41.あたたかな晩餐
十分ほど歩くと森が途切れ、見慣れた街道に出ることが出来た。
まだ麦の播種を行ったばかりで見晴らしのいい畑の向こうにメルト村が見えて、ほっとする。
この場所を選んだのは、これくらい離れていれば村からは肉眼では捉えられないということと、人里が近い安心感もあったのだろう。メルト村でも猟犬を導入しているけれど、猟犬は非常に人間にフレンドリーなので、やり過ごすのも難しくなかったはずだ。
農道に沿ってメルト村の入り口に差し掛かるとあっ、と高い声が上がり、入り口近くにいた数人のうち、一人が村の中に走り去っていった。残りは鋤や鍬といった農具を構えて現れる。
「メルフィーナ様! こちらへ!」
「賊どもめ、メルフィーナ様から離れろ!」
いつも穏やかなメルト村の住人が、これほど声を荒らげたのをメルフィーナは初めて聞いた。途中で歩けなくなってロアーナに抱かれていたリィに視線を向ける。
「ロアーナ、リィを抱かせてくれない?」
ロアーナは胸に抱いた娘をほんの少し、メルフィーナから隠すように体を捩る。強い敵意に晒されて、リィだけでも守ろうとしているのは明らかだった。
「決してリィに危害を加えさせたりしないわ。勿論、あなたたちにも」
逃亡の足手まといになることは分かっていても連れてきた、可愛い娘なのだ。ロアーナが迷うのは当然だったが、手を差し出すと、やがて諦めたようにリィを渡してくれた。
想像よりも軽いことに、胸がぎゅっと竦む。
「メルフィーナ様!」
ニドが、屈強な村民を十人ほど従えて村から飛び出してくる。そのまま鍬を振り上げて突っ込んできそうな勢いだ。
どうやらメルフィーナが姿を消したことは、すでにメルト村にも伝わっていたらしい。時間の経過から考えて、セドリックが早馬を出し近隣の村や集落に捜索を命じたのだろう。
「貴様らぁ! メルフィーナ様から離れろ!」
びりびりと空気を震わせる怒声に、腕の中のリィがぶるぶると震える。ニドと関わりが深いメルフィーナですら怖くなるほどの迫力だ。
勇気を掻き立てるためにリィをぎゅっと抱きしめた。
「ニド! 武器を下ろしてちょうだい! 彼らは私のお客様よ!」
ぴたり、とニドが足を止める。怒りで視野が狭くなっていて、メルフィーナが子供を抱いていることにも、今気づいた様子だった。
それでも猜疑は収まらない様子で、ギラギラと燃えるような目でメルフィーナの後ろに控える者たちを睨めつける。
セドリックがなんと言って捜索を命じたかは知らないが、全員ひどく痩せてボロボロの格好だ。領主の客だと言われても信じられるわけもない。
「彼らに食事を出してあげたいのだけれど、準備をしてもらっていいかしら」
「ですがメルフィーナ様!」
「お願い。みんなも、私はこの通り無事よ。何の問題もないわ。だから」
到底納得いかない様子でも、メルフィーナが言葉を重ねたことで一触即発の空気がふっと緩む。
「ふっ、うえ~ん!」
緊張感が途切れたのが分かったのだろう。リィが弾けるように泣き声を上げた。ぎゅっとメルフィーナの服にしがみついて、頭を押し付けている。
「大丈夫よ、怖かったわね、ごめんね、リィ」
あやすように言っても、いやいやと首を横に振るだけだ。仕方なくリィの背中をぽんぽんと叩きながら、ニドに歩み寄る。
「ニド、集会場で、食事の用意をしてください。大麦のお粥を人数分。全員ひどく飢えています。出来るだけ水分を多くして、柔らかく煮てあげて」
ニドはメルフィーナの抱いている子供に視線を向け、それから複雑そうな様子で後ろに控えている人々を見た。
ニドはかつて、貧しさの中で子供を亡くしたことがあると聞いていた。彼の中にある悲しみを想起させるような真似をしていることに胸が痛むけれど、強い同情心は、なんとか彼の怒りを鎮めてくれた様子だった。
