427.新たな選択肢
気が付けば音が戻ってきていた。そこら中に拡散してあらゆるものと同化していたような意識もメルフィーナという肉体に収束されていった。
あの状態になった後はいつもそうだけれど、自分の体の重さに驚いてしまう。しっかりと手を握ったままだったナターリエにもう一度「鑑定」を掛けると、頭の中に情報が浮かんできた。
ナターリエ・フォン・ヘルマン
年齢 18歳
身長 166cm
体重 41キロ
魔法属性 氷
能力 なし
健康状態 妊娠 衰弱(中度) 脱水(中度)
配置 NPC
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魔力過多の文字が消え、衰弱も中度まで回復していることを確認し、ほっとして手を解く。やっている間は自我を見失いかねないほどふわふわとした気分だったけれど、どうやら上手くいったようだ。
ナターリエの呼吸は穏やかになり、心なしか顔色も土気色に近かったのが僅かに血の気を取り戻していた。
「しばらくは経過を見ていかなければならないでしょうけど、ひとまず大丈夫だと思うわ」
振り返って告げると、マリーとマリア、コーネリアがほっと息を吐く。
「しばらく部屋を暖かく保って、目が覚めているときは出来るだけ水分と消化のいい食事を摂ってもらいましょう。魔力中毒がどうにかなっても、こんなに痩せていては彼女にもお腹の子供にもよくないわ」
「飲んでいただくのは、経口補水液のほうが良いでしょうか?」
「いえ、あれは塩分が強いから、どうしても食事が摂れない時以外はできるだけ食事と水のほうがいいわ」
「ああ、確かにお腹に子供がいると、塩の摂り過ぎもよくないですね」
神殿に仕える神官として出産に立ち会う機会もあったのだろう、コーネリアはすぐに納得した様子だった。
「夜中に目が覚めた時に食べられるよう、エドに何か作ってもらえるよう頼んできます」
「お願いね。セレーネに貧血改善の時に出していた料理の材料があれば、それを使ってくれるように伝えてちょうだい」
マリーは頷いて、礼を執ると部屋から出て行った。先ほどまでの悲壮な様子は見当たらず、ここに来た時よりも足取りも僅かに軽くなっている。
「秋に収穫した大豆も少し加工しましょうか。大豆は必要な栄養が色々と入っていてお得なのよね」
お得という響きが面白かったようで、マリアが声を潜めて笑う。コーネリアはナターリエの頬に触れて、労し気にその顔を覗き込み、やはり安堵したように微笑んでいた。
「早く元気を取り戻して、お肉なども食べていただけるようになって欲しいです。料理長の食事なら、きっとすぐに肉付きも良くなりますね」
「妊娠中に急に体重が増えるのもあまり良くないらしいけれどね。後は、魔力の浄化がどれくらいの頻度で必要か、十分注意を払っていきましょう」
ナターリエの魔力中毒がお腹の中の子の持つ魔力由来ならば、浄化しても時間が過ぎればまた症状が出て来るだろう。出来るだけ彼女が苦しまない頻度で浄化を行う必要があるし、その都度「鑑定」することで体調の観察をすることも出来る。
経過を記録しておけばパターンも掴めるようになるはずだ。
――なんだか、本当に実験に付き合わせてしまっているようで悪い気もするけれど。
マリーがアンナを連れて戻ってきたので、バトンタッチして部屋から出ると、セドリックとオーギュストが揃って丁寧に騎士の礼を執ってくれる。
「お疲れ様です、メルフィーナ様」
「二人とも、寒いのに待たせてごめんなさいね。……ナターリエは、多分もう大丈夫。私たちも今夜はもう休みましょう。さすがに疲れてしまったわ」
「そうですね。ひとまず急ぎの問題は解決しましたし、全ては明日にしましょう」
「日本にいた頃は全然寝る時間じゃなかったのに、流石にこっちの時間に慣れちゃったよ」
マリアも緊張の糸が切れたのだろう、声に少し眠たげな色が混じっている。
