420.騎士の嘆願と厳しい態度
マリーが戸惑う様子のウィリアムの肩に手を添えて、領主邸の中に入っていくのを視界の端で捉えながら、改めて、何が起きたのかと強い戸惑いが襲ってくる。
ヘルマンは荒野に同行してくれた騎士で、岩屋まで共に行ってくれた人だ。
気さくで距離感の近い冒険者たちと違い、マリアに対して一線を引いた態度ではあったものの、メルフィーナの妹であると名乗っていたこともあり、丁寧に接してくれた。
騎士としてスマートな振る舞いをしていた彼が、雪かきはしているとはいえ湿って冷たいだろう地面に膝を突き、苦し気に頭を下げている様子は胸に来るものがあった。
「あの……」
とにかく、立ち上がってほしい。そして何をしてほしいのかきちんと説明をと思ったけれど、オーギュストがそれを遮るように素早くヘルマンとマリアの間に体を滑り込ませる。
「オーギュスト……」
こちらを振り返らないまま首を横に振られて、言葉が出ない。意味もなくこんなことをする人ではないと分かっているから、何も言えなくなってしまった。
「マリア様、妻は私の子を身ごもり、重度の魔力中毒を患っています。腹の子どころか、このままでは妻すらいつ神の国に旅立つかも分からない状態です。命も財産も騎士旗でも、私の持つ物は全てを捧げます。どうか、妻と子を救っていただけないでしょうか……!」
「勝手なことを言わないでちょうだい」
その言葉に厳しく答えた声は、メルフィーナのものだった。
「セドリック。兵士たちを下がらせて」
「はい、すぐに」
「オーギュストはマリアを中に」
「かしこまりました。マリア様」
手を差し出されるのは、いつものエスコートと同じだ。けれどこの手を取れば、ヘルマンに背を向けることになるだろう。
妊娠中の魔力中毒に関してはまだ触れたことがないけれど、荒野で魔力に中てられているのを回復で和らげることが出来たのだから、おそらく出来る。結果がどうなっても試してみるだけならノーリスクだ。
馬車の中は寒いだろう。せめて妊婦を中にといつものメルフィーナなら言うだろうに、門前払いでもしそうな厳しい様子だ。
いつもは優しく誰に対しても親切な人たちの厳しい態度に、ひどく戸惑ってしまう。
「余計なことは言わないから、ここにいさせて」
「マリア様」
「ヘルマン卿は、私に会いに来たんでしょ? メルフィーナ、姉様に任せきりには出来ないよ」
セドリックが騒ぎに集まって来ていた兵士や城館に勤める人たちを下がらせて、すぐに戻ってくる。メルフィーナの指示に従わない者はこの城館内にはいない。あっという間に前庭から人の気配が遠のいていった。
「オーギュスト、彼の名前は」
「ハインリッヒ・フォン・ヘルマン。オルドランド公爵家に代々仕える旗持ちの騎士であり、当人は中堅の騎士で、討伐では本隊を指揮しています」
「そう。――ヘルマン卿。私はメルフィーナ・フォン・オルドランド。身分については名乗る必要はありませんね? 顔を上げることを許します。私の質問に答えなさい」
「は……」
「私の妹に用があるみたいだけれど、彼女に何を求めているの?」
「妻を……妻と子の命を、救っていただくことです」
「なぜマリアにそれが出来ると判断したの?」
「荒野で行動を共にさせていただいた折に見聞きしたことと、現在の荒野の様子から、マリア様は特別なお方であると判断しました」
縋るように言うヘルマンには、それまで見せていた騎士らしい雄々しく立派な様子はなく、やつれて精彩を欠いていた。上げた顔を改めて見れば、髪は乱れていて、頬はこけ、ひどく青ざめている。
その様子に、もう何日もまともに食事をすることができず、眠れていないのが伝わってくる。自分も同じような状態になったことがあるから、その辛さはよく分かる。
「あなたがここにいるということは、討伐は終わったの? それとも戦線から逃亡した?」
「北部の騎士として、そのようなことは決して……。討伐は、年明け二週間が過ぎてもプルイーナが出現しなかったことから、今年は出現しないと判断されて、終了いたしました。現在は二つの部隊を残して、荒野は閉鎖されています」
メルフィーナの問いかけに答えながら、ヘルマンは感極まったようにぶるぶると震えた。
「どのような罰も私が受けます。どうか妻を助けて下さい。……前の妻も、私の子を身ごもり、心と体を壊しました。今も夢と現の間を彷徨いながら修道院で暮らしています。もう、あのようなことを繰り返したくないのです」
