415.鐘の音と便利な力
水運によってすっかりエンカー地方の流通の要となったラクレー川の河港は、夏の熱気が嘘のように静まり返っていた。
ラクレー川は川幅があり冬でも凍結することはないものの、それでも川に落ちれば容易く命に関わる水温である。自然と水夫たちの行き来も減り、今は最低限止めることの出来ない流通を細々と行っているだけだった。
空は北部の冬らしく今日もどんよりと曇っているけれど、幸い雪が降る気配はない。雪かきをした河港の開けた場所に椅子を並べ、ストーブを焚いてマリーとセドリック、マリアとその護衛騎士のオーギュストと共にその時を待ちながら軽く談笑を楽しむ。
「そんなに寒くはないけど、息真っ白だね」
はーっ、と宙に向けて息を吐き、ほら、とマリアが子供っぽく笑う。
「ストーブから離れたら相当寒いわよ。川の側だから湿度は高めだけど――あ」
言いかけて、空を揺るがすようなゴォーン、ゴォーンと鳴り響く重たい鐘の音に、エンカー村の広場に目を向ける。
ここから鐘楼のある広場まで二キロほど離れているけれど、比較的平地であり、音を遮蔽するような背の高い建物もないこともあり、十分響いてくる。
きっちり十二回鳴り響くまで、誰も声を出さずに音に聞き入る。この分ならエンカー村の範囲内は全て聞こえただろう。
「ちゃんと聞こえたわね」
「うん、かなりしっかり聞こえた。この分ならメルト村まで聞こえたんじゃない?」
「天候にもよるけど、計算上は聞こえているはずよ。あとでユリウス様とレナに確認しましょう」
「エンカー地方の初めての鐘楼、成功だね」
お疲れ様、とマリアが笑い、マリー、セドリック、オーギュストも労いの言葉を掛けてくれる。
「職人が頑張ってくれたおかげよ。でも、ありがとう」
実際、鐘を作るのは本当に苦労した。
まず音を届けたい範囲から鐘のサイズを決定し、重さは六トンとなった。その重さの鐘を吊るだけの強度のある鐘楼を造り、鐘の材料――銅と錫をエンカー地方に運び込み、青銅に加工して、型を作るために大量の蜜蝋も用意した。
鐘の作り方は、おおざっぱに言えばマリアの靴の足型を作る時と逆の流れである。
まず蜜蝋を練って鐘の形を作り、出来上がったら粘土と砂を混ぜたものを流し込み、型が取れたら加熱して蜜蝋を溶かし流す。
そうして出来た型に青銅を流し入れて鐘の原型を作り、青銅が冷めたら型を壊し外して細かい部分を研磨し、完成だ。
言葉にすれば簡単だけれど、この過程にほぼ一年近くが掛かっている。
それでも大規模な工事としては、随分短期間で完成した方だろう。
ロドとレナという「演算」「解析」「分析」という「才能」が揃っていたことと、幸運というには不謹慎だけれど、飢饉の影響でエンカー地方まで出稼ぎに来る単純労働者が多かったのが重なった。
この世界の事業の大半は、マンパワーに依存している。人が多ければ多いほど、進行も速いのだ。
「年明けに間に合ってよかったわ。音も申し分ないし」
無事鐘楼が完成したことで、ロドとレナは公式に領主の仕事の職人としての実績を積んだことになる。
まだ二人とも成人には遠いけれど、年が明ければロドは正式に家臣候補として取り上げることになるだろう。
最後の鐘の余韻も終わり、周囲を警護していた兵士たちのざわめきも少しずつ戻ってきた。
「外国の鐘の音みたいだよね」
外国どころかマリアにとっては異世界の鐘の音だけれど、これだけの規模の鐘は大陸中にもまだ存在していない。マリアに限らず、誰もが初めての音だ。
あるいは帝国と呼ばれていた頃のロマーナにはあったのかもしれないけれど、少なくとも現存はしていないはずだ。
「正式な運用は時計台が完成してからになるけれど、当面は正午に一回鳴らして、住人にこの音の存在に慣れてもらうことになるわ」
「そういえば、正午ってどうやって決めるの? まず基準になる時計がないみたいだけど」
「地面に東西南北の線を引いて、その中心に棒を立てて、影が南の線にぴったり重なったら正午とするわ」
「え、でもそれだと結構ズレない?」
「ズレるわね。その辺は適当よ」
「ええー……」
誰もが時間が正確に分かるツールを持ち、バスも電車も決まった時間にきっちり来るのが当たり前だった場所から来たマリアにとっては、あまりに適当に感じたのだろう。分かりやすく呆れている様子にくすくすと笑う。
日の出とともに働いて日の入りとともに眠りに就くのが当たり前のこの世界に、精密な時間など需要がない。夏と冬では、日が出ている時間自体、全然違うのだ。
