431.夜の浄化とお説教
ヘルマン夫妻の来訪から四日が過ぎた日のことだった。夕食を終えて寝室に入り、服を寛げたところでノックの音が響き、思わずびくりと体が震えてしまう。
基本的にメイドは夕方になれば自宅に戻り、使用人用の宿舎にもサウナがある今、日が落ちれば領主邸本館の二階にはメルフィーナとマリー、マリアの私室があることもあり、セドリックやオーギュストすら日が落ちてからは二階に立ち入ることはない。
まして、夕食後にノックの音が響くなど初めてだった。
「メルフィーナ様、こんな時間にごめんなさい、私です、アンナです」
「アンナ? どうしたの?」
聞き慣れた声にドアを開けると、ドアを叩いた拳を握ったまま、戸惑うような様子のアンナが立っていた。メイドのお仕着せを着たままで、ナターリエ様が、と言いにくそうに告げる。
「ナターリエがどうかしたの?」
「その、夕方頃から少し顔色が良くなかったんです。メルフィーナ様とコーネリア様をお呼びしましょうかと尋ねたんですけど、大丈夫だとおっしゃっていて……夕飯もほとんど残されて、その後一度お休みになったんですけど、先ほどから声を掛けても揺すっても目を覚まさなくて」
「すぐに行くわ。知らせてくれてありがとう」
労いの言葉にほっとしたように、強張っていた表情を今にも泣き出しそうに緩めたアンナに、声を掛けるまで厨房で休んでいるように告げて、寝間着を兼ねた白いワンピースの上からガウンを羽織り、別館に移動する。
まずはコーネリアの部屋を訪ね、すでに寝るところだったらしい彼女に状況を説明してからナターリエの部屋に向かった。
部屋の前で寝ずの番をしていた兵士は軽装のメルフィーナとコーネリアにぎょっとした様子だったけれど、背筋を伸ばすのに構わなくていいと手で制して、中に入り、ドアを閉める。
調度品が多くない室内のベッドの上で、ナターリエはぐったりと横たわっていた。ただ眠っているわけでないのは、その呼吸の荒さや血の気が引いて青白くなった肌からも明らかだ。
こうなるまで、辛かったはずだ。ナターリエの手を握り「鑑定」を発動させると、健康状態の項目に魔力過多の文字が浮かんでいる。
夕方から体調の変化はあったとアンナが言っていたけれど、メルフィーナとコーネリアが室内にいてもまぶたを震わせることさえせず、深く昏睡している様子だった。
ナターリエの手を握ったまま目を閉じて浄化を発動させる。一度成功したこともあり、前回よりスムーズに彼女の体内に溜まっていた魔力を中和することが出来た。
「どうですか? メルフィーナ様」
「ええ、ちゃんと浄化できたわ。もう大丈夫」
健康状態から魔力過多の文字が消えたことを再度確認して頷くと、コーネリアの表情に安堵の色が浮かぶ。
「体調が変化したら、すぐに知らせてくれないのは困るわね」
「太陽が傾き始めた以降に目上の方を呼びつけるのは、騎士の妻には難しいのでしょうね。そういう場合ではないのだと、なんとか解っていただけるといいのですが」
コーネリアは頬に手を当て、困ったように首を傾げた後、ナターリエの手を取って毛布の中に戻し、軽くぽんぽんと叩く。
「前回の浄化から、たった四日でこうなってしまうのね」
思ったよりも間隔が短いけれど、考えてみればメルフィーナ自身が魔力過多で倒れた時は、ノータイムで意識が暗転したことを思い出す。
そして、彼女がエンカー地方に来た時、あれほど衰弱していた理由もおのずと理解することができた。この状態が数か月も続けば、体がもつはずもない。
「メイドも、上の身分で年上の方に大丈夫だと言われればそれ以上は中々踏み込めないでしょうね。ナターリエ様には出来るだけ、わたしが傍につくようにしましょう」
「それではコーネリアが先に参ってしまうわよ。とりあえず、あと数日は大丈夫でしょうし、何か対策を考えるわ」