「……、……分かりました」
「ありがとう。それと、心配をかけてしまってごめんなさいね」
「いえ……本当に、ご無事でよかったです。よろしければ、皆にも声を掛けてやってください。メルフィーナ様に何かあったらと思うと、誰もが生きた心地がしませんでした」
わかったわ、と応えると、ニドはぐいと腕で目元を拭い、メルフィーナの連れてきた人々に視線を向ける。
「メルフィーナ様が客人と呼ぶなら、喜んで食事を出そう。こっちだ」
そうして、三十人の難民たちは、メルト村に迎え入れられることになった。
* * *
「お湯はいつもの三倍くらい使って、上澄みの水が白濁するまでゆっくり炊いてね。塩もいつもより少なめにして、優しい味になるように」
「メルフィーナ様。この人数が腹を減らしているなら、家畜を一頭潰すことも出来ますが」
「それは明日か明後日以降、様子を見てからにしましょう。今日はとにかくおかゆと、温かいお茶をたっぷりと用意してあげてちょうだい」
メルト村は今年耕作した広大な畑が近くにある。この冬、その畑に麦を蒔くにあたり、エンカー村の人間が通う手間を省くため、短期宿泊が出来るよう共同で使える大きな建物が建てられていた。
ここには共同の炊事場と、井戸もすぐ近くにある。
宿泊施設以外にも豪雪などで住民の家が潰れたりしたときの避難場所として必要になるかもしれないと思っていたけれど、難民の受け入れ場所としてこれ以上適した場所はないだろう。
粥が炊けるまで炭焼き小屋の近くで暖まってもらいながら、順番で体を拭いてもらう。服は村人たちが有志で提供してくれた。そうして、集会場に戻ってきた者から順に薄い粥を渡していく。
「粗末な食べ物だと思われるかもしれないけど、あなたたちはすごくお腹が空いているでしょう? 怖いことを言うけど、そういう時に一気に食べると、死んじゃうの。しばらく柔らかいものから食べて、大丈夫そうなら普通の食事にしていくから」
「メルフィーナ様の言うことなら間違いないから、指示に従うんだ」
「メルフィーナ様はさ、どんなに変なこと言っていても、後でそれが正しかったって分かるんだよ」
困惑している様子の難民たちに粥を配りながらニドとロドの親子が口をそろえて言うと、器を渡された男性はそれに口をつけた。カッ、と目を開き一気に飲み干そうとするのを、慌てて止める。
「ゆっくり、ゆっくりよ! お願い、ゆっくり食べてちょうだい」
メルフィーナの言葉がおかしかったのか、ニドとロドは笑いながら、器を渡されていく難民たちの間をまわり「ゆっくり、ゆっくり」と言って回る。
「ロド、余りそうなら私にも少し貰えるかしら? お昼を食べ損ねてしまったわ」
「でしたら、もっと腹に溜まるものを作りますよ!」
「いいの。――彼らと同じものが食べたいの」
炊き出しの協力をしてくれた女性は迷いながら、木の器を差し出してくれた。中は薄く白濁した汁で、傾けてみると粥というより重湯に近いくらいだ。塩も少ないので淡白な味で、素朴な麦の味がする。
それでも、ほんの少しとろみのある温かいものを飲むと、ほっと息が漏れる。メルト村の人々もその様子を見て、ようやく最後の緊張が取れたようだった。
「メルフィーナ様。よろしければこちらも試してみませんか。この間教えてもらった方法で苦み抜きをしてみたのですが」
ニドはそう言いながら、小鉢に緑の野菜を煮たものを差し出してくる。見た目はほうれん草のおひたしにそっくりで、食べてみるとほうれん草よりはやや歯ごたえと苦みがあるけれど、それが淡白な粥のいいアクセントになった。
「あら、美味しいわ!」
