418.未来とちょうどいい枝
しばらく入れ食い状態で釣りを楽しみ、そろそろ休憩しましょうというオーギュストの言葉で湖から陸に戻る。
今日はふらりと遊びにきたので天幕の用意もないけれど、他に釣りをしにくる人が休憩に使っているらしい丸太がベンチのように転がっている。そこにマリアが腰を下ろすと、ウィリアムもやや戸惑った様子ではあったものの側の丸太に同じように座った。
兵士たちが乾いた枝を拾ってきてくれて、オーギュストがふわふわとした糸くずのようなものの上で道具を打ち合わせて落ちた火花を落ち葉に移し、息を吹きかけるとあかあかとした火が燃え上がる。それを細い枝に落とし、火の勢いが増したところで太めの枝を足していった。
「え、今どうやって火をつけたの?」
「火打ち金を石にぶつけると火花が散るので、それを火が付きやすい繊維で出来た火口に落とすと火種が出来ます。その火種に息を吹きかけると火になりますよ」
よほど視線が分かりやすかったのか、オーギュストが火打ち金と火打石を手渡してくれる。
「ぶつけると火花が散って危ないので、見るだけにしてくださいね。空気が乾いていますし、服に燃え移ると本当に危険なので」
「わかった。――こんなのがあるんだね」
ライター無しで火を熾そうとすると、マリアのイメージだと枝を手ですり合わせて回転させたものくらいしか浮かんでこない。
火打石に至っては、父親が時々見ていた古い時代劇に出かける時にカチカチと打ち付けているものという認識だった。
考えてみれば、料理はほとんどエドがしてくれていたし、荒野に出かけた時に焚火を囲んで休憩することはあったけれど、馬車を降りるともう準備は済んでいた。火鉢だって火が絶えないようにメイドたちが炭を換えてくれていたし、その他にも自分が見えないところでこうやって、快適に過ごすために細々と用意をしてくれていたのだろう。
「うー、あったかい。結構冷えてたね」
遊んでいる間は気分が高揚していたので気が付かなかったけれど、こうして火に当たると結構冷えているのが分かる。炎に手をかざすと急に血の流れが良くなったのか、すこし痒く感じるくらいだった。
「お茶淹れる道具を持って来ればよかったね」
「マリア様は、侍女は付けないんですか?」
「今でも沢山お世話してもらっている自覚はあるけど、さすがに最低限のことは自分でしたいかな。なんでも人にしてもらうのは、落ち着かないよ」
貴族の女性は身の回りの世話をする人がいるのが当たり前のようだけれど、メルフィーナもマリーが傍にいないときはお茶くらいは自分で淹れているし、公爵家で風呂から着付けの手伝いをしてもらった時も、本当に気疲れした。
アレクシスとは、彼がエンカー地方に滞在している時は当たり前のように朝食と夕食を一緒に摂っていたのに、場所が公爵家になると食事ひとつであそこまで物々しくなるものかとびっくりするし、こちらにはこちらの流儀があるのだろうと合わせたものの、その必要性も正直よく分からない。
けれど考えてみれば、こうして一緒にたき火に当たっているウィリアムも、公爵家の跡取りで、いずれはアレクシスと同じ立場になるのだ。
「公爵家ではウィリアム君にも、侍女がついているの?」
「私は侍従が付いていて公式の場に出る時は全て任せていますが、身の回りのことは自分で出来るように少しずつ教育を受けているところです。冬の討伐には魔力耐性の低い侍従や小姓は連れて行けないので」
男性の貴族の世話は同性の侍従や年下の小姓が行うけれど、魔力耐性が強いある程度身分のある男性は大抵が騎士になり、体の小さな小姓は魔力に耐えきれないので冬の城まで連れて行けないのだという。
かといって騎士として身を立てている人に身の回りの世話はさせられないので、オルドランド家の主人は自分のことは自分で出来るようにある程度教育を受けるのだという。
「身の回りの事ってどれくらい含まれるの?」
「着付けとか、革鎧の装着です。年の近い従士がいればいいのですが……私にはまだいなくて」
ちらり、とウィリアムはオーギュストに視線を向けたものの、すぐにそれを逸らした。
オーギュストは子供の頃から……マリアの感覚だと幼児くらいの年頃から公爵家で暮らしていると聞いたことがあるけれど、ウィリアムにはアレクシスに対するオーギュストのような存在はまだいないということなのだろう。