領主邸のメイドたちは、年が明けて十六歳になったアンナが最年長で、他のメイドたちは更に若い娘ばかりだ。
妊婦の世話など慣れているはずもなく、報告するべきかどうかの見極めも難しいのだろう。何かあればすぐに報告するよう求めているメルフィーナと、出来るだけメルフィーナを煩わせないようにしているナターリエとの間で板挟みにしてしまっている。
「しなくていい我慢なんて、することはないのにね。そうしていると我慢するのが癖になってしまって、自分でも耐えているのかそうでないのか、分からなくなってしまうわよ」
我慢して努力して努力して、そうして何も報われなかった自分を思い出して、ぽつりと漏れた言葉は我ながら苦い響きだった。
「きっと、我慢することがもう、当たり前になってしまっているのですね。これから、そんなことはないのだと分かっていただければいいのですけれど」
コーネリアもしんみりとした瞳で、落ち着いた寝息を立てるナターリエを見下ろしている。
どうしてあんなに無駄な我慢を重ねていたのか、今のメルフィーナにはもう当時の自分の気持ちは遠いものになってしまった。けれど、その渦中にいるうちは自分が耐えればそれで済むのだと思ってしまいがちになる気持ちも分からないでもない。
「ひとまず、今夜はもう休みましょう。また寝不足になってしまうわ」
「ですねえ」
緊張感が途切れたのだろう、コーネリアはふわあ、とあくびを漏らすと、無防備な様子を見せたことに照れたように、へらりと笑う。そんな様子にあくびが伝染ってしまったらしく、メルフィーナも口元を押さえて噛み殺しきれなかったあくびが漏れてしまった。
「伝染ってしまいましたね」
「あくびって、親しい間柄ほどよく伝染るらしいわよ」
「あら、うふふ」
笑い合いながらドアを開けると、立ち番をしていた兵士が呼んだらしいセドリックとオーギュストがこちらに背中を向けて立っていて、おそらくオーギュストに声を掛けられたのだろう、いつもの服を着たマリーとマリアが、二人分のふわふわの毛皮のロングコートを差し出してくれた。
「ありがとう、マリー。……マリア、どうかしたの?」
マリーはいつも通りのポーカーフェイスだけれど、マリアは感情表現がとても素直なタイプだ。ちらちらと後ろに立つ二人の騎士に視線を送りつつ、ええと、と気まずそうに言った。
「私に、足を出して歩き回るのは恥ずかしいことだって、メルフィーナが教えてくれたんだと思うけど」
「あら……」
言葉を選ぶように言われて、ようやく足元がすうすうと冷たいことに気が付いた。
普段は動きやすさ優先で、貴族的な長さのワンピースの丈を詰めたスカートにロングブーツを合わせているけれど、その丈のまま室内用の靴を履いている今は、足首からすこし上まで露出していた。
言うまでもなく、非常にはしたない恰好だ。
「このコート、足首まで隠れるから羽織って。後ろの二人にお説教されるのまでは、止めてあげられないからね」
「ありがとうマリア。……確かに迂闊だったけれど、非常事態だったし、大目に見てもらえないかしら?」
「いえ、せめて私に声を掛けて下さるべきだったと苦言を呈されたほうが良いと、私は思います」
マリーの言葉はいつもと変わらずクールだけれど、普段がキンと冷えた冬の朝の空気のようならば、今は吹き荒れる吹雪のような冷たさだった。
メルフィーナに対して、いつも優しいというより甘いくらいのマリーの言葉にひゅっと心臓が跳ねる。
「そうね……甘んじて受けるわ」
とりあえず、その日はもう夜ということもあり、騎士二人からのお小言は免れることが出来た。
代わりに翌日、朝食が終わった後にみっちりと、何かあったらマリーにも相談をすること、いくら周辺の警備がされている領主邸内とはいえ、単独でいきなり飛び出さないことをこんこんと諭され、コーネリアと二人で殊勝に肩を落とすことになった。