ぎりっ、と歯を食いしばる音が少し離れたマリアの元まで聞こえてくる。
メルフィーナは厳しい態度を貫いているけれど、どう判断していいものか迷っている様子だった。
優しい人だ。自分の気持ちだけで動くならばすぐにでも苦しんでいる人に寄り添いたいと考えるような、そんな人だ。
そのメルフィーナがこれほど毅然とした態度を取っているのは、ここが彼女の守る場所で、そこにはマリアも含まれている。
それが分かっているから、勝手な真似は出来ない。マリーもオーギュストもセドリックも、メルフィーナの判断を待つように押し黙っている。
騎士はとても誇り高いと聞いているし、セドリックやオーギュストを見ていれば、彼らが普段どれだけ砕けた態度を取っていても、その芯にはメルフィーナやアレクシスへの強い忠誠心があるのは、伝わってきていた。
ヘルマンだってそのはずだ。そんな彼が地面に膝を突いて全てを渡すから助けて欲しいと縋っている。
きっとマリアよりもメルフィーナの方が、その意味を深く理解出来ているのだろう。ここでヘルマンを追い返したら、メルフィーナは絶対に傷ついてしまう。
そんなことはさせたくない。
でも、どう言っていいのか分からない。
焦りに何度も何かを言いかけては喉で押し殺していると、マリーがウィリアムを連れて中に入ったまま開いていた扉の向こうから、いつの間にか領主邸の中に入っていたらしいコーネリアが出てきた。
「メルフィーナ様。とりあえず中に入ってはいかがですか? 料理長が温かい飲み物を作ってくれたんですよ。わたしも飲みたいので、中でのお話に交ぜてもらってもいいですか?」
「コーネリア」
空気を読まない態度を咎めるようなオーギュストの声にも、コーネリアは眉尻を下げて困ったような顔で微笑んだだけだ。
「絆されろという意味ではありませんよ。でもここはお話には向かないと思います。メルフィーナ様やマリア様のお体が冷えてしまいますから」
いつもおっとりとしているコーネリアであるけれど、困ったように笑っていると頬のそばかすも相まって、とても素朴で、気が抜けるような優しい雰囲気になる。
彼女の言葉に、張り詰めていた空気が少し和らいだのが伝わってきた。
「ヘルマン様も必死でしょう。このまま追い返しても素直に帰ってくれるようには思えませんし、それに、ヘルマン様は閣下がマリア様に同行を許した騎士ですから。主が女性の家族の傍に身を置くことを許したなら、騎士としてその信頼に背くようなことは、しないとわたしは思います」
周りの態度から見ても、ヘルマンがしたことはよっぽどこの世界の習慣から逸脱した行為なのだろう。
それでも、メルフィーナやマリアには決して危害を与えるような人ではない。ヘルマンは助けを求めているだけで、攻撃の意図がないのは明らかだ。
コーネリアのその言葉に、メルフィーナもふっと険しい表情を和らげた。
「そうね……ここは冷えるし、悪い風が入るとよくないわ。マリーとウィリアムも心配しているでしょうし、場所を変えましょう」
「はい。すこし落ち着くために、時間を置いた方がいいと思います。それと、荒野で一緒だったユリウス様も呼びましょう。ヘルマン卿の人となりについて別の視点をいただけるでしょうから」
コーネリアは相変わらず気負わない口調でそう告げる。
「そうね。セドリック」
「はい、すぐにメルト村に遣いを出します。二時間ほどかかると思いますが」
「わたしは客間に火を入れてもらってきますね。病人が話し合いの場に同席するのは難しいでしょうし」
再度、オーギュストに促され、今度は逆らわず領主邸に入る。ヘルマンには呼ばれた兵士が二人ついて、メイドたちが慌ただしく動き出していた。
「あの、コーネリア。ありがとう」
「ふふ、料理長のミルクティーを飲めば、みんな気持ちも柔らかくなってきっとうまくいきますよ」
「うん」
「あとでこっそり、奥様の様子も見てきます。メルフィーナ様があれほど厳しい態度を取られたことを無意味にしないよう、マリア様は、今は動かないでくださいね」
しっかりと釘を刺されて、唇を引き締めて、頷く。
この世界に来てから、深く考えずに手を出して痛い目に遭うのは、何度も経験したことだ。
自分だけが痛い思いをするならともかく、それでメルフィーナたちに迷惑はかけたくない。その気持ちは本当だった。