「はい、粥に入れたり、ゆで上げて塩を振ったり、子供たちも喜んで食べています」
「よかった! これまで渋くて食べられなかった山菜があったら、それも試してみて。新しい発見があるかもしれないわ」
「そういえば、リッカの実は齧ると口の中が白大根みたいになります。これまで食べられないと思っていましたが、もしかしてこの方法でいけるかもしれません」
「リッカの実ってどんなものかしら」
初めて聞く名前に首を傾げて尋ねると、ニドはぎゅっとこぶしを握る。
「山に生えている木に生る実で、大きさは大人の拳くらいです。熟すると赤に近い夕焼けのような色になって、見た目だけはそれは美味そうなんですよ。でも齧るととにかく口の中が渋くなります。今の時期なら、まだ残っていると思います」
それは、前世で言う渋柿みたいなものではないだろうか。現物を見てみなければ分からないけれど、是非試してみたい。
「それ、食べられるように出来るかもしれないわ。もし手が空いていたら、リッカの実を二十個くらい手に入れてもらえないかしら。勿論お礼はするから」
「メルフィーナ様からお礼なんて受け取れませんよ。もしよければ、たくさん取ってくるのでやり方を教えてもらえませんか。うちの村で試す分も作ってみたいんで」
「ふふ、いいわよ」
「ああ、俺、リッカの実が生っているところを知っていますよ。明日にでも採ってきます」
「オレも手伝うぜ!」
「うまく渋が抜ければすごく甘くなるかもしれないから、食べてみたい人の分だけ採ってきてちょうだい」
村民たちと笑いあっていると、ふと視線を感じて振り返る。難民たちが粥の器を両手で抱えたまま、驚いたような、どこか悲しむような、そんな視線をこちらに向けている。
「ゆっくりって言っても、冷める前に食べたほうがいいわ」
そう伝えると、はっと思い出したようにめいめいに器を傾ける。
体を温めて、たくさん水分を摂らせて、今夜は暖かい場所で寝てもらおう。そうして体が栄養を受け取る準備が整ったら、骨が浮くほどに痩せた体をもとに戻さなければ。
「明日は、体調を見ながら平焼きのパンを焼きましょう。領都からいくらか家畜も買い足して、誰も飢えることのないようにするから」
ひっく、としゃくりあげる音が、どこからか響く。
それは水面に落ちた水滴のように、難民たちの間にあっという間に広がった。
「うまい……あったかくて、美味いです」
「っく、うっ、ん、こんなの、はじめて」
大人も子供も、森でメルフィーナに食って掛かった少年も、ボロボロと涙をこぼしていた。幼いリィだけは、メルフィーナと共に状況が分からずきょろきょろとしている。
「あ、あの、どうして泣いているの? あのね、すごくお腹が空いているときに一気に食べると本当に危なくてね」
やはり薄い麦粥では物足りなかっただろうかとオロオロしていると、ぷはっ、とロドに吹き出されてしまった。
「メルフィーナ様は何でも知ってるのに、すごい鈍感だよなあ」
「メルさまはそこがいいんだって、セドリックさんも言ってたよ」
どこかあきれた様子のロドの言葉に、妹のレナが言葉を続ける。
「なんでそこでセドリックの名前が出てくるの?」
「そういうところですよ」
「ねーっ」
メルト村の子供たちも、顔を見合わせあい、くすくすと肩を揺らしていた。
どうして笑われているのか分からないけれど、名前が出たことで、まだ一番大きいだろう問題が残っているのを思い出す。
メルト村についた時点でエンカー村に使いを出してもらった。騎馬で出てもらったので、もう知らせは届いているだろう。
しずしずと、冬の太陽が山裾の向こうに隠れていくのに、緊張を思い出してメルフィーナはぐっと手を握り締めた。
 