「いいのよ。時計なんて技術が進めば勝手に正確になっていくのだから、今が昼時だって分かればそれで」
それに、鐘は時間を周知するためというより、遠距離への連絡手段が主な役割だ。
たとえば普段正午を示す時は一回、村や集落で火事や大きな自然災害が起きた時には二回、魔物や危険な野生生物が出た時は三回、住人が家に戻り籠るよう指示する時には四回と、あらかじめ符牒を決めて周知しておけば、何か起きた時に隣の区画には連絡が回らず手遅れになるというような事態をある程度防ぐことが出来る。
突然鐘が鳴り響いては慣れていない住人たちは慌てふためくだろう。それを防ぐために日常的に鐘を鳴らすのが目的なので、多少ズレていても構わないのだ。
「通信の魔法とかあればいいのにね。念話とか、日本で読んだ漫画にはよくあったのに」
「原始的な電話ならなんとかならないこともないかもしれないけれど……いえ、さすがにオーバーテクノロジーね」
「あっちの世界の最初の電話って、いつくらいなの?」
「私たちが暮らしていた頃から百五十年くらい前かしらね……二百は経ってないと思うわ」
そう言って、ふふっと笑う。
「あちらで呼び出し音をベルというのは、開発者がグラハム・ベルだからなのだけれど、もしこちらで私が電話を作ったら、呼び出し音はメルって呼ばれるようになるのかと思ったら、ちょっとおかしいわね」
「あー、それはなんかムズムズするかも」
「まあ、きっと錬金術師の誰かがそのうち鐘の音が場所によって聞こえる時間が違うと言い出して音の仕組みについて調べ始めたりするわよ。人の好奇心ってそういうものだもの」
「あと欲しい魔法は、アイテムボックスとかかなあ。無限収納みたいな、物をこう、空間に仕舞って、どこでも取り出せるようなやつ」
「あれば便利だけれど……私の立場としてはそれ、かなり頭が痛い能力になるわね」
「あれ、そうなの? すごく便利そうだけど」
確かに、そんな力があればとても便利だろう。エールの大樽をいくらでも仕舞って、身一つで旅をして行く先々で売ることも出来る。
馬車での移動なり船で移動するなり、重量は非常に大きな負担になる。大荷物を持っていれば災害に遭った時逃げ切れないし、船が沈んで大富豪から農奴に落ちる商人だっていないわけではない。
特に商人は、喉から手が出るほど欲しい能力だろう。
「領主って、領地に出入りする荷物に掛けた税金が結構な収入になるのよ。物流が多いエンカー地方だと、特にそうなの」
「うん」
「そんな能力があったら密輸入、し放題じゃない?」
「あっ」
マリアはようやく合点がいったらしく、黒い瞳をぱちぱちと瞬かせる。
「そっか、ソアラソンヌに行った時コーネリアに入市税の説明をしてもらったけど、あれが意味なくなっちゃうってことか……」
「申告抜けしているものを共同体に持ち込むのって、こちらの世界だと犯罪なのよね。市門の管理の勅許を持っている商人なんかは、最初からそれ前提で高い勅許料を支払っていたりするし、それ以外でも馬車を加工して見た目より荷物が隠し持てるようにしたり、服の内側に袋を取り付けたり、やろうとする人は後を絶たないんだけど」
「そういうのって、バレたら、どうなるの?」
「全財産の没収、投獄、領主の性格によっては」
「よっては……?」
まあ、命を奪うことはしないだろう。なにしろ大変「有用」な能力だ。
利用しようと思ったら、メルフィーナでもいくつも案が浮かんでくるほどに。
「まかり間違ってそんな能力を手に入れたら、友情のためにも、私にも秘密にしておいてちょうだい」
「う、考えないことにする。人間地道なのが一番だね」
「それは本当にそうね」
笑い合っていると、ぴゅう、と風が吹いて不意に髪を揺らす。無意識に肩にかけていた毛皮の位置を直すと、すかさずマリーが声を掛けた。
「メルフィーナ様、そろそろ風が冷たくなってきましたので、領主邸に戻りましょう」
その隣でセドリックも頷く。二人は今日も過保護だった。
「そうね。今日はエドがごちそうを用意してくれているのだもの、早めに戻らなきゃ」
何しろ、一年最後の日だ。皆で集まって温かく美味しいものを食べて、のんびりと今年も色々とあったねなんて、お喋りをするのが相応しい。
本当に、今年も濃密な一年だった。きっと夜のとばりが下りるまで、話の種は尽きないだろう。
「家に帰りましょう」