409.浅い眠りと陣の諍い
天幕の外が騒がしくなったことに気が付いて浅い眠りから浮かび上がり、体を起こす。
かすかだが、言い争うような声が天幕の外から響いていた。簡単な夕食を終えて眠りについてから、そう長い時間は過ぎていないだろう。太陽が荒野を照らすにはまだ時間が必要な頃合いのはずだ。
何かあればすぐに行動できるよう靴は履いたまま寝ていたので、壁に掛けておいた外套を羽織って外に出る。夜の間は常に焚かれている松明の光に照らされて辺りの視界は悪くはないものの、夜の荒野の空気は油断するとそれだけで肌が切れそうなほどに冷たいものだ。
「何の騒ぎだ」
「閣下。お休みを妨げてしまい、申し訳ありません」
夜番をしていた騎士の一人、ヘルマンが頭を下げる。
元々眠りは浅く、特に公爵位を継いで以降はちょっとした物音でも目が覚めてしまうので、こうしたことには慣れている。構わないと首を横に振ると、彼も困惑したように夜陰に浮かび上がるほど白く光を弾く天幕を振り返った。
「哨戒に出ていた新兵が、今年はこのままサスーリカが出ないのではないかと軽口を叩いていたのを、神官殿が聞き咎めたらしく、その叱責で揉め事になったようです」
くだらないことで体力を消耗する愚かしさに、漏れた息が真っ白に凍る。
例年ならばそんな軽口を叩く余裕さえなかったので起きることもない諍いだったのだろう。
たとえぽつりとそのようなことを漏らしたとしても、むしろそれならどれほどいいかと思われたはずだ。
少し気持ちに余裕が出ると、別の問題が発生するらしい。アレクシスは寝起きによく痛むこめかみの辺りを指で乱暴に揉んで、ぐっと眉根を寄せる。
「すぐに仲裁してきますので、閣下は天幕にお戻りください」
「いや、私が出た方が早い」
陣に待機出来るのは強い魔力耐性を持つ者だけで、限られた人員は哨戒と交代で繰り返し、疲労から夜の間は泥のように眠っているはずだ。
これ以上騒ぎが大きくなって、ブルーノあたりが起き出して来たら、それこそ陣の全員が目を覚ますような大喝が響き渡るのは目に見えている。
白い天幕に大股で向かうと、かすかに聞こえていた声が次第によく聞こえるようになった。
金の髪をまとめて帽子を被っている神官と、まだ年若い灰色の髪の兵士が向かい合い、言い合いをしている。声はまだ抑えられているものの、次第に熱を帯びてきているようだった。
「ですから、出ないなら出ないに越したことはないじゃないですか! 死人だって怪我人だって出ませんし、無駄足を踏むほうがずっとマシでしょう!」
「プルイーナの討伐は絶対です。このまま出現しないなどありえないことです。――死ぬのが恐ろしいのは分かります。私もここにいるだけで恐ろしい気持ちはありますから。ですが、そんな願望をみだりに口にするのは、北部を支え散っていった先人たちの努力を踏みにじるような発言ではありませんか」
落ち着いた口調ではあるが、苛立ちの籠った白い法衣をまとった神官の言葉は的確に年若い兵士を激昂させたらしい。
「死ぬのが怖くて北部の兵士なんかできるわけがないだろう! 俺の父も祖父も、皆兵士として冬は討伐に参加したんだ! 伯父は脚まで失った! みんな子や孫のために戦ったのに、一人でもそんな兵士が出なければいいと思う事の、何が彼らを踏みにじる言葉だって言うんだ!」
「おい、もうよせハインツ!」
制止する年配の兵士を振り切るように声を大きくした兵士に、神官はまったく揺らぐ様子を見せない。
「農民は畑を耕し、神官と司祭は祈りと治療を施し、騎士と兵士は土地を守るために戦う。それは当然の理でしょう。当たり前の生き方をことさら大きいことのように叫ぶのはおやめなさい。兵士の生き方に不満があるのならば、あなたには土を耕して生きる選択も商人や職人として生きる選択もあるでしょう」
女の声は夜の静寂を壊さないほど静かだが、そこに含まれた棘はとても鋭いものだ。
家を継ぐことのない次男以下の男子が兵士になるのは珍しくなく、そして兵士に対してそれ以外の立場に戻ったらどうだというのは、お前には帰る場所もないのだから黙って仕事をしていろという痛烈な皮肉に他ならない。