娯楽らしい娯楽のないこの世界では、就寝はとても早い。貴族も平民も特別な理由がない限りは、夕食を終えたらすぐにベッドに入るのが一般的だし、領主邸もそのスケジュールで動いている。
「みんなお疲れ様。――二人とも、のんびりした休日のはずだったのに、なんだか大変な一日になってしまったわね」
「釣りに行こうって誘われたのが今朝だなんて、嘘みたいだね」
クスクスと笑うマリアにコーネリアもそうですねえと頬に手を当てて眉尻を落とす。
「でも、後味が悪いままベッドに入らずに済んで、よかったです」
「だね」
別館に部屋があるコーネリアと別れ、領主邸の本館に戻りセドリックとオーギュストとマリアにお休みを告げて、寝室に入る。
ドアが閉まる音が響き、ようやく一人きりになり完全に緊張感が緩んだのと同時に、ドクン、と心臓が強く打ち付けた。
胸がぎゅうっと締め付けられるような感じがする。足に力が入らなくなってしまって、口を両手の平で押さえながらふらふらとベッドまで移動して尻もちをつくように座り込む。
そのままぽすりとベッドに倒れ込んで、天井を見上げながら、途方に暮れるような、なんだか呆然とするような気持ちだった。
ナターリエの体から、魔力過多による中毒症状を取り除き、そうしてみて、自分が同じことになっても同じことが出来るという確信を得ることが出来た。
それはとりもなおさず、北部に嫁いできてから――アレクシスとの和解を果たした後はなおさら、どうしようもなく行き詰まっていた問題がひとつ、解決したことになる。
出来るだけ考えないようにして、いずれその時がきたら自分が選ぶ道は決めていたはずなのに、その決意が再びぐらぐらと揺らいでいた。
アレクシスに、この事実をどう言葉にしていいか分からない。
彼がそれを聞いた時、どう反応するかも想像することが出来なくて、それが怖い。
――そう、怖いんだわ、私。
これまでは、アレクシスは家族間で起きた避けようのない問題を繰り返さないために、メルフィーナはそれこそ命がけになる事態を回避するためにという、互いの利害が一致していた状態だった。
その上で、エンカー地方の領主として継承に問題が起きないよう、そう遠くない未来にアレクシスとの別れを決断しなければならないと思っていた。
時間を掛けて覚悟を決めて、たくさん準備をして、円満に別れた後も領地経営の良きパートナーとしていられるだけの信頼関係を構築して……その予定に、突然新たな可能性を投げかけられた。
彼が理性で子供を作るつもりがないというなら、まだいい。けれど心を取り出して眺めることは出来ず、目に見えない心の傷というのは、想像以上に根深いものだとメルフィーナ自身も思い知っている。
その場合、メルフィーナが魔力問題を克服したことは、彼の古傷を抉ることになるのではないだろうか。
メルフィーナ自身もエンカー地方に来て、自分が泣くことも出来ないほど傷ついていたのだと気が付くのに、丸二年近くが必要だったほどだった。
今だって、結局自分は選ばれないのではないか……両親にすら愛されなかった自分を選んでもらえるとは思えないなんて、そんな気持ちを消せずにいる。
これまで保ってきた均衡が崩れたとき、アレクシスはどう考え、どう判断するのだろう。
――話し合わないといけないわ。
これまで散々、アレクシスに一人で判断するなと苦言を呈し続けてきたのだ。自分が同じ轍を踏むことはするべきではない。
どんな結果になろうと、知らないふりをしてやり過ごせるものではない。ならばきちんと話し合い、お互いが納得した上で今後のことを決めなければならない。
ベッドに横たわったまま、しばらく天井を眺めて、ごろりと寝返りを打つ。
たとえこの先どんなことになろうとも、選べる道が多いに越したことはないはずだ。
行き詰まり、遠からず別れを選ぶしかなかった状況に比べればこんなに幸いなことはない。
今はまだ、どう転がっていくのか予想出来ない未来を怖いと思う気持ちの方が強いけれど、それも含めて、自分一人で決めてはいけないことなのだろう。




