめた浴室で入浴を済ませ、バスローブに身を包むとそのためだけに連れてこられたのだろう、暖められた部屋で風の魔法使いによって髪を乾かされた。
香油を使い艶が出るまで髪をしっかりと梳り、体の隅々までマッサージを受ける。肌がしっとりと柔らかくなったらコルセットを締めてドレスを身にまとい、髪を編み込んでアップにまとめ、化粧を施される。
身支度の世話に人の手が入るのは、メルフィーナにとってはよくあることだ。けれど、今はその一つ一つが、少し居心地が悪い。
耳にはドロップ型の大ぶりの真珠がぶら下がる、白金のイヤリング。金の髪には純白の花の髪飾りを施される。花嫁の純潔と貞心を表した真っ白なドレスには、同じ色の糸で細やかに刺繍が施され、見た目よりもどっしりと重い。細かい真珠を縫い付けた布の靴を履いて真っ白な薄布のヴェールを被れば、準備は万端だった。
「お綺麗ですわ、メルフィーナ様」
「本当に……侯爵閣下も、とても誇らしく思っておられますよ」
「――そうかしら」
単身で嫁いだメルフィーナにとって、今日の式は見知らぬ北部の貴族ばかりで、友人どころか家族の一人すら参加していない。
皮肉を込めてぽつりと呟いたものの、使用人に当たる気にもなれず、そのまま黙り込む。
やがて時間が過ぎて、家令のルーファスと共に、数人の騎士と侍女が迎えに来る。
「メルフィーナ様、ご挨拶が遅くなってしまいましたが、こちらは護衛騎士に任ぜられました、セドリック卿です」
「そう、よろしくね」
ヴェールを深く被っているので、相手の顔は見えない。ただ、その名前に心臓が少し跳ねた。
「控えの間にご移動をお願いいたします」
「ええ。――マリー、いるかしら」
「はい、ここに」
「控えの間まで、エスコートをお願いできる?」
少し間があって、手を差し出され、その手を握る。
本来なら紹介されたばかりの騎士に頼むのが順当なのだろうけれど、そんな気にはなれなかった。
重たいドレスを着たメルフィーナを気遣って、移動の歩みはゆっくりとしたものだった。大きな扉をくぐって内向きを出ると、すでに来客は揃っているらしく、昨日の静寂とは打って変わり、公爵家のあちこちからさざめきのような人の気配があった。
控えの間には、夫になる人がすでに来ていたけれど、ややうつむきがちになっているメルフィーナには、壮麗な金の刺繍を施した白い上衣しか目に映らない。
決定的な確信が恐ろしくて、答えが出るのを先延ばしにしている自覚はあった。
いざというとき、自分がこんなに臆病だったなど、メルフィーナは知らなかった。
マリーの手を離れ、差し出された白い手袋の手に、手を重ねる。
「すぐに式を始める。音楽を」
低い声が響くと、その場にいた全員に緊張感が走るのが伝わってくる。
「畏まりました」
ルーファスの静かな声。ややして、場違いなくらい高らかな音楽の響く音。
北部の大領主であるアレクシスと、南部大領主であるクロフォード家の娘、メルフィーナの結婚式は、そうして大々的に始まった。
まずは教会の司教の前で結婚を誓う。それから祝福を受け、夫婦として唇を重ね、結婚を宣誓した後は参加者に祝福されながら内庭に出る。
そこからしばらくガーデンパーティが行われ、北部の貴族たちと顔を合わせることになるだろう。休憩を挟み、屋内で更にパーティは続くけれど、これはそう長くは掛からない。
今夜は、結婚した二人にとって最も重要な夜でもあるからだ。
重たいドレスを身にまとい、あと数分後には神の前で愛と誠実を誓う夫の手を取って、短くも長い絨毯を敷いた道を進む。
初老の司祭の声は年齢に見合わず高らかとしていて、二人に愛と誠実を生涯誓うかと告げてきた。
手順通りに儀式は進み、やがて手袋を嵌めた手がメルフィーナのヴェールをめくる。
顔を上げれば、そこにいたのは青灰色の髪と同じ色の瞳をした、とても見慣れた、そして初めて見る男の顔だった。
――ああ。
――やっぱり、そうなのね。
分かっていた。否定できないくらい、状況証拠は揃っていた。
メルフィーナという名前、金の髪、緑の瞳、侯爵令嬢という身分と、公爵家に嫁ぐという事実。
ここはやはり、そうなのだ。
夢中になってプレイし、考察し、繰り返し調べ上げた、ハートの国のマリアというゲームの中だ。
「それでは、誓いのキスを」
メルフィーナの心境など置き去りにして、結婚の儀式は続く。
怜悧な顔立ちにひとかけらの熱もなく、身を屈めた「夫」が、唇に唇を重ねた。
それはほんの一瞬で離れ、来席者たちの割れるような拍手が続く。
差し出された手に再び手を重ねて、内庭に向かうまでの道のりを進む足は、とても重く。
触れただけの、冷たいばかりの口づけは、この先破滅に向かって進み始めた自分の運命を暗示するようで、ただただ気欝なものだった。