ハインツと呼ばれた年若い兵士の怒りに火が着いたのは、見ていたアレクシスにも伝わってきた。
「このっ……!」
「そこまでだ。――これは何の騒ぎだ」
今にも掴みかからんばかりだった兵士に視線を向けると、頭に上っていた血が一気に下がったらしく、石でも飲んだような顔をして、抱きかかえるように止めていた兵士と共に礼を執る。
「これは、公爵閣下。お騒がせして申し訳ありません」
「神官殿。あなたの仕事は負傷した者が出ればそれを癒すことだろう。彼らの言動に意見するのはあなたの仕事ではないはずだ」
「……失礼いたしました。緊張感のない言葉を耳にしてしまい、つい余計なことを口にしてしまったようです」
その言葉を黙殺し、兵士に向き合うと、兵士は神妙な表情で膝を突いた。
「騒ぎを起こしてしまい、申し訳ありません、閣下」
「いい。今日は交代を手配して、割り当ての天幕で休め」
「いえ、哨戒に戻ります」
「冷静さを欠いた兵士は必要ない」
いつもならばそこで踵を返して天幕に戻っていた。けれど、ふと気が付いて、重たく口を開く。
「討伐の場で冷静さを欠いて、命を落とす兵士は多い。自分では冷静になったつもりでも、一度上った血は中々下りないものだ。一人でも傷つく者は少ないほうがいい。一晩眠って、明日からまた誠実に任務をこなせ」
「……はい、申し訳ありません」
「神官殿。荒野の夜は特に冷える。貴女も天幕に戻るといい。貴女が万全でいることは、陣全体の士気に関わる」
「そうさせていただきます」
高い身分の者にそう言われれば、どちらも矛を収めるしかない。仲裁というにはお粗末で、彼らは従う以外の選択肢などないのだからわざわざ細かく感情を言葉にして付け足す必要があるのかとも思う。
天幕に戻ると、つい重たいため息が漏れた。
とうとう明日には、年が明ける。
吹き付ける強い風もなく、高濃度の魔力による心身への負担も軽減されている今、この時期までサスーリカが一匹も出ないことも相まって、すでに陣に待機している騎士や兵士たちも変化に気づき、それをどう受け止めるべきか、戸惑いが陣全体に広がっている。
これまで長い間繰り返されて来た悲劇も、変化する時は一瞬で変わってしまうものらしい。先ほどのような諍いも、膨らみ切った不安や戸惑いが衝突して起きたものだろう。
ここに長年傍で仕えた側近がいれば、何かしら上手い手を考えたかもしれないが――。そう考えて、くっ、と口元に浮いた笑みは我ながら皮肉げなものだった。
自分の役割を果たすことばかり考えて、周りの人間のことを細やかに考える余裕もないままここまで来た。そうして自分が顧みなかったものは、結局他の誰かが補い、肩代わりしていたのだろう。
変わってみなければそれに気が付けない。自分もあの二人と大して変わらない、つまらない人間の一人だ。
外套を元の位置に戻し、ベッドに横たわり、毛布を掛ける。休める時に休むのも、討伐のこなすべき任務のひとつだ。
普段から眠りが浅く寝入るのにも時間が掛かるけれど、目を閉じてじっとしていればストーブで暖められた天幕の空気に、知らず知らず体が弛緩していく。
世界は変化し、そしてこの先も変わり続けるはずだ。一足早くそれを知っているからと言って、未来がどうなるかなどアレクシスにも分からない。
ようやくシンと静まり返った荒野の夜。閉じたまぶたの裏に浮かぶのは、日の光を浴びて黄金に輝くトウモロコシ畑に金の髪を風に遊ばせる、自分と同じ家名を持つ、けれどとても遠い女の姿。
彼女の周りでは、きっと先ほどのような諍いは起きないだろう。その細い指が指す方向は常に光に満ちていて、振り返って笑う顔を見れば、誰もがただ希望に満ちた未来を信じてみたくなる。
――君には敵わない。
討伐のために騎士団を率いることは出来ても、彼女のように人を希望の先に導く器は自分に備わらなかったものだと、もうとっくに思い知っている。
不思議なくらい、その敗北はアレクシスにとって苦いものではなかった。
光に満ちた光景を思い描くうちに、いつの間にか再び眠りの中に落ちて行った。
アレクシスは血圧低そうです。
誤字のご報告、いつもありがとうございます。
最近また誤字が多くなってしまって、丁寧に書けていないなあと反省するばかりです。