ガードルードやテレサのように、女性でも魔力の強い人はいるのだからそういうメイドでは駄目なのかと思ったものの、多分駄目な理由があるのだろうし、その辺に関してはなんとなく地雷を踏みそうな気もするので黙っていることにする。
パチパチと、薪が燃える音がして、時折パチンと小さく爆ぜる。
「ウィリアム君はすごいよね。まだ子供なのに将来のことをちゃんと考えてて」
「私は、まだまだ足りないところばかりです。伯父様のように立派な人間になりたいと思うのに、少しも届く気がしません」
「そのために頑張ってるんだから、きっとなれるよ。――私なんか、自分がどうなりたいのかも、よくわかんないし」
目指す姿があるわけでもなく、自分がこの先どうしたいのかも、何を成すべきなのかも分からない。
日本にいる時は漠然と、大学に進学してそのうち就職するのだろうと思っていた。それが普通だと思っていたのに、ここでのマリアは「普通」に生きることが、とても難しい。
ひとつ知るたびに自分が世間知らずであることを思い知る。
領主邸のメイドや使用人たちはマリアと年が変わらないか、年下だってたくさんいるのに、彼女たちのように働いて生計を立てられるわけでもない。
持っている能力がいくら特別でも、特別過ぎて誰かに利用されずに生きることすら難しく、何もかも世話をされるのは居心地が悪いと思っているくせに、誰かに世話をされなければ生きていくことすら困難だ。
靴事業である程度自由になるお金は出来たけれど、それもメルフィーナにお膳立てしてもらったようなものだ。火の熾し方すら、今日やっと知ったくらいの自分が立派に生きている姿など、想像も出来ないし、したくない。
この世界で生きていく将来のことを考えてしまったら、日本に戻るのを諦めたことになってしまうような気がして、今目の前にあることをこなすことは出来ても、将来の自分のために何かを積み重ねていこうという気持ちにはなれなかった。
少しずつ気持ちに折り合いをつけて、こちらの世界で出来ることをやろうと思って荒野に出向けばあんなことになって、一時はどうしていいか分からなかったのに、少し時間が過ぎればこうしてまた笑って釣りを楽しむ日が来たりする。
本当にままならないし、意外と自分が逞しい気もするし、未来のことは相変わらず分からないままだ。
なんとなく沈黙が落ちると、ようやくコーネリアとスヴェンがこちらに合流してきた。つぼ型の籠を重たそうに両手で持っているコーネリアは、満面の笑みだ。
「沢山釣れました! 出掛けに料理長が、たくさん釣れたらスープの他にパイやグラタンに、ジャーキーも作ってくれると言っていたので、楽しみです!」
心底楽しみだというようなコーネリアの表情に、ふっと笑って、少し気持ちが軽くなった。
「未来のことなんて、それくらい先を楽しみだって思ってるほうがいいのかもしれないね」
「少し目先の事すぎませんかねえ」
ウィリアムの側にいるせいか、いつもより静かに控えていたオーギュストが思わずというようにぽつりと漏らす。コーネリアは首をちょこんと傾げたものの特に気にならなかったようでにこにこしているし、隣のスヴェンは同じ籠を両手に提げていて重たそうだ。
「二人とも火に当たって。寒かったでしょ?」
「いえ、私は……」
「ああ、釣りに夢中になっていて気が付きませんでした。ふふ、楽しいですね、スヴェンさん」
コーネリアがすとんと丸太に座り、ぽんぽんと隣を叩く。逡巡した様子を見せたものの、マリアとオーギュストが頷くと、そろそろとそこに腰を下ろした。
「そういえば、たまたま料理長からいただいたお塩を持ってきているんですが、獲れた魚を少し焼いてみませんか?」
「それ、完全にそのために持ってきてるじゃん!」
笑い声が上がり、マリアは勢いよく立ち上がる。
「でもお魚は新鮮な方が美味しいし、コーネリアに賛成! 二人は火に当たってて。ウィリアム君、魚を刺す枝を探しにいかない?」
「お供します」
笑って、長さがちょうどいいまっすぐな枝を探そうと言い合う。
未来の事なんて何も分からない。
だから今は、焼き魚のためのちょうどいい枝を見つける。それくらいの目標でいいのだろう。




