442.狩猟と彼らの今後
エンカー村の広場の鐘が午後を告げる音を響かせる。
最近はすっかりあって当たり前になってきた。一日の決まった時刻に鳴る鐘の音はその時やっている仕事や作業のいい一区切りにもなって、なんとなく日常に、それまでは無かったメリハリがつくようになった気がする。
「アレクシスたちは、そろそろ戻ってくるかしら?」
「日暮れまでしばらくありますから、もう少しかかるかもしれませんね」
刺繍の手を止めてメルフィーナがぽつりと漏らすと、のんびりとした口調でマリーが答えてくれる。
今日は早朝から、アレクシスはウィリアムを伴ってモルトルの森に狩りに出かけている。同行しているのは警備としてエンカー地方に滞在しているオルドランド家の騎士たちと猟犬の世話をしているゴドーと犬たちで、久しぶりに伯父との時間が取れるということもあり、目に見えて嬉しそうな様子だった。
何もこんなに寒い季節の森で狩りをしなくとも、春になってからでも構わないのではないかと思うけれど、雪中での狩りは北部の貴族の嗜みのひとつなのだという。
逆に娯楽としての狩りはあまり一般的ではなく、春や夏の狩猟はそれほど積極的に開催されているわけではないようで、狩猟が趣味な一部の貴族が行うに留まっているらしい。
それも、いずれは冬季に魔物と戦うことを義務付けられているオルドランド家らしい習慣なのかもしれない。ウィリアムが大人になる頃には今までより厳しい戦い自体が減っていくようにしていきたいけれど、魔物がいなくなっても野生生物による畑への被害だってあるだろうし、今の時点ではこれも現公爵から次期公爵への教育のひとつということなのだろう。
「この季節って何が獲れるのかしら」
「小さなものだとウサギですね。あとはキツネや、雉や鴨などでしょうか。モルトルの森にはいないようですが、鹿などはかなりの大物として王都周辺の狩猟では人気があります」
「大物を捕まえると頭部をはく製にして飾り付けたり、なめした毛皮を衣装ではなく床に絨毯代わりに敷いて、その大きさを示すこともあるようです」
やはり、大物を捕らえるというのは狩猟に参加する者にとっては栄誉なのだろう。食料や毛皮の確保のため以外の、娯楽としての狩猟に関しては、メルフィーナ自身はあまり好意的な気分にはなれないけれど、貴族社会では必要なものであることも理解は出来る。
ここしばらく心を搔き乱す日々が続いたけれど、基本的に冬の一日はやることも少なく、ゆっくりと過ぎていく。昼食は軽く済ませて午後からナターリエを見舞うことにする。
魔力過多による悪い影響が薄まったことと、エドがせっせと食べやすく栄養バランスのいい食事を用意してくれているので、ナターリエの顔色は日に日によくなり、乾燥してかさついていた肌には張りが戻りげっそりとこけていた頬もわずかにふっくらとしたふくらみが戻ってきていた。
「体調も良いようだし、領主邸の中なら少し歩いたほうがいいわね。階段にはくれぐれも気を付けてもらって……いっそ、部屋を一階に移したほうがいいかしら?」
衰弱しきっている時はともかく、体調がいいならずっと横になっているよりある程度歩いたほうが体にもいい。
「いえ、領都の家にいた頃も部屋は二階でしたし、気を付けて上り下りいたします」
「なら、メイドを一人つけるから、出歩くときはドアの前の兵士とメイドを一人ずつ連れてくれる? 領主邸内の道は雪かきをしてあるけれど、外はとても冷えるから、出る時は厚着を忘れないで」
「外に、出てもいいのでしょうか」
ナターリエが不安そうにぽつりと漏らすのに、メルフィーナは薄く微笑んで、その手を取る。
「勿論よ。あなたにここにいてもらっているのは、治療のためで、閉じ込めているわけではないのだから」
ここに来たばかりの頃は状況すら分かっていない様子だったナターリエだけれど、話をしてみれば彼女が理知的な人であることはすぐに分かった。忍耐強く黙り込んでいたけれど、ヘルマンを案じている様子は見せていたし、全く不安にならないというわけにはいかなかったのだろう。
「ヘルマンはあなたを預けて、一度ソアラソンヌに戻ったけれど、状況が整ったらまたこちらに来ることになっているわ。ヘルマンは私の護衛騎士として、しばらくはエンカー地方で暮らしてもらうことになるけれど、家族で過ごすことが出来るはずよ」
「それは……その」
「本当よ。嘘はつかないわ」
これはアレクシスと話し合い、ヘルマンも交えて決まったことだ。
