404.怒りと猶予
荒々しい勢いで、音を立ててセドリックが立ち上がる。その手はきつく握られていて、拳は小さく震えていた。
「それが事実なら、私には到底、許しがたいです」
「今にも剣を抜いて神殿に殴り込みに行きそうな様子だけどさ、まあ友よ、落ち着きなよ」
「これが落ち着いていられるか! 北部が……閣下がこれまで、どれほどの辛酸を舐めながら冬の討伐をしてきたか……!」
セドリックがこれほど感情をあらわにしたのを見るのは、メルフィーナが拉致された時以来だった。あの時の彼はユリウスが言ったように、まさに剣を抜いて敵と見定めた難民にまっすぐに進んでいったのを思い出す。
彼は冷静で生真面目で、命令に忠実な騎士だ。だがその心は冷たく冴えているわけではなく、理性でそれを制御しているに過ぎない。
度の外れた怒りによってそれが表に出ると、メルフィーナでも止めるのは命懸けだった。
「セドリック。あくまで今のは予想と想像よ。なにひとつ確証があることではないわ」
「ですが……!」
「荒野での探索でプルイーナの核が発見されればかなり確率は高くなるけど、魔物の発生に関しては今でも謎の方が多いんだよ。神殿に白を切られては追及のしようもないだろう」
そう、どれだけ可能性が高くても、確証が得られるわけではない。核があるなら回収して、それを神殿に渡さずマリアに完全に浄化してもらうことが出来れば、以降は小規模な魔物が出ることはあってもプルイーナは二度と出現しない可能性がかなり高くなるはずだ。
今神殿に殴り込みをかけても何も解決しない。それどころか魔石の回収に横槍が入るなり、支障をきたす可能性が高くなるだけだろう。
「お願い、座り直して、一口でいいからお茶を飲んでちょうだい。……衝動的な怒りって6秒くらいしか持たないらしいわよ。それをやりすごせば、冷静になれるというわ」
そう言ってはいるものの、メルフィーナも腹が立っていないわけではない。
けれど今は、怒りに任せて行動するのが最も愚かなことだ。
「それに、私は毎年のプルイーナの出現に神殿が関わっている……何かしらの陰謀や悪意によってそうしているという考えには、懐疑的なの」
努めて静かな口調で告げると、セドリックはようやく、少し落ち着いたようだった。メルフィーナに言われたように腰を下ろし、カップの中身をぐい、と傾ける。
「レディ、なぜそう思うのですか?」
「単純に、神殿がそうするだけのメリットがないからです。彼らは魔石の浄化と医療事業を教会と分け合うことでその優位性を保っているわけですが、なんというか……信仰の押し付けのようなことをしないのが、気になっていました」
その言葉にはセドリックもユリウスもぴんと来ないらしい。これは、前世で宗教が民意に強い影響を与えてきた歴史を知っていなければ、感覚として理解しにくいのだろう。
「私やマリアがいた世界にも宗教はありましたし、長い歴史の中では教会や神殿と似た組織も多く存在しました。とはいえ、あちらには回復魔法も治療魔法もありませんでしたので、役割は随分違いますが」
「それで、どうやって王侯貴族に存在の優位性を保っていたんですか?」
「それに関しては神学という学問があるくらい長く複雑な話になってしまうんですが……大まかに言えば、死後の天国と地獄の存在と、魂の救済、それから神の代理人としての権威などですね。歴史を紐解けば、王位に就いたり皇帝になるためには教皇の承認が必要だった時代まであるほどでしたから」
それと比べれば、この世界の教会や神殿は、不自然なくらい世俗とは一線を画した組織のように感じる。
存続のための資金はエールやチーズを作ったり冠婚葬祭を取り仕切る際の寄付や心づけを基本としていて、社会的な優位性は治療魔法と回復魔法を扱えることによって維持している。聖職者は出家した元貴族か運営する孤児院から選ばれた平民で組織されていて、信者を募ることもしない。
魔物を敵対的なものとして扱っていないと聞いた時には驚いたし、貴族の令嬢としてもかなり高い教育を受けているメルフィーナすら、存在の重要さは知っていてもその教義について学んだ記憶がないほどだ。
それだけ外に知識や戒律について知られていないのだから、まともに布教活動などしているはずもない。
神殿、教会という名前ではあるものの、前世の「宗教」よりも、どちらかと言えばNPOなどが性質としてはよほど近いだろう。
「神殿が貴族や政治に口を出すことが出来るのも、彼らだけが治療魔法を使うことが出来るというのが最も大きな理由であり、いざというときに頼れなければ困るというのが大きな理由でしょう。コーネリアも以前言っていましたが、それに対して領主が必ずしも神官を厚遇しているとは限らず、出す食事すら配慮がない場合も少なからずあるそうですし」
そう考えると、露見すればオルドランド家どころか国や大陸中の権力者を敵に回しかねないそんなリスクを負ってまで、神殿がプルイーナを再生産するメリットはほとんどないことになる。
「ふむ……確かに錬金術師の中にも詐欺師を兼任しているような輩は、魂の存在と救済を説いて貴族から財産を吸い上げるような輩もいますね。それをもっと大規模に、領や国単位でやるようなものですか」
「大陸や世界規模まで広げられますよ。それも千年二千年、もっと長く維持することも」
「僕なんかはレディや聖女様の素性を知るまでは魂の存在すら懐疑的だったので、ちょっと想像がつかないですね」