ヘルマン自身は当主として数年の蟄居という形になるけれど、ちょうど春になればメルフィーナの護衛騎士の座が空くこともあり、鍛え抜いた騎士であるヘルマンが、その役割を引き継ぐことになった。
メルフィーナの護衛騎士の仕事は、生粋の北部の騎士にとっては中々ストレスの大きなものだ。実際、一時期セドリックの引継ぎで護衛騎士の任についたテオドールとは中々打ち解けることが出来ず、表立って苦言を呈されることこそなかったものの、彼が負傷したことを機に任務から離れるまで、メルフィーナの公爵夫人としては奔放な振る舞いにあまりいい顔をされないことが続いていた。
今はセドリックの希望でメルフィーナの傍に付いてもらっているけれど、彼は本来カーライル伯爵家の当主であり、北部には王家と北部の製糖事業の橋渡しとして滞在しているという形になっている。
いつまでも伯爵家を放置しているわけにはいかないし、騎士団長としての仕事もある。雪が解けて移動が容易になれば、王都に戻らなければならなくなるだろう。
エンカー地方でも兵士が育ってきているし、メルフィーナ自身は視察の時くらいしか領主邸を出ることもないので護衛は彼らでも充分であると思うけれど、精鋭たる騎士が傍にいたほうがいいと周りからも説得されてしまった。
エンカー地方は繁栄の一途をたどっていて、その領主であるメルフィーナの身の周りも何かと賑やかしいものだ。メルフィーナの判断ひとつで様々な利権が動き、大量の金貨が積み上がる。
身分と権力だけでなく、戦力も十分に備えておいたほうがいいというのは、もっともな意見であるとメルフィーナも受け入れた形だった。
本来主君の女性家族の護衛騎士の仕事は非常に名誉なものであるけれど、罰ゲームのようになってしまっているのがなんとも申し訳ない気分である。
「それと、私には侍女もいないから、子供が生まれて少し身の回りが落ち着いたら、ナターリエがそうなってくれると嬉しいのだけれど」
ナターリエの実家は子爵家であるというし、旗持ちの騎士の家であるヘルマンに嫁いだといってもそれなりに北部の貴族社会については詳しいはずだ。公爵家の奥向きで成長したマリーとはまた違う貴族社会の一面を知っているだろう。
「勿論、私でよろしければ、誠心誠意お仕えいたします!」
ベッドの上から身を乗り出したナターリエにふっと微笑む。
「いずれ公爵夫人としてサロンを開くことも考えているのだけれど、私は北部の貴族のことも詳しくないから、色々と教えてちょうだい。でもすべては、あなたが無事子供を産んで、元気になってからよ」
「はい、必ず」
肉体的な不調が和らいだ後もずっとどこか沈んだ表情をしていたナターリエの、心から笑った顔をようやく見ることが出来た気がする。
記録を付け終えてナターリエの部屋を後にし、廊下を進んでいるとちょうど城館の扉が開き、馬が入ってきたのが見える。先頭にいるのはアレクシスで、その少し後ろにウィリアムが騎乗しており、少し遅れて荷馬車を曳いた馬が続く。何か獲物が獲れたらしく、荷台はこんもりと膨らんで見えるけれど、ここからだと何が獲れたのかは見えなかった。
「出迎えましょうか」
「メルフィーナ様、外に出られるならコートをお持ちしますので」
「走らなくて大丈夫よ! 玄関のところにいるから」
マリーが慌てたように言って、本館の方へ小走りに向かっていく。
以前はいつも冷静沈着で、行動にもあまり感情を滲ませなかったけれど、いずれ北部の問題は後遺症の治療も兼ねて何とかしていこうと話し合ってから以降、マリーはほんの少し、変化があった。
ふとしたことでよく笑うようになったし、喜びを態度で表現することも増えてきた。そんな自分に彼女自身がまだ慣れていない様子で、時々スンッとはしゃいだ表情を隠すこともあれば、気恥ずかしそうに頬を染めていることもある。
何だか、最近の彼女は肩の荷が下りたように見える。それがメルフィーナにとっても嬉しく感じられる。
「行きましょうか。かなり大きそうだけれど、何が獲れたのかしら」
「猪か、もしかしたら熊かもしれません」
「熊の食べ方は、さすがによく知らないわ」
狩猟の途中で熊と鉢合わせるなんてとても危ないと思うけれど、アレクシスがいればどうということもないのだろうか。
正直熊にはいい思い出がないので、出来れば別の獲物の方がいい。そんなことを思いながら階段を下りてコートを抱えたマリーと合流し、太陽がしずしずと傾きはじめた外に出るメルフィーナだった。