神殿や教会がそうしないのは、出来ないからではないだろう。やろうと思えば容易いだろうし、組織が大きくなるほど欲深い人間も交じるだろうに、不思議なくらいその組織は神を祀りながら世俗的な一面を潜めている。
それが、布教や信仰による支配よりも、もっと何か別の目的があるようにも思えて、なんだか気味が悪い。
しばし黙り込んで、メルフィーナは細く、息を吐いた。
これまで折に触れて、プルイーナ討伐が北部にとってどれほど大きな負担であり、オルドランド公爵家の重責であったのか聞いてきた。
アレクシス自身が十六歳から毎年討伐に出ているというし、彼の父も弟も、その討伐の折に命を落としたという。
その私生活も、全て冬の討伐を中心に行われては彼を傷つけてきたのだろう。
繰り返されて来ただろうその歴史が、誰かの手で意図的に作られたものだったとしたら。
「……アレクシスに、どう伝えたらいいのかしら」
彼もきっと、腹を立てるだろう。けれどそれ以上に落ち込んだり、虚しさに囚われたりするかもしれない。
悲しみや苦しみは、怒りよりずっと長く続く感情だ。反芻するたびに痛みは新しいものになり、濃縮されていくことすらある。
彼の人生が失い続け、今あるものを維持することに心を砕き続けてきたのは伝聞でもよく聞いていた。
北部は今後、製糖産業の発展が控えている。安定して大きな収入になる事業と共に、今回の件でプルイーナが発生しなくなったとしたら、文化や医療に割けるリソースも増えるはずだ。
それ以後は彼が平穏に、幸せに生きていければ、どれだけいいだろう。
「公爵閣下は冷静な方ですし、魔石の探索には魔力耐性の強い信頼のおける人間が出来るだけの数必要です。協力していただくために、説明しない選択は出来ませんし、僕や他の者から伝えるよりレディから説明するのが、最も説得力があると思いますよ」
人の感情にあまり興味がないユリウスらしい、気楽な口調だった。けれど事実を端的に伝えられるほうが、メルフィーナも今は納得しやすかった。
「そうですね。そろそろ討伐に出発する頃でしょうし、年が明ける頃に一度使者を送って、会う必要があると思います」
「しかし、すでに魔石が戻されていたとしたら、今年もプルイーナは出現するかもしれませんね。水の浄化はつい先日のことですし、荒野にも濃い魔力が残留しているので、その間に随分魔力の補充はされたでしょうし」
「その場合、少しでも弱くなっていることを祈るしかありませんね」
そう答えて、もう一人、伝えなければならない、そして言いにくい相手を思い浮かべる。
――マリアに、天与と荒野の関係を、どう伝えればいいのかしら。
彼女自身のこれからの生き方の問題にも直結するだけに、伝え方には充分な配慮が必要になる。
早計な判断をしないように伝える必要があるし、同時にメルフィーナも準備しておかねばならない。
マリアがエンカー地方に滞在し続けるならば、市壁の建設は急務である。
「ただでさえ移住が増えているエンカー地方に、これ以上人の流入が増えるのは避けた方がいいでしょうね。聖女様がいるうちは魔物が出る心配はないでしょうが、荒野の二の舞にならないように留意も必要になります」
「ほんの二年ほど前まで働き手が足りなくて、来てくれる職人にも事欠いていたのに、皮肉な話ですね」
エンカー村と農奴の集落という少ない人的リソースしかなく、新しい圃場を造るにも農作業を行う人手が足りなかった。メルフィーナを拉致した難民たちとその家族を農奴として引き取ってようやく、予定の耕作面積を達成出来たほどだ。
今やエンカー地方は新しい建物が立ち並び、整然と道が整えられ、水路が通り街道も拡張と整備が進んでいる。立て続けに立ち上げた事業はどれも概ねうまく行っており、衛生環境と栄養状態の改善で子供の死亡率も随分下げることが出来た。
ソアラソンヌとの中継地点にある村には新しい宿場も完成していると聞くし、それは今後ますます、増えていくだろう。
領地経営の成功が、こんなことになるなんて想像もしていなかった。
「ひとまず、冬の間に今後の大まかな予定を立てて準備も進めていこうと思います。マリアに伝えるのは、もう少し回復してからでもいいでしょうし」
ようやく体を起こして食事が出来るようになってきたし、戻すこともなくなった。
重い話を受け止め前向きに考える余裕が戻るまで、今は心と体の安静が、マリアには必要だ。
「もう少しだけ、様子を見ましょう。きっとその方がいいと思います」
応接室の空気は重たく、セドリックも思いつめたような表情のままだった。
この冬を無事にやりすごしてから、後のことは決めればいい。
――自分とエンカー地方を天秤にかければ、エンカー地方の方が大事だって言うことができるのに。
その天秤の片方に、家族や友人が乗る時には、途端に判断が鈍ってしまう。
領主としての自分の、最も大きな欠点だ。
――ただ平和に、平穏に暮らすことが、こんなにも難しいのね。
すべての問題を見ないふりをして、自分の手の届く範囲以外のことは知らないふりをして生きていければ、あるいは可能かもしれないけれど、そんなことはしたくない。傷つく者は一人でも少ない方がいいし、飢えも寒さも苦しみも、減らせるものならそうしたい。
領地を発展させるのに非常に有用だった前世の知識だけれど、それゆえに、そんな大それたことも考えてしまう。
今はただ、アレクシスが――北部の騎士や兵士たちが、無事に戻ることを祈ろう。
――その後のことは、その時に、考えよう。
一時的な棚上げだと分かっていても、今はもう少し、猶予が欲しい。そう思わずにはいられなかった。